第四話
やがて、舞踏会そのものに心の底から嫌気がさしたヴィンツェンツが、そっと隣で澄まし顔を保っていたフランツィスカの手を引いた。指先が触れ合った瞬間、彼女は既に答えを決めていた。
「もう限界だ。今度は僕から誘おう、フラー」
来賓客たちの目を盗んで逃げ込んだのは、煌びやかな大広間とは対極にある、熱気とハーブの匂いに満ちた厨房だった。突然の乱入に、料理人や給仕たちが銀のトレイを手にしたまま呆然と立ち尽くす。
「気にしないでくれ。ただの泥棒だよ」
ヴィンツェンツは悪びれもせずそう言うと、氷水で冷やされていたシャンパンのボトルを一本掠め取り、そのコルクを力任せに引き抜いた。そのまま瓶から直接シャンパンをあおる彼の姿に、フランツィスカは思わず声を上げて笑った。
「はしたないわ」
そう言いながらも、フランツィスカは彼からワインボトルを受け取ると、ドレスの裾も気にせず、自らも瓶に直接口をつけて深々と飲み干した。
喉を落ちる冷たい果実酒の酸味が、熱火した身体に沁みわたる。さらにそばに置かれていたローストビーフの端切れを指でつまみ、口へ運んだ。
「まるで野良猫ね、私たち」
「いいね。血統書付きの飼い猫より、よっぽど美味い飯にありつける」
厨房の重い木製扉を押し開け、裏口から外へと出ると、ひんやりとした夜の空気が二人を包み込んだ。
シェーンフェルト伯爵邸の広大な敷地には、深く鬱蒼とした狩猟場が広がっている。手入れの行き届いた庭園とは違い、こちらは月明かりの下、木々が好き勝手に枝を伸ばしていた。
「どこへ行くの、ヴィンツィ!」
「どこでもいいさ。あの退屈な連中の声が届かない場所なら、地獄の果てだって構わない」
フランツィスカが差し出された手を取ると、ヴィンツェンツは何も言わず駆け出した。ドレスの裾が絡まりそうになるのも構わず、彼女はその手を強く握り返し、共に闇の中を走り抜けていく。
フランツィスカのドレスは瞬く間に土で汚れていったが、彼女はそれを気に留める余裕すら失っていた。木の根に躓きかけては彼の腕に支えられ、笑いながらまた駆け出す。隠れる場所など、夜の中にいくらでもあった。
息を切らして木立の合間に駆け込むと、結い上げていた髪は幾筋か解け、頬には後れ毛が張りついている。誰の目にも触れさせたことのない、乱れた自分の姿だった。
「逃げるなんて、淑女のすることではないわね」
「逃げたんじゃない、略奪だよ。僕が君をさらったんだ」
「こんなところまで連れてきて、いったい私をどうするつもりなの」
「トロイアのパリス王子がヘレネーをさらった時、彼女に理由を訊かれてどう答えたか知っているかい。ただ、夜の美しさを分かち合うためだ、と」
ヴィンツェンツは息を弾ませながら、けれど楽しそうに笑った。上着のボタンはとうに二つほど外れ、クラヴァットも緩んだまま、彼もまた社交界の看板から抜け出た、一匹の野生の獣のような姿をしていた。月明かりが彼の髪を淡く照らし、その輪郭を輝かせている。
フランツィスカは木の幹に背を預け、夜空を見上げた。無数の星が瞬いていた。舞踏会の大広間で見上げたシャンデリアの光よりも、ずっと静かで、ずっと遠くて、そしてずっと美しいと、彼女は思った。
「ねえ、ヴィンツィ」
「何?」
「あなたが私に見せてくれる景色は、いつだって私が手を伸ばせなかった外の世界だわ」
ヴィンツェンツは一瞬、言葉を失ったように黙り込んだ。いつもなら軽口の一つも返してくるはずの男が、珍しく何も言えずにいる。
「あなたと一緒にいると、私は心の底から、本当の意味で生きているのだと思えるの」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヴィンツェンツの手が彼女の腰を抱き寄せた。逃げる間もなく、二人の唇が重なった。
夜風の冷たさと、互いの吐息の熱──そのすべてが混ざり合い、フランツィスカの頭の中を白く染めていく。
