第二話_魔王の決断
アマデウス領とローデウス領が隣接する境界線。
そこには、かつて平和を象徴していたはずの深い森が広がっているが、今は張り詰めた厳戒態勢の糸がいつ切れてもおかしくない緊張感に支配されていた。
「風の音が、死を運んできているわね…。」
そう呟いたのは、A級冒険者パーティー『黒鉄の翼竜』の魔法使い、シャゼルであった。
彼女たちは、あの村での動乱、そして清十郎たちが駆け抜けた戦いのあともジノーブス本国へは戻らず、独自の判断でローデウス側に協力し、この最も危うい境界地帯の監視任務を引き受けていた。
「おい、湿っぽいことを言うなシャゼル。俺たちの任務は、この森を抜けてくるヤツ等を片っ端から叩き潰すことだ。」
リーダーの重戦士ランドが、身の丈ほどもある大剣を肩に担ぎ直し、重厚な甲冑を鳴らして笑う。
だが、その瞳に宿る光は冗談とは裏腹に鋭い。
「ランド、少し静かにしろ。…空から、何かが来るぞ。」
鋭い叫び声を上げたのは、狩人のリクラットだった。
彼は常人離れした視力で上空の異変を凝視し、素早く長弓を番える。
「…あれは、ワイバーンの群れ!かなりの数だぞ!」
リクラットの言葉に、パーティーの最年長である老僧侶、マーベルが眉間に深く刻まれた皺をさらに深くした。
彼は手にした杖を地面に突き立て、静かに天を仰ぐ。
「…兵全体に強化魔法をかける!皆のもの、気を引き締めるのじゃ!!」
「ま、待てマーベル、様子が変だ!」
リクラットが弓を引き絞ったまま硬直する。
通常、空の捕食者であるワイバーンの一団が襲来する場合、それは急降下による奇襲か、威嚇の咆哮を伴う。
しかし、上空を覆う影にはその気配がまるでない。
翼は傷つき、編隊は乱れ、まるで嵐に翻弄された渡り鳥のようにゆっくりと高度を下げてくる。
その中の一騎、一際巨大な個体が、森の広場に滑り込むように着地した。
「…あれは、飛竜将軍!?フェルディナンド!」
配置についていたローデウスの兵士の一人が、絶叫に近い声を上げた。
ワイバーンの鞍に跨る兵士に背負われているのは、空の王者と呼ばれたアマデウス魔王軍の将、飛竜将軍フェルディナンドであった。
だがその姿は、誇り高き将軍の面影を失うほどに全身が血に染まり、力なく項垂れている。
その背後には、同じく満身創痍の部下たちが、今にも落ちそうな様子で追従していた。
「リクラット、弓を下げろ!救護班を呼べ!マーベル、急ぎ回復を!」
ランドの号令と共に、黒鉄の翼竜の面々は武装を解き、墜落に近い着陸を果たした飛竜兵たちの元へ駆け寄った。
◆◆◆
ローデウス魔王城。
夜の帳が降りたばかりの謁見の間は、飛び込んできた一報によって一気に凍りついた。
「急報!領内に侵入した飛竜将軍フェルディナンドの一軍を拘束。将軍は瀕死の重傷、現在は応急処置を施しておりますが、意識は不明です!」
重厚な石造りの扉が乱暴に開かれ、一人の飛竜兵が姿を現した。
鎧は至る所が砕け、煤と返り血にまみれた兵士は、玉座に鎮座する魔王ローデウスの前で力なく平伏し、震える声で事の次第を語り始めた。
アマデウス領で一体、何が起きたのか。
兵士が血を吐くような思いで語ったのは、目を覆いたくなるような惨状だった。
事の始まりは、地竜将軍クラウハルトによる謀反――その際、正気を失った魔王アマデウスが放った無差別攻撃により、忠実なる魔王軍の将兵たちが、敵味方の区別なくその犠牲となったこと。
その凶行の裏には、魔王を影から操り、精神を蝕むセルス=バルハートの影が常に付きまとっていた。
空の矜持を重んじる飛竜将軍フェルディナンドは、主君への忠義と、無残に散っていく同胞たちへの慈しみの狭間で、血を流すような葛藤を続けてきた。
しかし、変わり果てた主君の姿と、魔王領を私物化するセルスの暴挙は、ついに彼の我慢の限界を超えさせたのだ。
フェルディナンドは「主君を呪縛から解き放つ」という一点の正義を掲げ、誇り高き飛竜軍を率いて決死の反乱に踏み切ったのである。
だが、その決起は予期せぬ来訪者によって打ち砕かれた。
兵士は恐怖に震え、涙を流しながら、その場にいる全員の心臓を鷲掴みにするような言葉を絞り出した。
「ジノーブスの『光の勇者』が飛竜軍を『魔王を乱す逆賊』と断じ、その聖剣を我らへと向けたのです…。」
「…何だと?」
報告を傍らで聞いていた軍師ジャミロクワイが目を見開く。
「光の勇者」の参戦。
その影響力は、一国の軍事力などとは比較にならない。
人類の希望である勇者がセルスに加担したとなれば、ジノーブス本国も、ひいては人間社会全体が魔王アマデウスの側を「正義」と見なし、そちらに付く可能性が極めて高い。
「内乱…魔族同士の小競り合いで終われば、という淡い期待はこれで完全に潰えたか。」
ジャミロクワイは苦渋に満ちた表情で天を仰いだ。
今、ローデウス領が反乱の首謀者として追われるフェルディナンドを匿ったとなれば、それはセルスにとって絶好の開戦理由となる。
ようやく締結にこぎつけたジノーブスとの同盟さえも、「人類の味方である勇者に敵対する、逆賊の隠匿」という大義名分で、紙切れ同然に反故にされかねないのだ。
「閣下…フェルディナンドを差し出すべきでしょうか?さもなくば、我が領はジノーブスとアマデウスの両方を敵に回すことになります。」
側近の一人が震える声で進言する。
謁見の間は、氷のような静寂に包まれた。
誰もが、目の前に突きつけられた「最悪の選択」に息を呑む。
フェルディナンドを救えば戦争になり、差し出せば信義を失う。
その時だった。
これまで、彫像のように沈黙を守っていた魔王ローデウスが、ゆっくりと、しかし広大な広間全体を震わせるような威圧感をもって、その重い口を開いた。
「…ジャミロクワイよ。」
地の底から響くようなその声に、軍師は背筋を正し、冷や汗を流しながら深く頭を垂れた。
魔王の瞳には、渦巻く国際情勢への不安も、勇者への恐怖も微塵も感じられない。
ただ、絶対的な強者のみが持つ、静かなる決意だけが宿っていた。
ローデウスは、平伏する傷だらけの飛竜兵を一瞥し、そして言い放った。




