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第一話_出航

夜明けの光が、ローデウス領の港を白金色に染め上げていた。

水平線から顔を出した太陽が、波間に反射してキラキラと輝く。

そんな清々しい朝の空気に包まれながら、一つの小さな船が静かにその時を待っていた。


「清十郎殿、ご武運を!」


見送りに現れた地竜将軍クラウハルトが、その重厚な声を響かせる。

その傍らでは、豪商ビドラが満足げに鼻を鳴らし、自慢げに胸を張っていた。


「清十郎殿、ご安心を!このビドラ、最高の仕事をさせました。この船には私の商魂と最新の魔導技術がこれでもかと詰め込まれておりますからな!」


船に乗り込むのは、遊撃将・朽木清十郎、魔軍司令アーデルミノス、そしてジノーブス南の勇者パーティー三名――グレイ、メイルート、ガルーダ、そしてヘパルディア勇者パーティーの生き残りであり従属の首輪の生き証人リゼア。

それに加え、腕利きの船頭が二名。


当初、ビドラは自身の財力を誇示するかのような豪華客船を提案していたが、アーデルミノスの「無駄な装飾に時間をかけたくない」「できるだけ目立たず移動したい」という意向を汲み、最終的にはこの小ぶりな特注艦に落ち着いた。

しかし、その外観の質素さに反して、中身は化け物じみている。

船体には魔獣に察知されない特殊な加工が施され、動力炉には最高純度の魔石が組み込まれている。

スピード、旋回性能、そして防御力。

そのすべてにおいて軍艦を凌駕する「海を駆ける一角獣」のような一隻だ。


「ありがとうございます、ビドラさん。…あとクラウハルトさんも、あまり無理をなさらずに。」


船の縁に手をかけ、ひらりと飛び乗った清十郎が、いつも通りの軽い調子で微笑む。

大戦の命運を分かつ重要な任務に向かう者とは思えないその軽妙さに、見送る二人は思わず苦笑する。


「…命運をかけた出航だってのに、随分と軽く言うものね。」


甲板で腕を組み、メイルートが呆れたように呟く。

それに対し、アーデルミノスは険しい表情を崩さず、西の空を見つめていた。


「魔導加工が施してあるとはいえ、これより向かうのは海竜将軍リアの支配域…『忘却の西海』だ。一瞬の油断が死に直結する。気を引き締めろ!」


錨が上げられ、船がゆっくりと港を離れる。

魔導エンジンが静かな駆動音を立て始めると、船体は驚くべき加速で波を切り裂き、瞬く間に陸影が遠のいていった。


◆◆◆


航海初日。

船は順調に西へと進んでいた。

魔導エンジンの振動も少なく、本来なら快適な船旅のはずだったが、甲板では騒がしい光景が繰り広げられていた。


「ちょっとリゼア!危ないってば!」


メイルートの悲鳴に近い声が響く。

見れば、リゼアが虚ろな表情のままふらふらと船べりに近づき、今にも海へ吸い込まれそうになっていた。

感情も反応も薄い彼女は、船の揺れに対して踏ん張るという概念が欠落しているらしい。


「もう!しっかりして!」と、メイルートが慌ててその細い腰を抱きかかえ、安全な甲板の中央まで引き戻す。

そんな喧騒のすぐ隣では、ジノーブス南の勇者グレイが、無残にも船べりから身を乗り出していた。


「おえぇっ!…だめだ、この揺れ…無理…。」


「情けない男…。」


冷たく言い放つガルーダ。

グレイは返事をする余裕もなく、ただ海に向かって胃の中身を捧げ続けていた。


やがて日は傾き、空は鮮やかな橙色に染まっていく。

西の地平線に沈みゆく巨大な夕日を、アーデルミノスは独り、船首に立って眺めていた。

潮風に髪をなびかせ、これからの戦いに思いを馳せる彼女の横顔は、いつもの厳しい指揮官の面影ではなく、どこか儚げな美しさを湛えていた。


「綺麗ですね。」


ふいに背後からかけられた声に、アーデルミノスは「……え?」と肩を揺らした。

振り返ると、そこにはいつの間にか隣に立っていた清十郎が、いたずらっぽく笑っていた。


「なっ…な、何を急に…!」


「いや、夕日のことですよ?驚かせてしまいましたか?」


「あ、ああ。…そうか、夕日か。…紛らわしいことを言うな!」


顔を真っ赤にしてそっぽを向くアーデルミノス。

清十郎はそれを楽しそうに眺めながら、再び水平線へと目を向けた。


「でも、もちろんアーデルミノスさんの方が綺麗ですよ。」


「全くお前は」と顔を伏せるアーデルミノス。

夕日の影に隠れて見えないが、その顔は綻んでいる。

江戸の海では見ることのできない、魔法のように美しい夕暮れ。

その静寂は、翌日の激動を予感させる前の、束の間の安らぎだった。


◆◆◆


航海に出て、二日が経過した。

空はどこまでも高く、見渡す限りの蒼天が続いている。

船は鏡のような海面を滑るように進み、時折、大きな飛魚が銀色の鱗を光らせて船を追い越していく。

清十郎は甲板の椅子に腰掛け、潮風に吹かれながら江戸の海とは違う深い青を眺めていた。

水面の下には、未知の生態系と、それを統べる強大な支配者の存在が肌で感じられる。


「そろそろ、リアのいる海域に差し掛かる頃合いか…。」


アーデルミノスが呟いた、その時だった。


「――おーい!前方に何かいるぞ!」


船頭の叫びに、全員が即座に武器に手をかけた。

波間からぬらりと現れたのは、一人の兵士。

しかしそれは人間ではない。

下半身は魚の尾を持ち、肌は深緑に近い不気味な青色。

鋭いひれえらを持つ『マーマン』だ。

勇者パーティーが戦闘態勢に入るが、アーデルミノスがそれを手で制する。


「待て、リアの使いだ。」


マーマン兵は波に揺られながら、冷酷な黄金色の瞳で船上の面々を見据えた。

その口から発せられたのは、水中で響くような不気味な重低音の声だった。


「…海竜将軍リア様からの伝言だ。『海獣ごときにやられるようなら、会う意味はない。』…とな。」


「なんだと…?」


グレイが顔を顰めた瞬間、マーマン兵は腰に下げていた法螺貝のような笛を取り出し、鋭く吹き鳴らした。


――ブォォォォォォッ!!


重く、腹に響く音が海に溶け込む。

直後、それまで穏やかだった海面が、中心から爆発するように盛り上がった。

巨大な影が、海中からその姿を現す。

空を覆い尽くすほどの、太く、無数の吸盤が並ぶ触手。

船の数倍はある巨大な胴体。

海獣――クラーケン。


「…随分と手荒な挨拶ですね。」


清十郎は、荒れ狂う波飛沫で着物が濡れるのも構わず、ゆっくりと立ち上がった。


「…精々、海の藻屑にならぬよう励むがいい。」


マーマン兵は嘲笑うような声を残し、水飛沫と共に深海へと消えていった。

残されたのは、怒り狂い、空を叩き割るような勢いで触手を振り上げる巨大な魔獣。


「おいおい、冗談じゃねぇぞ…!」


グレイが剣を引き抜き、メイルートが杖を構える。


「くだらん余興だ。」


アーデルミノスは短くため息をつき、その手に炎を宿す。

荒れ狂う西の海で、最初の試練が幕を開けた。

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