ACT. 1
取り溢された世界線で、滅びに抗い剣を取れ。
その① ヴェスペライアについて
世界の果てが、眼前に広がっている。
辿り着くまで様々な形に想像されたそれは、結局のところ延々と続く高い壁でも、陸地が途切れた先で無限に広がる海でもなかった。
世界の果てが、眼前に広がっている。
それは私達の世界と外側を''ある''と''ない''という意味の領域で区切っていた。
道も、光も、文明も、時間も、空間も、あの先へは続いていない。ことばで言い表せる全てがそこで途切れている。
それどころか、''ない''領域はどんどん大きくなり、こちらの''ある''領域をどんどん侵し始めていた。
いずれ、ここには何も無くなる。無かった事になる。
私達は、この上なくシンプルで理不尽な世界の終わりに瀕した歴史の住人だと知った。
『ヴェスペライア』。
私達はいつもそう呼ぶから、あなたもそう呼ぶといいだろう。
ここは幾重にも広がる可能性の枝葉から振り落とされた、歴史の澱で出来た世界だ。
世界の果てが、眼前に広がっている。
その② 錯史界について
文字を書いては消したり、
納得のいく写真が撮れた後、ピンと来なかった幾つもの写真のデータを捨てた事はあるだろうか。
繰り返せる限りやり直し、より良いモノを選び取るという、誰にでもできる試み。
それと同じように、私達の世界も''まことあるべき歴史''を紡ぐべく、数多の選別の果てに存在している。
『錯史界』────いわゆる平行世界の観測に成功し、その言説がお伽噺でないと明らかになってから、およそ20年。
身を削り、苦労して得た筈の幸運が。必死に抗い、それでも振り切れなかった不運が。
どれもあらかじめ定義されたレール上での出来事に過ぎなかったという事実は、当時の人々にどれだけの安心や絶望を与えたのだろう。
世界のカタチが判明した、その5年後。
私達の世界が、滅びへ向かいだした。
絶えず歪み、狂い、消滅していく時間と空間。更には滅びの変数たる人間をいち早く抹消するべく、失われた空間からは異形の怪物が這い出てくるようになった。
そうでなければ見ることの無い光景を前に。
私達はこの世界が''選ばれない方だった''と思い知らされたのである。
その③ 続・ヴェスペライアについて
絵本の中の登場人物では、捨てられる絵本を救う事は出来ない。
それでも、ここからヴェスペライアの世論は二分された。
ある者は言う。錯史界を発見した科学の力で世界の崩壊を抑え、ありのままの世界を守るべきだと。
ある者は言う。『聖典』にある救世の予言に従い、生きる意志のある者は生涯をもって奇跡の降臨に身を尽くすべきだと。
過去の歴史に学ばんとする『条道派』と、未来の変数に縋らんとする『聖統派』。
両者の対立は街中のほんの小さな小競り合いからヴェスペライア全土に浸透し、各自治区の在り方に少なくない影響を及ぼす事となった。
仮に信条を同じくしていても、限りある資源を巡って対立が避けられない者達もいる。
ヴェスペライアの各地には、既に滅んだ世界や滅びゆく世界からこぼれ落ちた残滓が様々な形で''漂着''してくる場所がある。
歴史に選ばれず滅びゆく、あるいは既に滅び去った錯史界の残響が聞こえてくるこの場所を『辺獄』と呼び、私達は時代も生まれた場所もバラバラなそれらを掻き集め、生存の糧としている。
本来はどんな文化や背景の中で生まれたのか、がむしゃらに文明の骸漁りをするだけの私達が興味を持つ事は無い。
手元にあるものは食べてしまうし、誰かが持っていれば奪うのだ。
その④ 私達の敵と、戦いについて
生きるために必要なのは、食べること、働くこと、そして戦うこと。
まだ終わってもいない世界にうっかり殺されないように、私達は今日もフォークとペンと銃を器用に持ち替えながら生きている。
物心ついた頃から、運が良ければ老いて死ぬまで、この原則は変わらないだろう。
押し寄せる世界の壁に圧縮され続け、私達の世界は内側からも壊れ出している。
異常気象。重力異常。空間の欠落。居合わせた人間の精神異常───。
この対処を巡り、理想とされてきた社会秩序の実現に必要な部品は次々に喪われた。
私達はその代わりに、暴力でその孔を埋めてしまった。
行き場のない悲しみの連鎖が、怒りの伝播が、私達を暴力に縋らせた。
暴力は資源となり、言語となった。
そうするべきでないと誰もが分かっていながら、それでも。
私達に刃を握らせた脅威は、もうひとつある。
私達の世界に''ヒビ''を入れ、そこから這い出てくる異形の怪物達である。
