第五話
それからというもの、フランツィスカは自室に籠もりがちになった。窓の外では、夏の終わりを告げる冷たい雨が、しとしとと庭園を濡らしていた。
「もう、あの人に会うこともないでしょうね。ええ、それでいいの。それが最初からの決まり事だったのだから。すべて、ただの夏が見せた幻覚だったと思い込むことにするわ」
仕方がないと、頭では痛いほど分かっていた。けれど、理屈ではどうにもならない痛みが胸の奥を激しく締め付け、彼女を途方に暮れさせた。
社交の場にももう足が向かない。ヴィンツェンツという鮮烈な毒がいなくなってしまった大広間は、ただの苦痛で退屈な集まりへと巻き戻ってしまったからだ。彼と二人で駆け抜けたあの夜の森の記憶だけが、彼女の肌に消えぬ熱を残していた。
一方その頃、グラープシュタイン侯爵邸の書斎でもまた、ひとりの男が沈黙の中に沈んでいた。
「珍しいですね、坊っちゃんがそんな辛気臭い顔をなさるとは」
長年グラープシュタイン家に仕える従僕が、書斎で書類の山と睨めっこしているヴィンツェンツに、呆れたような声をかけた。
「うるさいな、放っておいてくれ」
「アルテナ伯爵令嬢のことでしょう。屋敷中の使用人が、坊っちゃんの様子がおかしいと噂しておりますよ」
ヴィンツェンツは苦い顔で深く溜息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。
「僕は間違ったことを言ったつもりはない。跡継ぎの心配をするのは、この家の次期当主として当然のことだろう」
「ええ、当然のことでしょうね。ですが」
従僕は、長年の付き合いから遠慮なく続けた。
「当然のことだけを口にして、大切な方を悲しませてしまうのも、また人の常でございます」
ヴィンツェンツは無言のまま、机の上に広げていた家系図の書類を、じっと見つめ続けた。
実のところ、フランツィスカが彼の元を去ったあの晩から、ヴィンツェンツの頭の中では、既にある一つの計画が動き始めていた。だがそれを彼女に告げるには、まだ時間が必要だ。
中途半端な形で希望を持たせ、また裏切ることになれば、今度こそ本当に彼女を失ってしまう。そう思うと、彼らしくもなく慎重にならざるを得なかった。
雨がようやく上がったある朝、アルテナ伯爵邸の玄関先が妙に騒がしくなった。
「お嬢様、グラープシュタイン卿が──」
言い終わらぬうちに、当の本人が何食わぬ顔で居間に足を踏み入れてきた。数週間会わなかっただけなのに、心なしか頬は痩せ、目の下には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。それでも、口元には相変わらずの不敵な笑みが張りついていた。
「……何の御用かしら、グラープシュタイン卿。予告もなく私的な居室へ踏み込むなんて、いくらあなたでもまかり通りませんわ。私たちが互いに下した結論に、何か付け加える余地でも残っていたかしら。……もう、話すことなどないはずよ」
「挨拶にしては冷たいね、フラー。 泥棒のように厨房のシャンパンを盗み飲んだ仲だというのに、ずいぶんと他人に戻るのが早いじゃないか」
「悪党との共犯関係は、夜が明ければ清算されるのが世の常ですもの。私にこれ以上、あなたの気まぐれな戯れに付き合う暇はありませんの」
「戯れ、か。……君は相変わらず、僕の真面目さを正しく評価してくれない」
立ち上がり、突き放すように背を向けようとした彼女の視界に、ヴィンツェンツがジャケットのポケットから取り出した一通の書類が飛び込んできた。
「言い訳を並べ立てに来たわけじゃないよ、フランツィスカ。……ただ、君にこれを見せに来たんだ」
「……それは何?」
「君が僕に突きつけた別れの手紙に対する、僕からの返信だよ。まあ座って聞いてくれ。長い話になる」
