第七話_魔王アマデウス
静寂が、耳を劈くほどに重かった。
磨き上げられた純白の大理石の床、天井を支える白亜の巨柱。
視界のすべてが白で統一された謁見の間は、神聖な神殿のようでもあり、同時に生気を削ぎ落とした巨大な墓標のようでもあった。
本来であれば、そこには誇り高き衛兵や、国政を司る側近たちが居並び、魔王への忠誠を誓う熱気に満ちているはずの場所だ。
しかし今、その広大な空間には、ただ一人の男だけが玉座に鎮座していた。
魔王アマデウス。
かつてその圧倒的なカリスマで魔族を束ね、他を寄せ付けぬ誇り高さで君臨した至高の王。
だが、今の彼の首元には、不気味に鈍い光を放つ「従属の首輪」が深く食い込んでいた。
その双眸は、爛々と輝きながらも、焦点はどこにも結ばれていない。
「…兄よ、なんという無様な姿だ。」
その静寂を破り、重厚な扉を押し開けて現れたのは、魔王ローデウスであった。
彼の背後には、北部魔軍将ディゾルブ、そして元アマデウス配下であり現在はローデウスの下に身を寄せる地竜将軍クラウハルト、飛竜将軍フェルディナンドが控えている。
本来、この謁見の間へと辿り着くためには、魔王領の誇る精鋭守備隊との熾烈な戦いを幾度も潜り抜けなければならないはずだった。
だが、彼らの全身には傷一つなく、戦塵の汚れすら見当たらない。
それこそが、この地を襲った「異常」の証明だった。
◇◆◇
時は数時間前まで遡る。
アマデウス魔王領の国境を越えた先遣隊からの報告を受けたとき、ローデウス軍を支配したのは、期待でも戦意でもなく、胃の底が冷えるような困惑だった。
視界に飛び込んできたのは、凄まじい抵抗の末に訪れた「死の静止」だった。
アマデウス魔王領の誇る城下町。
そこには、外部からの侵攻に備えて配備されていた強固な魔族軍、そして領地を守護していたはずの獰猛な魔獣たちが、凄まじい数で息絶えていた。
どの遺体も、武器を握り締め、あるいは爪を立てたまま倒れている。
魔族兵たちは防衛陣を敷き、総力を挙げて何かを迎え撃った跡があった。
魔法の残滓が壁に焦げ付き、街の至るところに戦いの激しさを物語る損傷が刻まれている。
しかし、それほどまでの抵抗を虚しくさせるほど、彼らは徹底的に殺し尽くされていた。
「…何が起きたというのだ、これは。」
フェルディナンドが冷徹な目でその惨状を射貫いた。
通りには魔族兵も、バルハート側の人間兵も、そして街人も等しく、物言わぬ肉塊となって横たわっている。
逃げ惑い、背後から襲われた者も少なくないが、それらもまた必死の逃走の末に力尽きたことが見て取れた。
「無抵抗な者も全て…。」
地竜将軍クラウハルトが、かつて命懸けで守っていた街の変わり果てた姿に、苦渋に満ちた声を出す。
「バルハート帝国が攻勢を仕掛けてきたようにも見えねぇな。魔族兵と共に何かと戦った形跡もあるぜ。」
ディゾルブが斧を握り直し、周囲を警戒する。
生き残った者は一人として見当たらない。
「アマデウス様は…陛下は、ご無事なのだろうか。これほどまでの地獄の中で、なぜあの城だけが、傷つくこともなく、これほど静かなのだ…。」
フェルディナンドが呻くように呟く。
彼らの視線の先、血の河が流れる街の向こう側に、一点の曇りもなく屹立する魔王城が見えた。
周囲の惨劇をあざ笑うかのように、そこだけが完璧な造形を保ち、不気味なほどの静謐を湛えている。
その城を見上げるローデウスの瞳が、鋭く細められた。
「…感じるぞ。兄、アマデウスの魔力の波動をな。」
ローデウスは一歩、また一歩と、死の街を抜けて城へと歩を進めた。
城の門は、招き入れるかのように無防備に開かれている。
廊下にも、庭園にも、動く者は一人としていない。
ただ、奥へ進むほどに禍々しい魔力の圧迫感だけが、津波のように押し寄せてきた。
◇◆◇
そして今。
玉座の間の中央まで歩み寄ったローデウス一行に対し、王座に沈んでいたアマデウスが、ゆっくりと腰を上げた。
その立ち居振る舞いには、首輪に繋がれ、自我を蹂躙されてなお、魔王としての天賦のカリスマが宿っている。
優雅でありながら、見る者をひれ伏させる圧倒的な存在感。
次の瞬間、アマデウスの体から目に見えるほどの黒い魔力の波動が、爆発的に溢れ出した。
その波動は謁見の間の空気を一瞬で凍りつかせ、大理石の床に蜘蛛の巣状の亀裂を走らせる。
「我が城に踏み入れる不届きものに死を。」
その声は、かつて大陸全土に響き渡った、威風堂々たる王の声音そのものだった。
しかし、その言葉にアマデウス自身の誇り高き感情は一切乗っていない。
ただ、首輪を通じて打ち込まれた「外敵の排除」という命令を実行するだけの、無機質な宣告。
その姿を見て、ディゾルブ、クラウハルト、フェルディナンドが一斉に武器を構え、己の魔力を限界まで高める。
「…。」
ローデウスもまた、拳を血が滲むほどに強く握りしめた。
兄、アマデウス。
自分にとって超えるべき峻厳な壁であり、魔族の誇りそのものだった男。
その男が、今や意志を奪われ、他者の都合のためにその至高の力を振るわされている。
その屈辱、その痛みは、同じ魔王の名を背負うローデウスには痛いほど理解できた。
「兄よ、今楽にしてやる。」
ローデウスの全身から、アマデウス同様の黒い魔力が解放される。
いや、似て非なる紫の魔力。
もはや、言葉による対話は不可能。
誇り高き王を、その不名誉な縛鎖から解放するために――残された唯一の手段は、全力の力をもってその縛鎖を砕くことだけだ。
感情を排したアマデウスの瞳に、漆黒の魔力が集束する。
白亜の謁見の間が、二人の魔王が放つ魔力の衝突によって、激しく鳴動を始めた。




