第三話
今シーズン最大の夜会は、シェーンフェルト伯爵邸の絢爛たる大広間で開かれていた。天上のシャンデリアが眩い光を撒き散らし、着飾った貴族たちがグラスを片手に噂話に興じている。
フランツィスカは壁際で、手持ち無沙汰にレースのグローブを弄んでいた。だが今夜は、その静けさを見逃してくれる者ばかりではなかったらしい。
彼女の前に歩み寄ってきたのは、社交界の重鎮と名高い老貴婦人たちだった。
「まあ、アルテナ伯爵令嬢。今夜も相変わらず、遠くから皆様をご観察なさるだけでいらっしゃるのね」
「……ええ。皆様の洗練されたお召し物や立ち振る舞いは、眺めているだけでとても勉強になりますもの」
「お若いのにこれほど欲のない淑女も珍しいことですわ。我が家にも、あなたのようにご自身の役割から控えめに身を引いたおとなしい娘がおりましたら、どれほど育てやすかったことか」
ご自身の役割、という言葉に、フランツィスカはすぐさま真意を察した。だがここで言い返せば、善意の忠告を悪く受け取る礼儀知らずな娘という評判が立つだろうし、かといって黙って微笑んでいれば、言葉の裏に気づかぬ愚かな娘だと思われるだけだ。
「殿方を立てる術を覚えぬまま時を重ねるのも、……ええ、それも一つの奥ゆかしい生き方かもしれませんわね」
反論も沈黙も等しく敗北につながる、実に狡猾な言葉の罠だった。幾度となくこの手の会話を交わしてきたはずなのに、慣れることなど一度もない。言葉にならない怒りだけが、澱のように溜まっていく。
「これはこれは。実に含蓄に富んだお話をなさっている」
不意に、聞き慣れた軽薄な声が割り込んできた。振り向く間もなく、ヴィンツェンツが貴婦人たちの輪の中に滑り込んでくる。助け舟だと思うには、あまりに彼の目が楽しげに輝きすぎていた。
「せっかくですから、僭越ながら通訳させていただきましょうか。皆様が仰りたいのは、要するにこういうことですね──『市場価値が落ちる前にさっさと安売りして従順な妻の座に収まれ、さもなくば誰からも選ばれずに見捨てられるぞ』と」
「ま……!」
「なるほど、手厳しい人生訓だ。……失礼ながら伺っても? これは経験に基づいたご意見なのでしょうか。もしそうならぜひ拝聴したいものだ。夫人が安売りされる側として過ごされた、輝かしい日々のお話を」
貴婦人たちの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。取り繕う言葉を探しあぐねる沈黙の中、ヴィンツェンツはにこやかに一礼すると、逃げるように立ち去っていく彼女たちの背中を、いっそ愉快そうに見送った。
「……社交界の重鎮を二頭まとめて討ち取るなんて、毒蛇すら呆れ果てるような手際だわ」
フランツィスカは開いた扇で顔の下半分を覆い、小さく息を吐いた。
「けれど……ありがとう、ヴィンツェンツ。胸がすくようだった。あの人たちの建前を正面から叩き壊すなんて、私にはとても真似できないもの」
「珍しく素直だね。頭を下げて僕の靴にキスでもしてくれる?」
「いいえ。残念なこと。今夜のあなたになら、靴でなければお応えして差し上げたかもしれないのに」
フランツィスカはくすりと笑い、誇り高く顎を上げた。ヴィンツェンツは短く笑うと、思いがけないほど優しい手つきで、彼女の頬へと指先を滑らせた。
フランツィスカが息を呑むより早く、その指先は彼女の目にかかりかけていたおくれ毛を耳の後ろへとかけ直す。
「気にするな。ああいう連中は、自分より弱そうな相手にしか牙を剥かない。だったら、僕が代わりに牙を剥いてやればいいだけの話さ」