ヴィンツェンツは向かいの椅子に勝手にどかりと腰を下ろすと、種明かしをするように語り始めた。
あの晩以来、彼は持ち前の悪知恵と行動力を惜しみなく発揮していたのだという。まず彼は、方々の親族の家系図を洗い出すことから始めた。
グラープシュタイン家に連なる遠縁を一人ひとり調べ上げ、やがて地方の伯爵家に、聡明でありながら立場の低い十二歳の少年がいることを突き止めた。
「名はレオンハルトという。頭の回転が速く、算術と語学に秀でている。跡継ぎとしても申し分ない器だ」
だが、少年を養子に迎えるまでの道のりは、決して平坦ではなかった。「なぜわざわざ他家の子を」「実子を諦めるとはどういうことか」──そうした声を、ヴィンツェンツは一つひとつ、恐るべき弁舌と押しの強さで説き伏せていったのだという。
「僕たち二人の子供なんて生まれたら、手に負えない怪物になるに決まっている。それよりも、この賢い少年をグラープシュタイン家の養子に迎えるほうが、家門にとってよほど賢明な選択だ……そう言って回ったんだ。まあ、半分は本気だったけれど」
猛反対する親族たちを尽く言い負かし、根回しと交渉を重ね、そして数日前、ついに養子縁組は滞りなくまとまった。まさに稀代の食わせ者の面目躍如である。
「まあ、たまたま余っていた子を拾ってきただけさ。大した手間じゃなかったよ」
彼は軽薄な口調でそう言ってのけたが、フランツィスカは彼がどれほどの無理を重ね、どれほど多くの反対を押し切ってくれたのかを、痛いほど悟ってしまった。
あの実直な一言を撤回することなく、それでいて彼女の恐れを取り除くために、これほどの労力を惜しまなかったのだ。
「……どうして。どうして、そこまでして」
「決まっているだろう」
ヴィンツェンツは、珍しく真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「君が僕を嫌って逃げ回るなら、どこまでも追いかけて邪魔をしてやるだけだ。……僕以外の男と穏やかな人生を送ろうなんて、都合のいい夢は見ないことだね。君の退屈を蹴破る悪党は、僕一人で十分だろう」
フランツィスカの目にみるみる涙が溢れた。堪えようとしても、堪えきることができなかった。
「……ヴィンツィ。あなたって人は、本当にどこまでも身勝手で、性格が悪いわね」
彼は立ち上がり、フランツィスカの前に恭しく跪くと、手を差し伸べた。
「これで君は、誰かに望まれるがままの貴族の妻にならずに済む。僕の妻になってくれるかい、ツィツィ?」
周囲の圧力も、社交界の常識も、その悪魔的な手腕でことごとく踏み越えてきた男。稀代の食わせ者は、最後の最後で最大の一芝居を打ってみせたのだ。
「……世の淑女なら悲鳴を上げて逃げ出すところよ。そんな恐ろしいおとぎ話で求婚なさるなんて」
「逃げ出さずに僕の前に立っている君は、間違いなく世の淑女じゃないさ」
「後悔なさっても知らないわ。私の手を掴んだ以上、私はずっとあなたの隣で勝手気ままに振る舞いますもの」
「それは楽しみだ。僕を退屈させない人なんて、世界中を探しても君くらいのものだから」
「あなたこそ、私を退屈させないと約束して。私はいつでもあなたの元から逃げ出してしまえるのだから」
差し出された彼の手のひら。フランツィスカはゆっくりと、その手を取った。
「望むところだ。……愛しているよ、ツィツィ」
ヴィンツェンツは満足げに目を細めると、重ねられた彼女の手に、深く、恭しく口づけを落とした。
かくして、稀代の食わせ者と死に札の令嬢は、社交界という舞台の主役の座に、望むと望まざるとにかかわらず躍り出ることとなる。
二人の結婚披露宴は、後々まで語り草になるほどの騒動を巻き起こすのだが──それはまた、別の物語である。




