第二話_土産
地獄は、空から降り注いだ。
悲鳴を上げながら逃げ惑う親子。
その後ろ髪を、急降下したワイバーンの鋭利な鉤爪が捉えようとした瞬間――。
風を切る鋭い音が響き、一本の矢がワイバーンの眼球を深々と貫いた。
「ギャアアッ!」
絶叫を上げてのけぞるワイバーン。
寸前で死を免れた母親は、腰を抜かしながらも上空を仰ぎ見た。
「止まるな!今のうちに逃げろ!!」
声を荒らげたのは、建物の屋根から飛び降りた「黒鉄の翼竜」のリクラットだった。
彼は着地と同時に次弾を番え、悶絶するワイバーンの喉笛を射抜く。
リクラット自身、この悲惨極まる都市からの撤退戦の最中。
冒険者組合への報告は済ませたが、防衛線は一瞬で瓦解した。
いまや彼にできるのは、撤退の足跡を血で汚しながら、少しでも多くの命を繋ぐことだけだった。
「くそっ!結局、俺の警告なんてこれっぽっちも役に立たなかったじゃねぇか!」
自嘲気味にぼやきながらも、リクラットの手は止まらない。
指先は弦で擦り切れ、矢筒の残りは心許なくなっていた。
それでも、目に入る魔獣を片っ端から射抜き、逃げ遅れた住民の背を押す。
ふと、瓦礫の山の前で立ち尽くす幼い子供が目に入った。
子供は、崩れた家屋の下に伸びる、動かなくなった人影に取りすがっている。
「ゆうしゃさま!ゆうしゃさま、たすけてぇ!!」
泣き喚きながら、何度も、何度も、救世主の名を呼ぶ子供。
マーベルは「北には光の勇者がいるはずだ」と言った。
だが、その予測は無惨にも外れた。
冒険者組合でリクラットが聞いたのは、「勇者行方不明」という耳を疑う絶望の事実だった。
「なんで…なんでこんな時にいねぇんだよ、勇者様は!!」
リクラットは悔しさに歯を食いしばる。
民を、世界を守るのがあいつらの仕事じゃなかったのか。
その時、子供の背後に巨大な影が落ちた。
地を這い、周囲の石畳を毒素で変色させながら迫る魔獣――ギガントバジリスク。
「危ねぇっ!」
リクラットは地面を蹴った。
踏み潰される寸前、子供の小さな体を抱きかかえて転がる。
「やだ!ママっ! ママぁ!!」
腕の中で子供が叫ぶ。
だが、瓦礫の下の母親はもう、ピクリとも動かない。
ギガントバジリスクは、獲物のわずかな鳴き声さえ逃さない。
その鎌のような首を鎌首をもたげ、耳を劈くような咆哮を上げた。
「くそったれが!!」
リクラットは残った矢を掴み、扇状に一斉掃射を放つ。
だが、超級魔獣の強靭な鱗の前には、鉄の矢先など豆粒も同然だった。
傷一つ、つけることができない。
猛然と突っ込んでくる巨躯。
リクラットは逃げ場がないことを悟り、せめてもの抵抗に子供を自分の体で包み込み、硬く目を閉じた。
(…ここまでか。)
――その刹那、視界が真っ白な爆炎に包まれる。
凄まじい衝撃波が走り、眼前のギガントバジリスクの巨頭が横倒しに吹き飛ぶ。
「リクラット!待たせたな!!」
耳に馴染んだ、野太い声。
顔を上げると、そこには立ち込める煙を割り、軍勢を率いて駆けつけたランド、シャゼル、マーベルの姿があった。
「リーダー…!?なぜこんな早く?」
「もともとジノーブス側に兵が集まってたようでな。あの後、すぐにローデウス側と合流できたってことよ。」
ランドが指し示した先。
そこにいたのは、整然と隊列を組み、魔獣の群れに果敢に斬り込む紫紺の鎧の集団――ローデウス直属、東部魔軍の兵士たちだった。
「できる限りの住人を助け、速やかに撤退せよ! 深追いは無用だ!」
凛烈な号令を響かせたのは、軍の先頭に立つ男。
東部魔軍将、ポトフォウル。
ローデウスは、ジノーブス連邦の異変に対し、即座に自らの精鋭を差し向けたのだ。
しかし、ポトフォウルの表情は険しい。
ジノーブス側からの防衛には備えていたが、今の北部に溢れ出しているのは「野生」を超えた軍勢だ。
消耗しきった三将軍や魔王本隊がいない現状、真っ向から戦える戦力ではない。
「魔獣どもは街の中心に集まっている。狙いは食害と破壊のみ。…今は、一人でも多く逃がすしかない!」
ポトフォウルの判断は冷徹かつ正確だった。
兵士たちが盾を並べ、避難民の通り道を確保する。
魔法兵たちがシャゼルと共に、接近するワイバーンを火球で迎撃していく。
だが、地獄はまだ序章に過ぎなかった。
突如、街全体を生物としての本能が拒絶するような重苦しい「圧」が支配した。
「…っ、なんだ、この気配は?」
先ほどまで咆哮を上げていた魔獣たちが、一斉に鳴き声を止め、地面に伏して震え始める。
阿鼻叫喚に包まれていた街が、不気味なほどの静寂に包まれた。
ランドも、リクラットも、そしてポトフォウルでさえもが、金縛りにあったように動きを止め、吸い寄せられるように空を仰いだ。
ジノーブス北部の象徴たる城の尖塔。
その頂に、巨大な「影」が音もなく舞い降りた。
漆黒の鱗は夜の闇を凝固させたかのように深く、街の一画を覆い隠すほどに広げられた翼は、空を切り裂く刃のようだ。
それは、これまで人類が対峙してきたどの魔獣とも――空の覇者であるはずのワイバーンとでさえ、生物としての核が決定的に違うことを本能に理解させる。
圧倒的な質量。
神聖さすら感じさせる、完成された暴力的美しさ。
その燃えるような黄金の双眸が、眼下に蠢く有象無象を、文字通り「塵」として見下ろしている。
「嘘だろ…あんな化け物、聞いたこともねぇ…。」
リクラットの声が震える。
この世界に生きる誰もが、その存在を知らなかった。数百年前に絶滅し、今や古い叙事詩や子供騙しの童話の中にしか存在しない、空想上の産物。
だが、古の知識を継承する魔王の将ポトフォウルだけは、その正体を知っていた。
「…まさか、そんなことが。」
ポトフォウルの顔から血の気が失せ、その声は戦慄に震えた。
「――ドラゴンだと…!?」
ポトフォウルの声が震えた。
それは、伝説の中にのみ存在するはずの絶望。
異世界の魔王セルスの「土産」は、もはや一国の軍勢がどうこうできる領域を、遥かに逸脱していた。




