第六話_濁流
入り江は地獄絵図と化している。
ガルーダの冷たくなった首を抱きしめ、涙を流すメイルート。
片膝をつき、口から血を流しながらも執念でセルスを睨みつけるグレイ。
マーマン兵にリアの緊急回復を指示しつつ、鋭い眼差しでセルスから目を離さないアーデルミノス。
そして――。
「キフィル!キフィルっ!!」
ようやく金縛りから解かれたクライムが、血の海に伏しているキフィルを狂ったように抱きかかえる。
「ゆう、しゃ…さま…。」
掠れた、今にも消え入りそうな声。
キフィルは苦痛に顔を歪めることもなく、ただ震える右手をゆっくりと持ち上げた。
その白く細い指先には、自身の胸から溢れ出した鮮血がべっとりと付着している。
彼女はその血塗れの指で、クライムの頬を、壊れ物を扱うかのように優しく撫でた。
「泣かないで…ください。あなたは…みんなの、光……なん、ですから…。」
涙で視界が滲むクライムに、キフィルはかつてないほど清らかな、慈愛に満ちた微笑を向けた。
自分の命が尽きることへの恐怖よりも、目の前の青年が心折れることへの不安が、彼女の最期の言葉を紡がせる。
「…っ! キフィル、喋るな!すぐに、すぐに治癒魔法を…!」
「もう、いいのです…。私は、ずっと…勇者様の隣に…。」
キフィルの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
そして、その手は力なく重力に負け、砂浜へと落ちた。
「キフィル…?キフィル!!」
抱きかかえた体から、急速に体温が失われていく。
その惨状を、一つ目魔族のドルンは歯を食いしばりながら凝視していた。
視線の先には、血の海でキフィルを抱きかかえ、あまりの絶望に感嘆に暮れるクライムの姿。
「あんたを信じていた旦那の心を踏みにじり、そのうえ、キフィルまで…!!」
ドルンの単眼に、沸騰するような怒りの炎が宿る。
彼は、はち切れんばかりに膨れ上がった筋肉で愛用の巨斧を限界までしならせる。
「おおおおおっ!!」
咆哮とともに投じられた巨斧は、空気を爆砕し、一直線にセルスの眉間へと迫る。
それは一撃で城壁をも粉砕する、文字通りドルンの「命」を乗せた一撃だった。
「ふん、くだらんな。」
セルスは眉一つ動かさず呟くと、漆黒の剣を無造作に一閃させた。
金属同士が激突する轟音が響く。
だが、弾き飛ばされたのはセルスの剣ではなく、ドルンの放った斧だった。
それもただの飛散ではない。セルスは斧の回転を完全に制御し、投じられた時以上の速度で、正確に持ち主へと弾き返したのだ。
「バカなっ! 俺の斧を弾き――」
驚愕がドルンの表情を染める間もなかった。
ズ、ドォッ、と鈍い音が入り江に響く。
自らの武器である斧の刃が、ドルンの分厚い胸板を深く貫き、背中まで貫通していた。
「がふっ…!」
大量の鮮血を吐き出し、ドルンが膝から崩れ落ちる。
「ド、ドルン!!」
イルゼとクライムが彼の名を叫ぶ。
ドルンは薄れゆく意識の中で、必死にクライムの方を見やる。
「すまねぇ…旦那…。」
ドルンの単眼から、急速に光が失われていく。
尊敬する主、そして共に死地を越えてきた友であるクライム。
その姿を最期に瞳に映そうと、彼は震える血まみれの手を伸ばした。
だが、その指がクライムに届くことはなく、巨躯は物言わぬ肉塊となって砂浜に崩れ落ちる。
一瞬の静寂。
その骸を、セルスは感情の失せた瞳で見下ろし、短く吐き捨てた。
「――脆い生き物だな。」
自らの全力に耐えきれず、自壊するように果てた魔族への、それはあまりに無慈悲な弔辞だった。
セルスは漆黒の剣を鞘に納めると、視線を入り江の向こう側へと向ける。
「もう少し遊んでやりたかったが…どうやら、時間切れだ。」
セルスが低く、温度のない声で呟いた瞬間、背後の森から大気を震わせる重低音が響き渡った。
樹々がなぎ倒される凄まじい音と共に、森の闇から次々と「災厄」が姿を現す。
空を覆うのは、十数体のワイバーンの群れ。
その巨大な翼がはためくたびに、入り江には不吉な影が落ちる。
地を割り、砂を噴き上げながら這い出したのは数体のデスワーム。
そして、森の奥からは三体のギガントバジリスクが、その巨体で地形を塗り替えながら現れた。
「な…なんだ、この数は…っ!?」
生き残ったマーマン兵たちが、武器を握り驚きの声を上げている。
一体でも一国の軍隊を脅かす最上位の魔獣たちが、入り江という限定された空間にひしめき合っている。
それは、この場にいる全員の死を確定させるには、十分な量だった。
驚愕すべきは、その異様な光景。
本来、目に映るすべての生者に牙を剥くはずの魔獣たちが、歩み出したセルスに対してだけは、まるでそこに「何も存在しない」かのように避けて通っていく。
彼女を獲物と認識することさえ本能が拒絶しているのか、あるいは触れれば消滅する「虚無」か何かだと思っているのか。
魔獣たちはセルスを一瞥もせず、ただ彼女を起点に左右へと分かれ、怒涛の勢いで入り江へと流れ込んでいく。
セルスは一度も振り返ることなく、魔獣の濁流の中を悠然と歩き、森の闇へと消えていく。
その際、肩越しに冷淡な言葉を投げた。
「私からのプレゼントだ。…せいぜい楽しんでくれ。」
その言葉が入り江に落とされた瞬間、セルスの存在によって辛うじて抑え込まれていた魔獣たちの「飢え」が爆発した。
空を裂く咆哮、地を穿つ足音。
後に残されたのは、血の海の中で冷たくなっていく仲間たちと、逃げ場のない入り江を埋め尽くす殺戮の化身たち。
本当の地獄が、今幕を開けた。




