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ACT. 2

人々を呑み込んで拡大する黒い霧────否、霧のカタチをとって人間を食らっていた怪物は、遂に黙々と向かってくる女の気配を感じ取り、その動きをぴたりと止めた。

向かってくるのだ、食えばよかった。

だというのにそうしなかった。そうしたくない、そうするべきでない、それだけはやってはいけない、よくもまあそんな事を考えたものだ───。反芻する程に思考の中で増幅する警戒信号。

本能が警報を促している。あの人間の女は天敵だ。アレはこの生命を破壊できる。逃げろ、逃げろ、逃げろ、にげろ、ニゲロ。

おまえは既に、食われる側に回っている!!


「 ───────────────!!!」

怪物の「全身」で眩い光が連鎖して発生し、何かを激しく擦り合わせたような高音と共に、幾つもの稲光が周囲へ無造作に拡散した。

そのうち一つが女の顔の横を通過し、背後のアスファルトを鈍い音を立てて抉り取った。

「 雷……真似してたのは雲ってわけか。」

眉一つ動かさずにそう呟き、女はその場で足を止める。

獲物がこちらを捉え、反撃を選んだ。故に狩りは戦いへと昇華され、''獲物''は''敵''になった。ここからは戦って、勝ち、どちらかがどちらかを排除する。

女は対等な脅威として目の前の怪物を認めると、その場で無造作に右腕を振った。女の周囲を無軌道に漂っていた光はこれを合図に一点に寄り集まり、その手に一振の片手剣を握らせた。

これに対し、怪物は小さな放電を繰り返しながらその雲の体積をみるみるうちに収縮させていく。

街角の一角を埋め尽くすほどに拡がっていた雲が薄くなると共に、怪物は遂に''怪物''と形容するに相応しい肉体を持って、女の前にその正体を顕した。

薄く硬い鱗に覆われながらも、しなやかにうねる長い胴体。それとは不釣り合いに小さく生えた前腕。枝分かれして後頭部へ伸びる、無骨な双角。

ある世界では天候の脅威を具現化した象徴として、ある世界では強運を齎す守り神として君臨した異世界の神獣。

「 ふーん。アンタには''龍''がそう見えてんだね。」

女の声は、どこか虚しさを含んでいた。

女は龍が何であるかを知らない。その名前も歴史も、この世界には存在しないからだ。

世界の外から流れ着いた記憶の断片は、文明に空いた空洞を埋める為の記号化された資源に過ぎない。そこに宿る名前も物語も、もう誰も気にしていない。

自分たちの明日を保障する為とは言え、この世界が自ら拡げた傷口に際限なくたかる蛆虫と戦う日々に、その足取りは幾度となく止まりかけていた。

名前の褪せた世界。

名前ばかりの未来。

名前の無い戦い。

それでも。

「 "レディ・シアノア"─────?」

その名前だけは、女に戦う理由を与えてきた。


声のした方へ振り返ると、逃げ遅れたと思しき市民の男が物陰からこちらを覗いているのが見えた。

「 今からコレ振り回すから。逃げた方がいいよ。」

レディ・シアノアはこれ見よがしに剣をひらひらさせ、男を追い払うジェスチャーをした。

「 あ、あんた…ホントに、レディ・シアノアなのか?助けに来てくれたのか!?」

「そうだよ、私はレディ・シアノア。助けてあげるから、こんな所で死なないで。」

動揺の収まらない男に伝わるよう、シンプルな言葉でこの場を離れるよう背中を押した。

数刻の逡巡ののち、男はようやくおぼつかない足取りで逃げていった。

それを背中で感じながら、シアノアは再び目の前の敵を凝視する。

「 なんて事ない通常個体ナルテクスに見えたけど...もう階梯が上がってる。」

それは、この短時間でより強い個体へ強化されるだけの材料が揃っていたという事だ。否が応でも、ここまでに''消化''されていったであろう知らない市民の存在が脳裏によぎる。