指先が絡み合う。彼の体温が、夜の冷たい空気の中で、やけに鮮明に伝わってくる。フランツィスカは彼の背に腕を回し、息が苦しくなるほど、その温もりに身を委ねた。
惹かれ合う心に、もう嘘をつくことなどできなかった。
やがて、どちらからともなく唇を離す。荒い息のまま、額を寄せ合ったまま、しばらく二人は言葉を失っていた。夜風が二人の間を通り抜け、遠くの梟の鳴き声だけが静寂を揺らしていた。
「フラー。僕たちなら、一生退屈しないと思わないか」
「……どうしたの、急に何を言うのかしら」
「結婚しよう」
囁くような声で、フラー、とヴィンツェンツが再び名を呼んだ。その声にはいつもの軽薄さが消え、ただひたむきな響きだけが残っていた。
「君を縛り付けたりしない。鳥籠なんて悪趣味なものは作らない。だが、君を奪ってトロイアを滅ぼす役目は僕のものだ。世間の有象無象にそんな大役、務まるわけがないだろう」
その一言に、フランツィスカの心臓が大きく跳ねた。心のどこかで、この瞬間が来ることを予感していたのかもしれない。だが予感していたからといって、覚悟が出来ていたわけではなかった。
心が躍る。同時に、長年抱え込んできた恐怖が、喉元までせり上がってくる。
「……ご存じかしら。パリスに連れ去られたヘレネーが辿ったのは、他人の情熱に人生を狂わされた挙句の破滅だけだったの」
彼女は俯いたまま、絞り出すように答えた。
「残念だけれど、この申し出はお断りするわ」
視線を上げれば、そこにどんな表情が浮かんでいるのか。彼を深く傷つけてしまったのではないかという恐怖で、どうしても彼の顔を見ることができない。
「……理由を聞いても?」
長い沈黙が二人を包み込み、夜の森の静寂が重く覆いかぶさる。ようやく、フランツィスカは胸の奥底でずっと抱え込んでいた本音を吐き出した。
「縛り付けたりしないなんて言葉、信じられない。……結局は良い妻になれ、子さえ産めば変わるだろうと周りに押し込められるだけ。私の意志なんて最初から無かったかのように、押し潰されるに決まっているわ」
一度あふれ出した言葉は、もう止められなかった。
「私は、子供が欲しくないの。誰に何と言われようと、産むつもりはない。……あなたに跡継ぎの一人もあげられない私が、あなたと結婚できるはずがないわ」
吐き出すようにそう伝え、彼女はようやく顔を上げた。心のどこかで、フランツィスカは夢見ていたのかもしれない。「子供なんていらないさ」と、彼がいつものように笑い飛ばしてくれることを。
この男なら、そう言ってくれるのではないかと。誰の型にもはまらないと嘯くこの食わせ者だけは、彼女を縛る呪いすらもせせら笑い、彼女の恐れごと連れ去ってくれるのではないかと。
だがヴィンツェンツは、悲しげに、それでいて諦めたように笑った。月明かりの下、その笑みは、彼女がこれまで見てきたどの表情とも違って見えた。
「……そうだね。僕には、後継が必要だ。……君では、駄目なんだ」
その言葉はこれまでのどんな皮肉よりも鋭く、フランツィスカの胸を貫いた。息が詰まり、視界の端が滲む。
彼もまた、この世界の理から逃れられる存在ではなかったのだ。どれほど破天荒に振る舞おうと、彼もまた家名を繋ぐ義務から逃れることはできない。
「……そう。わかったわ」
彼女は静かに一歩、後ろへ退いた。指先から彼の温もりが離れていく。それだけで涙が滲みそうになるのが自分でも不思議だった。
「さようなら、ヴィンツィ」
フランツィスカはドレスの裾を強く握り締めると、振り向かずに歩き出した。引き返さなければならない。あの息の詰まる、けれど自分に許された唯一の居場所である、あの舞踏会へ。
「フラー、待って──」
背後で彼の手が伸びる気配がした。言葉が紡がれようとした。だがヴィンツェンツの声は途中で途切れた。彼自身、なぜ呼び止めるのか、何と続けるべきなのか、何一つ思いつかなかったのだ。
伸びかけた彼の手が空を切って力なく落ちる気配を背中で感じ取り、フランツィスカはそれでも足を止めなかった。




