第九話_それぞれの出発
「リア様がお目覚めになったぞ!」
入り江の喧騒の中、一人のマーマン兵が歓喜の声を上げた。
砂浜に設営された応急の天幕。
潮の香りと血の匂いが混じり合う中、リアはゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。
視界が白く霞む中、最初に映ったのは、厳格な表情で自分を見下ろす魔軍司令の姿だった。
「随分とひどくやられたものだな、リア。」
アーデルミノスが、皮肉とも労いとも取れる声で話しかける。
「アーデルミノス…か。」
リアは掠れた声で応じ、上半身を起こそうとした。
だが、腹部を貫かれた傷が熱い火を噴き、思わず苦悶に顔を歪める。
「無理をするな。まだ傷は塞がっていない。」
「…セルスは…あの女は、どうした?」
「引いた。…いや、去っていったと言うべきか。」
アーデルミノスの言葉に、リアは苦渋に満ちた表情を浮かべる。
西の海の覇者として君臨してきた自分を、子供の遊びのようにあしらったあの女。
その圧倒的な実力を思い出し、拳を握りしめた。
「私はこれから、セルスを追ってアマデウス様の城へ向かう。…お前はどうする?」
「我が軍の被害は…?」
「お前の部下たちが魔獣どもと死に物狂いで渡り合ったおかげで、壊滅は免れた。だが、今は消耗が激しい。」
リアは一度目を閉じ、戦場に散った同胞たちに黙祷を捧げるように静止した。
「あの女、魔獣まで従えていたのか…。どこまで理不尽な力を…。」
沈黙が流れる。
リアは、捕らわれた主のことを想い、再び重い瞼を開いた。
その瞳には、敗北の悔しさと共に、一縷の望みが宿っていた。
「アーデルミノス、アマデウス様を頼む…。」
短く、だが重い言葉。
魔軍司令は無言で頷き、背を向けた。
◇◇◇
入り江の端、潮風が吹き抜ける崖の下に、小さな石を積み上げただけの簡易的な墓があった。
墓標すらないその場所の前に、メイルートが力なく座り込み、その傍らにグレイが仁王立ちしていた。
「…あの子、いつもの調子で、笑顔のままだったわね。」
メイルートが、ポツリと呟いた。
脳裏に焼き付いて離れない、首を飛ばされた瞬間のガルーダ。
死の間際ですら、戦いの高揚に頬を染め、口元を歪めて笑っていた少女。
「まだ自分が死んだのも気づいてねぇんじゃねぇのか、コイツはよ。」
グレイが、自嘲気味に鼻で笑う。
その声は酷く掠れていた。
「…そうね。あの子なら、『首が落ちちゃった、キャハハッ!』なんて言いながら、冥土の土産を物色して回ってそういそうだわ。」
メイルートも小さく笑った。
泣き疲れた後の、乾いた笑いだった。
そんな二人の背後に、音もなく清十郎が近づいていく。
その足取りは、ガルーダが命を落とす前と何ら変わらない、静謐なものだった。
「皆さん、これからの予定は決まりましたか?ボクたちはこれからセルスを追いますが、皆さんはどうしますか?」
そのあまりに淡々とした、いつも通りの調子。
それが、メイルートの中で張り詰めていた何かを弾けさせた。
彼女は弾かれたように立ち上がると、清十郎の胸ぐらを両手で掴み、激しく揺さぶった。
「アンタ…!アンタにあんなに懐いてたガルーダが死んだのよ!?なんなのよ、その態度は!悲しくないの!?悔しくないの!?」
「おい、待てメイルート!落ち着け、怒りの矛先がちげえよ!」
グレイが慌てて止めに入るが、メイルートは止まらない。
「うるさい!こいつ、まるで何とも思ってないみたいな顔して…!人の心がないの!?」
掴みかかられ、揺さぶられてなお、清十郎の瞳は凪いでいた。
彼は抵抗することもなく、ただ静かにメイルートの瞳を見つめ返す。
「すいません。ボクは元々、そういった感情の機微に疎いようで。…不快な思いをさせてしまいましたね。」
冷徹とも、純粋とも取れるその言葉に、メイルートの力が抜けた。
この男に何をぶつけても、亡くしたものは戻ってこない。
「…まぁ、そうね。アンタに絡んだって、何も変わらないわね。」
メイルートは手を離し、深く、長く溜息をついた。
そして、瞳に再び鋭い炎を宿して言い放った。
「もちろん、一緒に行くわ!リゼアの首輪の秘密も、ガルーダの仇も…全部、あの女の先にあるんだから!」
その言葉に、グレイもまた獰猛な笑みを浮かべ、砕け散った鎧の破片を剥ぎ取った。
「はっ!ガルーダの野郎も、あの化け物女を殺してぇって地獄で叫んでやがるぜ!!清十郎、俺たちを置いていきやがったら許さねぇからな。」
◇◇◇
一方、クライムはキフィルとドルンが埋められた盛り土の前に、幽鬼のように座り込んでいた。
「どうして…どうしてこんなことに…。」
呟きは、誰に届くこともなく虚空に消える。
信じていた希望も、守りたかった仲間も、すべてが指の間からこぼれ落ちていく。
自分の無力さが、キフィルの涙が、ドルンの最期の言葉が、クライムの心を深く、暗い深淵へと引きずり込んでいた。
そこに、イルゼがゆっくりと歩み寄る。
その背中は、心なしか以前よりも小さく見えた。
「クライム…ここでは、俺たちは厄介者だ。長くはいられない。」
リアやアーデルミノスにとって、自分たちは「セルスの先遣隊」として現れた不届き者に過ぎない。
結果として自分たちが来たことで、この惨状が招かれた。
その負い目が、イルゼの肩を重く沈ませていた。
「一度、ジノーブスに戻るのが正解だろう。立て、クライム。」
しかし、クライムは反応しない。
ただ、膝を抱え、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返す。
「…俺が、もっと強ければ…。俺があの時…。」
「いつまでやってんだよ!」
イルゼが激昂し、クライムの胸ぐらを力任せに掴み上げた。
「俺たちは騙されたんだ!王女に、あの女に、体よく利用されただけなんだよ!そのせいでキフィルとドルンは死んだ!!お前が…『勇者』であるお前がしっかりしないで、どうするんだよ!!」
必死の叫び。
だが、クライムの瞳に光は戻らない。
絶望に塗りつぶされた若き勇者の顔を見たとき、横から一陣の風が吹き抜けた。
「――けっ。見てられねぇな!」
鈍い衝撃音と共に、クライムの体が砂浜を転がった。
グレイが、容赦のない拳をその頬に叩き込んだのだ。
「…何、寝ぼけた面してやがる。テメェの仲間を殺したのは、テメェの無力さじゃねぇ。あの化け物女だろうが!」
倒れ伏したクライムを見下ろし、グレイは血のついた拳を振った。
その瞳には、深い悲しみを焼き切るほどの、苛烈な闘志が宿っていた。




