第二話_忘却の西海
荒れ狂う巨躯が海面を割り、空を覆わんばかりの触手が船へと振り下ろされる。
海獣クラーケンの猛威を前に、船は木の葉のように揺れていた。
「焼き尽くせ、烈火の礫!」
メイルートが杖を掲げ、幾条もの炎の弾丸を撃ち出す。
しかし、クラーケンは着弾の瞬間に海中へと深く潜り、爆炎を海水のカーテンで容易く遮断してしまう。
「くっ、水の中じゃ威力が半分も出ないわ…!」
「ちっ、潜られたら手が出せねぇ!この船の上じゃ踏み込みも甘くなる!」
グレイが大剣を構え直すが、足場の不安定さと獲物の巨大さが災いし、有効な打撃を与えられない。
触手が船体を叩くたびに衝撃が走り、船頭たちが必死に舵を操るが、包囲網は着実に狭まっていた。
清十郎とガルーダもまた、飛来する触手の先端を刃で捌き、船への直撃を防いでいた。
ガルーダは愛用の短刀を逆手に取り、正確無比な太刀筋で肉薄する触手を切り刻んでいく。
しかし、いかに清十郎の殺人術が冴え渡り、ガルーダが鋭く動こうとも、海中深くにある本体に致命傷を負わせるには、刃の長さが物理的に足りない。
「…これは少々、分が悪いですね。」
清十郎が潮を拭いながら呟いた、その時だった。
「――セイジュウロー、足場を作る。合わせろ!」
アーデルミノスが、燃え盛る右腕とは対照的な、静謐な魔力を帯びた左手を天へと振り上げた。
彼女の瞳が極光のような色に輝く。
彼女の掌から放たれた絶対零度の冷気が海面を撫でた刹那、荒れ狂う波飛沫がそのままの形で結晶化し、船の周囲数百メートルに及ぶ海域が一瞬にして分厚い氷原へと変貌した。
海中に逃れようとしたクラーケンまでもが、その巨大な触手を外に出したまま、氷の柱の中に閉じ込められる。
「な…海が、凍った!?」
勇者一行が驚愕に目を見開く中、アーデルミノスの鋭い声が響く。
「セイジュウロー!」
「いきます。」
清十郎の姿が掻き消えた。
彼は重力を無視するかのような速さで氷の上を滑るように駆け、一気にクラーケンの眉間へと肉薄する。
抜き放たれた一振りの刀が、陽光を浴びて白銀の軌跡を描いた。
最速最短の軌道で放たれた一閃が、氷結した海獣の眉間を正確に断つ。
砕け散る氷の破片と共に、巨大な質量が海中へと沈んでいった。
「思ったより時間がかかってしまったな。」
アーデルミノスが吐き出した息は白く、彼女は少しだけ肩をすくめた。
その圧倒的な実力を前に、メイルートたちは声を失い立ち尽くす。
「…さすが魔軍司令ってことね。」
そこへ、先ほど姿を消したはずのマーマン兵士が、再び波間から顔を出した。
その口元には、不気味な嘲笑が浮かんでいる。
「…見事なものだ。だが、一体倒して油断しているようでは、命がいくつあっても足りんぞ?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、今度は船の反対側から、先ほどよりも巨大な影――二体目のクラーケンが海面を突き破って現れた。
不意を突かれた一行。
しかし、一人の男が誰よりも早く反応した。
「――足場がありゃあ、そんなイカ如き、敵じゃねぇんだよ!」
咆哮と共に飛び出したのは、グレイだった。
彼は凍りついた海を力強く蹴り、弾丸のような速さで跳躍する。
空中で大剣を旋回させ、遠心力と体重のすべてを一点に集中させた。
渾身の重断。
クラーケンの硬い頭部が、グレイの力任せの一撃によって文字通り「粉砕」された。
触手を振り上げる暇さえ与えず、二体目の海獣は断末魔と共に真っ二つに割れ、凍った海へと叩きつけられた。
「…ほう。」
マーマン兵士が、瞳を僅かに見開いて驚愕を露わにする。
アーデルミノスと清十郎もまた、着地して肩で息をするグレイの姿に、少しだけ感心したように視線を送った。
「すごいですね、グレイさん。」
「ヤツもまた勇者、ということか。」
清十郎が笑みを深めた瞬間、その背後の海面が僅かに揺れた。
いつの間にか海中へと潜伏していたガルーダが、マーマン兵士の背後から水面を割り、その首筋に鋭い短刀の刃を突きつけていた。
「――ガルーダさん!」
反応したのは清十郎のみ。
清十郎の声が鋭く響き、ガルーダの動きが止まる。
刃の先端がマーマンの喉笛を掠めたところで、静寂が戻った。
「…主らの力量、確かに見届けた。」
マーマン兵士は冷汗を流しながらも、ようやく納得したように頷いた。
「二体のクラーケンをこうも容易く…。貴公らなら、リア様に会う資格がありそうだ。…来い、道案内をしてやる。リア様は、あちらの岬の――」
マーマンが北西の岬を指し示した、その瞬間だった。
――ドォォォォォォォォンッ!!
指し示された方角から、海全体を震わせるような巨大な爆発音が響き渡った。
岬の彼方から立ち上る黒煙と、空を焦がすような紅蓮の光。
「…何事だ!?」
アーデルミノスの顔色が険しく変わる。
交渉の舞台となるはずの場所に、不穏な戦火の匂いが漂い始めていた。
一行を乗せた船は、マーマン兵の先導によって爆発の起きた方角へと急行する。
◇◇◇
岬を回り込んだ先に広がる、開けた入り江。
そこには、異常なまでの緊張感が漂っていた。
波打ち際には海竜将軍リアの精鋭部隊がずらりと並び、一斉に「海」とは逆側――陸側へ向けて武器を構えている。
彼らが警戒しているのは海からの侵入者ではなく、陸から現れた「何か」だった。
部隊が睨みつけるその先には、数人の仲間を従えた一人の青年が立っていた。
透き通るような銀髪が風になびき、その手には眩い輝きを放つ一振りの剣が握られている。
「…クライムっ!?」
船上からその姿を認めたグレイが、裏返った声を上げた。
「あれが…光の勇者ですか。」
清十郎が目を細め、その存在感を確かめるように呟く。
「飛竜将軍フェルディナンドに続き、リアをもその手にかけるつもりか…。」
アーデルミノスは、目線の先で聖剣を構えるクライムを射貫くように睨みつける。
入り江を包む炎の熱気の中、二人の勇者、そして魔軍の将三人が相まみえる。




