第三話_希望の手紙
勇者クライムは、胸元に収めた一通の手紙の重みを噛み締めていた。
それは、あのアマデウス城で涙ながらに平和を請うた王女、セルス=バルハートから託された「希望」。
「セルス王女も、俺たちを使いこなしてくれるよな。まるで直属の使者扱いだ。」
魔法使いのイルゼが、整えられた顎髭を指先で弄りながら冗談めかして言った。
パーティーの知恵袋でもある彼の言葉には、皮肉と、それでもなお王女を突き放せないお人好しな気質が混じっている。
「クライムも、存外美女には弱いからな。あんな風に頼まれたら、断れるはずもないか。」
「ガハハ!旦那は昔からそうだったな。困っている美女を放っておけないのは勇者の病気だぜ!」
一つ目の魔族、重戦士ドルンが巨大な戦斧を担ぎ直し、大地を揺らすような笑い声を上げた。
しかし、その陽気な空気に水を差すように、女僧侶のキフィルが頬を膨らませて不満を露わにする。
「もう、二人とも失礼ですわ!勇者様は決して外見だけで人を判断するような方ではありません。あの王女様の、人と魔の共存を願う『心』に打たれたのです。海竜将軍リア殿も理知的な将だと聞いていますし、飛竜将軍が失脚した今なら、きっと私たちの言葉に耳を傾けてくださるはずです!」
キフィルは自分に言い聞かせるように、強く何度も頷いた。
彼女にとってクライムは絶対的な正義であり、その彼が信じた王女の願いもまた、気高いものであるべきだった。
そんな仲間たちのやり取りを、クライムは穏やかな、しかしどこか引き締まった表情で見守っていた。
「セルス様はお美しい方だが、魔王ローデウス陛下の奥方になられる方だ。冗談でも、あまり軽口を叩くものじゃないよ。…それよりも今は、あの方の心よりの願いを、私たちの手で叶えようじゃないか!」
クライムの視線の先には、理想の実現、そして人と魔が手を取り合う未来がはっきりと見えていた。
彼はあのアマデウス城での王女の言葉を反芻する。
『リアの統括する海軍は、魔王領を守るために不可欠でした。ですが、それは強大すぎるゆえに他国を威圧し、真の共存の壁となっているのです。私は軍を解体し、真の平和を築きたいと提案しました。…けれど、リア様はそれを拒み、あろうことかフェルディナンドと結託して反旗を翻されたのです。もう、あなた方しか頼れるお方はいないのです。』
顔を隠し、涙に暮れた王女の痛切な願い。
海軍の解体という、武人にとっては屈辱的とも言える提案。
だが、それが平和への唯一の道だと彼女は信じている。
クライムもまた、その「わがまま」を背負う覚悟を固めていた。
「あの卑劣なフェルディナンドとは違うことを願うよ。」
クライムが真面目な顔で頷き、一行はついに目的の地、海竜将軍の軍勢が控える入り江へと足を踏み入れた。
◇◇◇
波打ち際を埋め尽くしているのは、深緑や青みがかった肌を持つマーマンの精鋭たちだ。
普段は海底の居城に籠もっている彼らだが、この時期は海獣が活性化し、海域の哨戒を強化するため、この開けた入り江を仮の拠点としているという。
「マーマンか…初めて見たぜ。」
イルゼが物珍しそうに目を細める。
「あまり陸地に出てくる種族じゃないからな。貴重な光景だぞ、イルゼ。」
ドルンの言葉に、イルゼはふと疑問を口にした。
「マーマンの下半身は魚に近いと聞いていたが、あそこにいる連中は足があるな。」
「彼らは一時的に魔力で足を作り出すことができるのさ。…よし、行こう。」
クライムは一歩前へ出ると、肺の腑を膨らませ、腹の底から声を張り上げた。
「私はジノーブスの勇者クライム!海竜将軍リア殿にお目通り願いたい!」
軍勢がざわめき、不穏な静寂が入り江を包んだ。
やがて、寄せては返す波の中から、ゆっくりと一人の影が現れた。
下半身が眩い光を放ち、水飛沫を散らしながら滑らかな脚の形へと変わっていく。
海から現れたのは、海竜将軍リアその人であった。
「人魚というのは幻想的な美しさだと聞くが…まさに、噂以上だな。」
イルゼの言葉に、一同は無言で頷く。
青みがかった神秘的な肌は月の光を吸い込むようで、透き通るような長い髪は海そのものを宿しているかのようだ。
「人間の勇者が、何用だ?」
リアが口を開く。
その声は氷のように冷たく、入り江の空気を一瞬で凍りつかせた。
「呼びかけに応えていただき感謝する。リア殿。」
クライムは一礼し、慎重な手つきで懐から一通の書簡を取り出した。
「まずは、これを読んでいただきたい。」
「これは?」
「魔王ローデウス陛下の妃となられる、セルス様からの手紙だ。」
その名を聞いた瞬間、リアの口元に微かな、そして蛇のような冷笑が浮かんだ。
「セルス=バルハートか。…自ら来ず、貴様らのような人間を使い走りにするその姿勢、相変わらず気に食わんな。」
「…あの方は、今城下の内乱鎮圧に骨身を削っておいでなのです。どうかご容赦を。」
キフィルが必死にフォローを入れるが、リアは「ふん」と鼻で笑い、乱暴に手紙を奪い取った。
封を切り、中に記されたセルスの「願い」に目を通す。
すると、リアの表情が歪んだ。
驚愕、そして激しい憎悪。
彼女は腹の底から湧き上がるような、愉快でたまらないといった様子で笑い始めた。
「…ククッ、ハハハハハハ!!」
「リア殿…?」
笑い声を止めたリアの瞳は、燃えるような憤怒に染まっていた。
「おい、お前たち!コイツらを今すぐ摘み出せ!抵抗するなら、海の下で魚の餌にしても構わん!」
「なっ、待ってくれ!セルス様の心よりの願いが、貴女にはわからないのか!?」
クライムの悲痛な叫びに、リアは顔を曇らせ、憎しみを込めてその手紙をクライムの顔面へと叩きつけた。
「願いだと?…これが、あの女の願いだと抜かすか!」
宙を舞う羊皮紙。
それを受け取ろうとクライムが反射的に手を伸ばした、その刹那だった。
「――っ!?クライム、離れろ!!」
顎髭を蓄えた年長のイルゼが、誰よりも早くその異常に気づき、悲鳴に近い声を上げた。
ドォォォォォォォォォンッ!!
手紙に刻まれた隠し魔法陣が、物理的な爆風と凄まじい閃光を放つ。
平和を願うはずの言葉が、最凶の罠へと変貌し、入り江の静寂を木っ端微塵に砕いた。