事もなげにそう言ってのける彼を、フランツィスカはただじっと見つめた。目の前にいるのは、悪辣で、身勝手で、どうしようもない性悪の男だ。社交界の誰からも恐れられ、嫌悪される放蕩者だ。
だがこの男は、彼女がたった一人で立ち向かい、品格という檻の中で窒息しそうになっていた場所に、躊躇いもなく踏み込んでくれるのだった。
そのとき、大広間の高天井に響き渡る管弦楽団の音が変わり、重厚なワルツの旋律が流れ始めた。
「さあ、お喋りは終わりだよ」
ヴィンツェンツは瞳に不敵な光を宿すと、フランツィスカのレースに包まれた手首を強引に引き寄せる。
「ちょっと……! 何をするの、ヴィンツェンツ!」
「踊るんだよ、フラー。僕たちのための曲だ」
フランツィスカは反射的に身構えた。今宵もまた、何かとんでもない悪戯を仕掛けてくるつもりなのだろう。
案の定ヴィンツェンツは、宮廷ワルツのあの端正なステップなど歯牙にもかけなかった。彼はフランツィスカの腰を大胆に引き寄せたかと思うと、次の瞬間には彼女の体をふわりと持ち上げ、そのままくるくると宙で回してみせたのだ。
「や──やめて! ヴィンツェンツ、危ないわ!」
悲鳴に近い声を上げ、フランツィスカは咄嗟に彼の肩へしがみついた。周囲では格式を重んじる年配の紳士淑女たちが、口々に非難の声を上げている。
「なんて品のない!」「あれは一体どういう了見だ!」そうした囁きが、まるで嵐の前触れのようにフロア中を駆け巡っていく。
「危なくなんかないさ、僕を信じるといい」
そう囁いた声には確かな余裕が滲んでいた。事実、彼の足取りは危なげなく、むしろフランツィスカの体は、羽根のように軽々とフロアを舞っていた。
周囲の澄まし顔の紳士淑女たちが、驚愕と非難の入り混じった表情でこちらを凝視しているのが、目の端に映る。
「……あなた、なんてめちゃくちゃな人なの!」
最初は焦りと羞恥に染まっていたフランツィスカの胸の中で、しかし、何かがゆっくりと変わり始めていた。
長年、彼女を縛りつけてきた淑女らしさという名の見えない鎖──寸分の無作法も許されない振る舞い、悲しみも憤りも隠し通す頬笑み、そして耐え忍ぶことこそを誇りとする沈黙──そのすべてを、この男はいとも容易く、まるで最初から存在しなかったかのように踏み越えていく。
周囲から注がれる苛烈な視線も、呆れ果てたため息も、彼にとってはワルツの旋律を彩る背景にすぎない。
くるり、ともう一度体が宙を舞う。悲鳴のつもりで開いた口から、けれど飛び出したのは、悲鳴ではなく、抑えきれない笑い声だった。
「──もう、知らないわ!」
叫びながらも、フランツィスカの足は、いつしか自分の意志でヴィンツェンツの動きに合わせて跳ねていた。
はしたないほど乱れたステップの中で、フランツィスカは感じていた。自分を閉じ込めていた温室のガラスが崩れ落ち、その破片の隙間から、鮮烈で熱い光が差し込んでくるのを。
「ほら見てごらん、フラー。あの澄まし顔の連中がどれだけ滑稽か。これぞ舞踏会の醍醐味というものさ」
くるくると回りながら、ヴィンツェンツが耳元で囁いた。フランツィスカは涙が滲むほど笑いながら、彼の肩に額を寄せた。
「ええ、本当に──どうしようもないくらい、滑稽だわ」
シャンデリアの光が、二人の周りだけを、まるで祝福するように照らしていた。この瞬間だけは、格式も、身分も、社交界という舞台の重苦しい台本も、何もかもがどうでもいい。
フランツィスカは差し出された手を握り返し、ヴィンツェンツと二人だけの夜を踊り抜いていた。




