第一話_バルハート帝国
ジノーブス北部奪還から一夜。
野営地の朝は、大地を震わせる数多の蹄の音とともに訪れた。
「――いらっしゃったか。」
アーデルミノスが音のする方を見て、独り言ちる。
地平線の彼方から、砂塵を巻き上げて進軍してくる巨大な魔導馬車の列。
その中心、一際豪華な装飾が施された馬車に乗っているのは、この世界の調停者の一人。
「魔王、ローデウス様だ!」
兵士たちの叫びとともに、魔王ローデウスが降り立つ。
その圧倒的な威圧感は、疲弊した連合軍に「勝利の確信」という名の劇薬を注入した。
「勇壮なる戦士たちよ。我が来たからには、もはや一歩の退却も許さぬ。これより最終決戦の地、バルハートへと進軍する!」
その宣言だけで、士気は天を衝くほどに跳ね上がった。
清十郎は、騒然とする軍の中で静かに刀の感触を確かめていた。
いよいよ、すべてが始まる。
◇◆◇
連合軍は北上し、バルハート帝国の国境を越えた。
だが、帝都を目前にした高台で彼らが目にしたのは、予想していた「人の軍勢」でも「魔獣の咆哮」でもなかった。
「…なんだ、これは。」
アーデルミノスが、愛馬を止め戦慄する。
帝都バルハートを囲む広大な平原。
そこには、数百という「黒い影」が、整然と、そして無機質に立ち並んでいた。
それは人間ではない。
魔族でもない。
漆黒の霧を凝縮して人の形を成したような、顔も、表情も、声も持たぬ「影の住人」。
それらが武器を手に、微動だにせず連合軍を待ち構えていた。
そして、その影の軍勢の中には、明らかに異質な動きや「格」を持つ個体が混ざっている。
「っ、そんなまさか…!」
声を上げたのは、イルゼだった。
杖を握る手が激しく震えている。
「クライム…見てくれ!あれは、キフィルとドルンじゃないか!?」
イルゼが指し示す先。
数万の影の中核に、見覚えのあるシルエットが立っていた。
慈愛に満ちた微笑みを絶やさなかった僧侶キフィル。
そして、クライムを旦那と仰ぎ、巨大な斧を担いだ一つ目魔族の重戦士ドルン。
かつてセルスによって無慈悲に葬られた、クライムとイルゼの仲間、いや、その姿をした影がそこにいた。
「…っ!!」
その光景を目にした瞬間、クライムの顔から一気に血の気が引いた。
仲間想いで、正義感の強い彼にとって、死してなお陵辱される仲間たちの姿は、何よりも耐え難い。
クライムは溢れそうになるものを必死に口元で押さえ、よろめく足取りでその場を離れる。
そして、誰の目も届かない陣の端の草むらへと駆け込み、激しく込み上げるものを吐き出した。
一方、別の場所でも絶句する者たちがいた。
グレイとメイルートだ。
影の軍勢の中に、見覚えのある、二本の双剣を構える小柄な影を見つけたのだ。
「…あのバカ、まだ戦い足りねぇのかよ。」
グレイが苦々しく、吐き捨てるように呟く。
そこにいるのは、紛れもなくガルーダの影だった。
「イカれたあの子にお似合いの姿だけど…。あのクソ魔王に操られてると思うと、ムカつくわね。」
メイルートが杖を強く握りしめ、憎悪を剥き出しにする。
一方で、清十郎は冷静な目で影の軍勢を俯瞰していた。
「見慣れない影がありますね。」
他の兵とは明らかに違うのは、キフィル達の影だけではない。
「推測だが…あれらは、セルスが元いた世界の住人ではないか?奴はその世界での魔王。勇者や将軍に匹敵する者達を殺していても不思議ではない。」
横にいたアーデルミノスがそう呟く。
「自ら殺害した者の影を操る…ということですか。あのセルスならあり得そうですね。」
アーデルミノスと清十郎の推測を聞き、場にいた将たちの間に戦慄が走った。
「それにしても」とクラウハルトが影の軍団の先、バルハート帝都を見て続ける。
「帝国はすでに滅んでいたのだな…。」
そこに広がるのは荒廃したバルハート帝都。
かつての栄華は見る影もなく、ただ静まり返った死の都がそこにはあった。
「一筋縄ではいかないと思っていたが…この得体の知れない軍。攻略には難儀しそうだ。」
知将ポトフォウルが、無数にうごめく黒い影を見つめ、静かに、だが重く呟いた。
バルハートの空が、絶望の黒に染まっていく。
決戦の火蓋は、死者たちの無言の叫びとともに、静かに切って落とされようとしていた。