シアノアは懐を漁り、銀色の懐中時計を取り出し、蓋を開いた。

続いて、耳元に伸びた無線機を起動する。

「 こちらシアノア。琉彦ルヒコ、聞こえる?」

〈聞こえてますよ。トラブルですか?〉

シアノアの呼びかけに対し、雑音混じりの少年の声が返ってきた。流暢で知性を感じさせる口調に反して、その声色自体はかなり幼い。

「 中央街区に大型のナルテクスがいて、倒す事にした。さっきVTも起動した。」

〈もうニュースにもなってますよ。ティファレト地区でこんな派手に出てくるなんて......今、何分経ちました?〉

「 そろそろ十分。接敵までは......ごめん来そう。あっ、ミュートしないと鼓膜トぶから。」

〈えっ?〉

会話の途中で、龍の異形は既に攻撃態勢を整えていた。

次の瞬間、龍の口元から圧縮された熱線が咆哮と共に一直線に放たれた。大きな爆発音と共に、周囲のあらゆる構造物は一瞬で飴のように溶解した。大きく跳躍してこれを回避したシアノアは空中から通信を再開する。

「 え〜っと、琉彦の右耳殿はまだ生きてますか?どうぞ。」

〈 あなたがミュートしなかったせいで、遺族の左耳さんが最高裁まで争う決意ですよ。どうぞ。〉

琉彦の声に不機嫌さが上乗せされている。どうやらマトモに爆発音を耳元で聞いてしまったらしい。

「 あー、とりあえず十五分ちょうだい、それまでに倒しておく。狭い路地が多いし、回収設備は5分で間に合う所でも問題なさそ────」

〈長いです。五分で倒してください。〉

「 は?」

丁度その時、自由落下を終えたシアノアの身体が眼下の龍と再び接敵した。鋭利な爪と剣が三度打ち合い、鍔迫り合いを経てシアノアは再び大きく飛び退いた。体勢を立て直しつつ、再び耳元に指をあてがう。

「 ごめん、何て言った?五分で倒せって言ったかと思った。」

〈ええ。五分で倒せって言ったので、五分で倒してください。〉

「 はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!??」

体格十倍、射程数十倍、手数不明、弱点不明。

通常個体の枠を出ない階梯とはいえ、理論上は少なくとも10人以上の完全武装兵と戦車二台は欲しい相手だ。

学校に通っていれば、このヴェスペライアでは子供でも分かる程無茶な要求である。

とは言え、脅威の上がり続ける異形を野放しにするのもリスクがある。単純にその個体が齎す被害は大きくなるし、既に現れた異形は同格の新たな異形がヴェスペライアめがけて顕現する目印アンカーにされてしまうからだ。

〈それに似てますよね、この状況。『第二十二話』に。〉

納得いかないという反応のシアノアへ琉彦が囁いた問いかけは、シアノアにとって絶対に無視できない一言だった。

「え...あの、琉彦さん...?」

〈こんな時、『彼女』ならどうしますかね?〉

「..............................。」

数秒の沈黙ののち、シアノアは長めの溜息を吐いた。

「琉彦さ、言っていい事と悪い事って、あっからね?」

〈ええ、僕もそう思います。

それで、レディ・シアノアなら、そいつを何分で倒すんですか?〉

「三分で充分だよ、ばかやろーーー!!!」


剣を握り直し、レディ・シアノアは前方へ全速力で飛び出した。

全てを焼き切る熱線は強力だが、照準を合わせて放たれるまでの隙がかなり大きい。

一気に距離を詰められた龍は二発目の熱線発射を諦め、眼前の敵へ爪を立てた。

龍と人間、種の壁を超えた異次元の騎士どうしの剣戟が始まる。

体格と一撃の威力で劣るシアノアは、周囲の壁と床を次々に蹴りながら龍の四方八方を三次元的に飛び回り、その機動力を封殺する。

一対のみで、哺乳類のそれを模して生えた龍の腕は背後の斬撃を庇い切れず、斬撃に囲われた空間の中でミキサーのように切り刻まれていく。

「くそ...やっぱり硬い...!」

しかし、そのどれも致命傷には居たり得ない。

ナルテクスと呼称される異形は体表が鉱石のような黒い物質に覆われており、中途半端な材質ではマトモに当たっただけで折れてしまう程、斬撃に特化した武器とは相性が悪いのである。

