第五話_一瞬の出来事
「散れっ!!」
アーデルミノスの鋭い咆哮が入り江に響き渡った。
その場にいた全員が、弾かれたように距離を取る。
ただ一人、意識の抜け殻となったクライムだけをその場に残して。
(…なんだ、この女は。)
アーデルミノスの額から冷たい汗が伝う。
魔軍司令として、彼女はこれまでに数々の化け物や戦士と対峙し、そのすべてをねじ伏せてきた。
だが、目の前の女――セルス=バルハートから放たれるのは、強大な魔力などという言葉では片付けられない、得体の知れない恐怖だった。
(なんでしょうか、この違和感は…。単純に速いという次元ではないような…。)
清十郎は刀の柄を握りしめたまま、冷静に分析する。
神速の域にある彼の動体視力をもってしても、セルスの移動は予兆すら掴めない。
それはもはや技術の範疇を超え、因果を無視した「現象」に近い。
「魚どもに紛れて、何匹かゴミが混じっているな?」
セルスが低く、温度のない声で呟く。
その言葉を聞いたグレイは、構えた剣が震えるのを必死に抑え込んでいた。
(こいつがセルス=バルハート…。冗談じゃねぇ、近くにいるだけで本能が『逃げろ』と絶叫しやがる!)
だが、その凍り付いた静寂を切り裂き、ただ一人「歓喜」に突き動かされた者がいた。
強者との戦いを常に求め、死線に身を置くことを至上の悦びとする狂人。
南の勇者パーティーの一人、女戦士ガルーダだ。
ガルーダは獣のような瞬発力で一気に距離を詰め、セルスの後方へと回り込んだ。
歓喜に口元を歪め、獲物を引き裂く鋭い双剣を全力で振り抜く。
その無謀な特攻に、いち早く気づいた清十郎が叫ぶ。
「ガルーダさんっ!?ダメだ!!」
だが、その制止が届くよりも早く、結末は訪れた。
双剣が斬り裂いたのは、セルスの残像すら残っていない空虚。
次の瞬間、ガルーダの視界はあり得ない方向へと反転した。
「ガルーダ!!」
グレイとメイルートの絶叫が入り江にこだまする。
(あれ…?空が…変な向きに…。)
ガルーダの思考は、そこで途切れた。
何事もなかったかのように、元いた場所に佇むセルス。
その足元には、糸の切れた人形のようにガルーダの胴体が倒れ伏している。
そして、少し離れた砂浜には――最期の瞬間まで笑顔で歪み、驚愕すら浮かべぬまま目を見開いたガルーダの首が転がっていた。
返り血の一滴さえ浴びていない純白のドレスを揺らし、セルスはただ静かにそこに立っている。
「バカなっ!?ガルーダ!!」
アーデルミノスの悲痛な叫びが虚しく響く。
「いやぁぁ!!」
メイルートが膝から崩れ落ちる。
仲間を無惨に殺された怒りが、グレイの理性を焼き切った。
「この化け物がぁぁぁ!!」
大剣を振りかざし、特攻を仕掛けるグレイ。
しかし、セルスはそれを避けることすらしない。
鈍い破壊音が響いた刹那、セルスの鋭い回し蹴りが、グレイの脇腹に真っ向からヒットした。
バキィッ! いう、人体からは到底出ないはずの衝撃音が響く。
世界でも屈指の硬度を誇るはずの勇者の鎧が、たった一撃の蹴りによって、まるで乾いた陶器のように砕ける。
「ガハッ…あ、が…っ!」
グレイの巨体は紙屑のように吹き飛び、後方にいたドルンを巻き込んで地面を転がった。
受け止めたドルンもその勢いを殺しきれず、二人まとめて砂浜に叩きつけられる。
鎧を貫通した衝撃はグレイの内臓を傷つけ、彼は口から大量の血を吐き出して悶絶した。
「キフィル!早く回復をっ!!」
イルゼが必死に叫ぶ。
だが、キフィルの意識はいまだにセルスの至近距離で立ち尽くすクライムに釘付けだった。
「勇者様…はやく、逃げ――。」
震える声でそう言いかけたキフィルの視界から、セルスの姿が掻き消えた。
「えっ…。」
自身の胸の中心から突き出した、漆黒の刀身。
セルスはいつの間にか、キフィルの背後、わずか数センチの距離で、彼女と背中合わせの形で立っていた。
彼女は振り返りもしなければ、刺した感触を確かめることすらしない。
「あ…ああ。」
セルスは、小さく呻くキフィルに振り返りもせず、剣をその背から抜き取る。
前のめりに倒れ込むキフィル。
砂浜がみるみるうちに赤く染まっていく。
「キフィル!くそっ!クライム、何やってる!目を覚ませっ!!」
イルゼの怒号に、クライムはようやくゆっくりと振り返る。
目に飛び込んで来たのは地面に倒れたキフィルと、セルスの堂々とした美しい背中。
「貴様らがもたもたしているから、この私自ら手を下してしまったぞ?」
冷たく言い放ちながら、セルスは黒剣に付着した血を払い、視線を目の前のイルゼに向ける。
その一振りで、剣身は再び不気味なほどの漆黒を取り戻した。
「く、くそっ!雷光!」
恐怖に後退りしながらイルゼが杖を掲げ、至近距離から雷の魔法を放つ。
だが、轟音とともに放たれた魔法は、すでにそこにいない残像を焼いただけだった。
セルスはすでにイルゼの真横に立ち、その首筋へ向けて容赦のない一撃を放とうとしていた。
(終わった…。)
イルゼが死を確信し、目を見開いたその瞬間――一筋の銀光がその軌道を遮った。
火花が散り、激しい金属音が入り江に響き渡る。
セルスの振り抜いた黒剣を、清十郎の刀が受け止めていた。
彼のオリハルコン製の愛刀には、目に見えるほどの小さなヒビが走っており、衝撃がいかに大きかったのかを物語っている。
「…お久しぶりですね、セルスさん。」
「ほう、生きていたのか清十郎。」
それだけ言葉を交わすと、清十郎は尻餅をついたイルゼの服を掴み、脱兎の如くセルスから距離を取った。