その目的は、生き残っている人類の殺戮。
利益や信条で対立する者達もこれの前では咄嗟に手を取り合う程の、居てはならない絶対的な敵だ。
或いは。
そう解釈する事で、私達は切り離せなくなった暴力を必死に正当化しようとしているのだろうか。
その⑤ レディ・シアノアについて
常に戦いの中へ身を置く者達がいる。
その存在自体は物珍しくないだろう。どんな文明も、まずは食い扶持を狩る事が役割に変わり、始まっていくものだ。
その在り方の根本は今も変わっていない。
ただ、その対象も利益を齎す存在も同じ人間になったというだけの話である。
"レディ・シアノア''は、そんな利益の潮流に生かされた狩人達の中でも異彩を放つ存在だ。
直接その姿を見た者は少ない。彼女は宮廷に住む麗しい召使いとも、逆らい難い威光を携えた騎士の王とも例えられる。
ヴェスペライアの血生臭い規範の只中にありながら、レディ・シアノアはその独特な高貴さと、異形の怪物さえ標的とする実力を併せ持つ新世代の狩人として、注目を集めている。
彼女の名を覚えておくべきだと、
何故か、そんな気がしているのだ。
アイザック・アパルトメント著
『アバウト・ア・ヴェスペライア』32、33ページより抜粋
〈警告!〉
〈これは訓練ではありません!〉
〈警告!〉
〈これは訓練ではありません!〉
〈アンチ・ヴェスパーシェルの破損、及び錯圧の閾値突破を検知。〉
〈認知災害警戒レベルがVに引き上げられました。〉
〈以後、ここは深刻な認知災害に見舞われる危険性があります。〉
〈緊急時避難対応要項に基づき、速やかに避難を開始してください。〉
〈避難して下さい。〉
〈これは警告ではありません!〉
〈避難して下さい。〉
〈これは警告ではありません!〉
〈にげて〉
強引に本能を刺激する不快なメロディと視覚情報に踊らされ、つい一分前まで自宅のリビングで穏やかに過ごしていた人々が次々と路上に転がり出てきた。
逃げろ、逃げろ、どけ、たすけて、にげろ。
脚のついた単純な蓄音機に成り下がった者達は窓の外から警告を見逃した人々の不安を煽り、新たな蓄音機を増産する。
気付けばその人混みは止まる事を知らない大河となり、路面を満たしていった。
人々が迷わず同じ方向へ一目散に向かっていたのは、その脅威が既に眼前まで迫って来ていたからだ。
人々の背後に迫っていたのは、突如として街の中央から発生した黒い霧だった。
霧はただ無作為に拡散せず、生き物のように路地の間を低く這い、そこにいた人間を無作為に取り込んでいくのが確認された。
霧に捕まらないように離れる、というのはあくまで人間的な物の例えに過ぎない。ゆえに、霧が本当に意志をもって人を襲っているなどあってはならない。その筈だった。
論外の理不尽が、カタチをもって人類の脅威となる。
それがこの世界、ヴェスペライアが存続と引き換えに嵌められている枷である。
霧は緩やかなスピードで拡がりつつも、逃げ遅れた人々を確実に吞み込んでいく。一度霧の中に覆われた者は、その存在を否定されたように気配も叫び声もプツリと消えた。
この文字通り異次元の殺戮行為を恐れた人々により作られた河は、ひとたび巻き込まれれば、もはや一方向に流されていく以外の行動を許さなかった。
ただひとり、我を失ったはずの人々に無意識に避けられながら河を遡って歩く女を除いて。
女を避ける人々は、当然女が誰であるか、など気に留めてもいない。女も気にしていない。
ただ、どかしようのない障害物がそこにあるかのように、そもそもそういう形の道であるかのように、半径一メートル付近で綺麗に群集から避けられながら、女は黙々と歩き続ける。
これが本当の河だったなら、その様は女の時代錯誤な服装に良く似合う、神話の一幕に見えたかもしれない。
豪華絢爛な宮殿や王城で、複数の召使に身の回りの世話を任せながら緩やかな時を過ごす貴族のひとり。
女はそんな幻想そのものを身に纏っていた。
一方で、体の節々は簡易的で無骨な防具やベルトに締め付けられており、その衣装がれっきとした戦闘服である事が伺える。
目深に被った三角帽の奥では、身を包む衣装と同じ翡翠色の瞳が、女の向かうべき方向を鋭い眼差しで捉えていた。
やがて、女の視線の先──遡った先の''上流''にも、人々を食らう黒い霧が到達した。
霧は今もなお足元で逃げ遅れた人々を飲み込んで、留まることなく拡がり続けている。
女は臆することも足取りを止めることもなく、依然として真っ直ぐ霧へ向かっていく。
「 見つけた。」
静かに獲物へ忍び寄る狩人のように、そう呟きながら。