刃毀れこそしないものの、シアノアは速やかにこの体表を削り切り、どこかに隠された弱点を露出させる必要があった。

「 ───────!!」

至近距離で、龍が咆哮する。

手応えの証左かとも考えたが、それは蓄積したダメージによる悲鳴ではなかった。

周囲が例の黒い霧に取り囲まれて暗くなる。

その中で目を凝らすと、切り刻まれて飛び散った筈の体表の破片が、落ちる事無く宙に浮いていた。それぞれが、カチカチと小さくお互いを打ち付け合いながら。

「コレ...やばい────!!!」

そう感じるや否や、足首を無理やり捻り、次の跳躍で一気に龍から飛び退いた。

刹那、時間がコマ送りにされたかのように、知覚するより早く一筋の閃光がシアノアの身体へと食い込んだ。

雲の中じゅうに削り出された破片を擦り合わせる事で、再び擬似的な落雷を発生させたのだ。

あと百メートル後ろへ飛び退けたとしても、千分の一秒で襲いかかるこの攻撃は躱しようがない。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

電撃により痙攣し、シアノアは為す術なくダイレクトに地面へ全身を打ち付ける。

強化された肉体では死に至りこそしないが、いっそ意識が飛んだ方がマシな程の苦痛が、薄れぬ感覚をフルに使って這い回る。

それでも、右手の剣を取り落とすようなことは決してしなかった。

『彼女』───否、レディ・シアノアなら、そんな事はしないから。

そしてこの攻撃は、思わぬチャンスを呼び込んだ。

会心の一撃を放った筈の龍が、自らの放電によって痙攣し、苦痛に喘いでいた。

制御を失った黒い霧は晴れ、代わりに身体からは全身を灼かれた事で発生した黒い煙が吹き出ていた。

あの体表は武装として使えるだけでなく、天候を模した強すぎる火力から身を守る為にも機能していたのだ。

やはりそうだ。これら異形は知性なき侵略者でしかない。

出来るのは無作為な模倣行為だけ。認識し、判断して、物事を理性で司る力を持っていない。

だから勝てる。だからこそヴェスペライアの人間は、まだ人間であることを誇り、理不尽な終末世界に抗い続けていられるのだ。

「立て......ここで決める...!!」

再び、レディ・シアノアが標的へと駆ける。

目指すは龍の胸部──表面の殻が剥がれ落ちて露出した、その奥で象徴的に脈動する物体。

龍は天を仰いだままだが、危険を検知したのか、周囲で無数に散らばった比較的大きな身体の破片を矢のように連射する。

シアノアの足取りは一切衰えず無造作に飛来する破片を剣でいなし、躱し、打ち返す。

大胆で精密な剣捌きと、踊るようなステップワーク。泥臭い戦場から隔絶された舞踏会は、

命のやり取りが放つ光明だけを掬う様に、見る者を華麗かつ残酷に圧倒する。

そしてひときわ大きく仰け反った事で顕となった龍の急所が、白銀の剣先に貫かれた。

再起不能となった身体がずしり、と緩やかに横たわり、喧騒に埋め尽くされていた街道に元の静寂が戻った。

「戦闘終了。琉彦、片付けるよ。」

無線機を起動し、シアノアは琉彦へ短く連絡を入れた。

戦うまでが仕事の正規兵であればこれにてめでたしと言った所だが、シアノアのような賞金稼ぎ(バウンティハンター)となるとそうはいかない。遺体の回収や事務処理を請負う業者も慈善事業ではない。相手がフリーランスと分かれば、数十項にわたる信用情報をくまなく調べられた上に、高い金をふんだくられる事は容易に想像できる。

可能な限り隠密に狩り、遺体は公的に回収される前に闇市へ流し、素早く報酬を得る。

これがヴェスペライアの働き手のうち二割を占める者たちにとっての日常なのだ。


しかし、琉彦からの応答を確認するや否や、レディ・シアノアはその場を立ち去るべく颯爽と歩き出した。

この身は幻想を護り、その奇跡を辿る事で力を得る。そうでないモノとしては生きられない。

『彼女』は秀外恵中、完全無比な剣の化身。


つまり、レディ・シアノアはそんな事をしないのである。

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