30 竜の里 前編
谷の奥から、風が流れてきた。
冷たい。
でも痛くない。
痛くないのが、また異常だ。
アランは首の後ろの鱗を指で確かめて、胃に手を当てた。
(……火山じゃないのに俺、平気だ。平気なのが怖い)
アンフィスが淡々と告げる。
「周囲の竜が動き始めました」
「やめろ、その報告の仕方。災害警報みたいだ」
「災害です」
「おい」
アルシェが、さらっと言った。
「見せびらかす日」
「行儀よくする日じゃなかったのかよ!」
「行儀よく、見せびらかす」
「器用なこと言うな!」
アンフィスはため息を一つ吐いた。
「叔母上。里の“規則”を」
「嫌」
「……そう来ると思いました」
アンフィスは諦めたように空を見上げる。
「では、規則を“短く”します」
「できるんだ」
「竜族は長い話が嫌いなので」
アルシェが頷く。
「私も嫌」
「おまえは“嫌”が好きだな!」
アンフィスが地面の岩を一度、軽く踏んだ。
ゴン、と低い音。
それだけで、谷全体の気配が変わる。
声はないのに、視線が集まる。
遠くの岩棚。
洞穴の影。
稜線。
そこに“何か”がいる。
竜。
姿は見えない。
でも、いる。
それだけで胃が鳴るのが人間だ。
いや、元人間だ。
アランは小さく呟いた。
「……見られてる」
アルシェが即答する。
「見せてる」
「主体性を持たせるな!!」
アンフィスが言う。
「まず、名を通します」
「名が縁ってやつか」
「そうです。竜族は、名を知った相手を雑に殺しません」
アランが固まった。
「……今さらっと何言った」
「常識です」
「こわっ」
アルシェが首を傾げた。
「殺さないよ」
「そっちは信用してる!」
「じゃあ大丈夫」
「大丈夫の根拠が雑!!」
アンフィスが片手を上げた。
「竜の里の者たちへ」
声は大きくない。
でも谷の空気が“届く形”に整えられる。
それが竜の統率だ。
「叔母上、アルシェが連れてきた客人だ。名はアラン・ド・ヴァレンヌ」
ざわ、ではない。
空気が“ひとつ鳴る”。
言葉にならない返事。
でも返事だ。
アランは胃を押さえた。
「……俺、今、公式になった?」
アルシェが満足そうに頷く。
「うん」
「やめろ!!」
アンフィスが淡々と続ける。
「説明しておく。彼はまだ人間だが、叔母上が“進めた”」
空気がもう一度鳴った。
今度は、少しだけ温度が変わる。
興味。
好奇心。
そして、微量の警戒。
アランは喉を鳴らした。
「……説明するの俺じゃねぇのかよ」
「叔母上がやると脱線して長くなります」
「なるほどな」
アルシェが口を開いた。
「顔がいい」
アンフィスが即座に言い切った。
「叔母上、それは規則の説明ではありません」
「大事」
「大事でもありません」
「大事!」
「……」
アンフィスが目を閉じた。
胃薬が欲しい顔だ。
完全に。
そして、続けて言う。
「続き。叔母上の“恋人”だ」
空気が、三回目に鳴った。
今度は、面倒くささが混ざっている。
“またか”みたいな気配。
アランは思った。
(竜族にも“またアルシェがやった”枠あるんだ)
アルシェが誇らしげに言う。
「恋人」
「追撃すんな!!」
アンフィスは淡々と締めた。
「以上。干渉するな。見るなら行儀よく見ろ」
竜族の規則が、短すぎる。
でも重い。
谷の空気が、少しだけほどけた。
視線は残る。
でも殺気はない。
アランは息を吐いた。
「……俺、生きてる?」
アルシェが即答する。
「生きてる」
「胃も?」
「えらい」
「褒める対象じゃない!」
◇
竜の里での公式的な紹介が終わった瞬間、別の問題が始まった。
アランの耳が、変に良くなった。
風が岩を撫でる音。
遠い洞穴の水滴。
竜が瞬きをする気配。
見えないのに、分かる。
そして一番嫌なのが。
アルシェの呼吸が、近い。
近すぎる。
さっきまで気にならなかったのに、今は一回吸うだけで胸が鳴る。
アランは眉間を押さえた。
「……おい」
「なに」
「俺の耳がおかしい」
アンフィスが即答する。
「反動です」
「反動って言うな! 副作用って言え!」
「副作用です」
「言い直すな!」
アルシェが真面目に頷く。
「かわいい」
「褒めるな! なんの症状だこれは?!」
アルシェが首を傾げる。
「その症状も、あなた」
「哲学やめろ!」
アランは胃を押さえながら、耳を塞いだ。
塞いでも聞こえる。
最悪だ。
「……静かにしてくれ。全部聞こえる」
アルシェが一拍止まった。
「全部?」
「全部!」
アルシェは、すぐに許可を取った。
「触っていい?」
「……いい。今はいい」
アルシェの指先が、耳の後ろにそっと触れた。
ぞくり、とした。
冷たくない。
熱くない。
“整う”感じ。
世界の音量が、少しだけ下がる。
アランは息を吐いた。
「……それ、便利だな」
「便利」
「認めるな!」
アンフィスが淡々と補足する。
「竜の感覚は情報が多い。慣れないうちは削ります。私の場合は人化すると色々と減ったので気持ちはわかります」
「削るって言うな!」
「削ります」
「言い直すな!」
アルシェが、アランの額をつついた。
「恋人のうるさい、減らす」
「うるさいのは世界じゃなくて俺の胃だ!」
「胃も減らす?」
「減らすな!!」
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




