29 竜の里へ 後編
竜の里は、里じゃなかった。
谷が広すぎる。
岩が大きすぎる。
洞穴のひとつひとつが“城”みたいに口を開けている。
そして、空が静かすぎる。
鳥がいない。
虫がいない。
音が少ない。
それは“何もいない”静けさじゃない。
“いるのが竜だけ”の静けさだ。
アランの胃が小さく鳴った。
「……生活圏が違う」
『慣れる』
「慣れたくない!」
『慣れたら、楽』
「その楽で人間が滅ぶ!」
アルシェはゆっくり降りた。
着地が静かすぎて腹立つ。
こんな巨体が、こんなに静かに降りるな。
そしてアランを“置く”。
雑じゃない。
丁寧。
そっと。
その動作だけで、竜が本気で「距離」を守っているのが分かってしまう。
黒い竜が、少し離れた位置で形を変えた。
光が揺れ、人型が立つ。
青年だ。
黒髪に、青い目。
顔立ちは整っているが、ヴィクトル系の作り物じゃない。
鋭いのに、寝不足みたいな影がある。
働いてる顔だ。
青年はアルシェに礼をした。
「叔母上」
次にアランを見る。
視線が、鋭い。
審査の視線。
でも敵意じゃない。
上司の視線だ。
「……人間?」
アランが言い返す前に、アルシェが人型になった。
月光みたいな白銀の髪。金の目。
そして当然のように言う。
「恋人」
アランが呻いた。
「確定みたいに言うな……!」
青年が頷く。
「恋人」
「復唱するな!!」
青年は真顔で言った。
「叔母上の言葉は公式だ」
「やめろぉぉぉ!!」
アルシェが満足そうに頷く。
「うん。公式」
「公式にすんな!!」
青年は一拍置いて、淡々と言った。
「叔母上。……見せびらかしの次は」
アルシェが即答する。
「練習」
青年が静かに息を吐いた。
「……やっぱり」
アランの胃が鳴る。
「おい、何だその“やっぱり”」
青年はアランを見る。
「竜化は、段階を間違えると死ぬ」
アランが固まった。
「……おい」
アルシェが首を傾げる。
「死なない」
「叔母上の基準を持ち込まないでください」
青年の言い方が、竜族の“敬語”だ。
丁寧なのに、圧がある。
アランは思った。
(あ、こいつ、胃に悪いタイプだ)
青年は続ける。
「叔母上が触れた相手は変わるのが早い」
「嫌な断言をするな……!」
アルシェが淡々と言う。
「恋人だから」
青年が目を細める。
「それは理由になりません」
「なる」
「なりません」
アランが小声で呟く。
「……竜族の会話テンポ、案外速いな」
アルシェが即答する。
「若いから」
青年が淡々と訂正する。
「長老方が遅いだけです」
「私も実は若い方」
◇
練習場所として案内されたのは、谷の中央の“平たい岩場”だった。
平たい、と言っても町の広場くらいある。
竜が羽ばたける広さだ。
周囲の岩肌には、古い傷がある。
爪痕。
焼け跡。
訓練場だ。
青年が言う。
「ここは“若竜の庭”です」
「庭!?」
「庭です」
「竜の庭のサイズ感、壊れてる!」
アルシェが得意げに言う。
「安全」
青年が頷く。
「叔母上がそう言うなら、たぶん安全です。あと気をつけていただきたいのはこの里で叔母上以外に人化できるのは子供の頃に叔母上にしごかれた私だけです」
「たぶんって言った! しごかれた?」
「お気になさらず」
青年はアランを見た。
「呼吸して」
「呼吸はしてる!」
「深く」
「注文が多い!」
青年は淡々と続ける。
「まず、声」
「声?」
「竜の声は、胸に届く。人間の喉じゃない」
アランが胃を押さえた。
「……無理そう」
アルシェが即答する。
「できる。顔がいいから」
「顔で能力決めるな!!」
青年が一拍、無言になった。
そして静かに言った。
「叔母上。今日はその発言を控えてください」
「嫌」
「……」
青年が空を見た。
胃薬を探す目だ。
アランは思った。
妖精の気持ちが分かる。
アルシェがアランの手を取る。
「許可」
「……はいはい。触っていい」
「聞いてない」
「聞けよ!」
アルシェは真面目に言った。
「触っていい?」
アランは一拍置いて、言い直す。
「……いい」
その瞬間、背中の奥がふわっと温かくなる。
火山の熱じゃない。
内側の熱だ。
青年が言う。
「声を出すな。まず、胸で息を押す」
「胸で?」
「喉に乗せるな」
「どうやって!」
青年は淡々と言う。
「想像。胸の奥に、空洞がある」
アランは眉を寄せた。
「また想像かよ……!」
「竜化は、想像で始まる」
アルシェが頷く。
「想像は便利」
「便利って言うな!」
アランは深呼吸した。
胸の奥に空洞。
そこに息を落とす。
――すると。
息が“音にならないまま”重くなる。
アランは目を見開いた。
「……おい」
アルシェの目が細くなる。
「出た」
「何が」
青年が言う。
「気配」
「気配って万能すぎるだろ!!」
次の瞬間。
アランの喉から、声が漏れた。
「……っ」
声というより、低い振動。
喉じゃない。胸が鳴った。
岩が、微かに震えた。
アランが固まる。
「……今」
青年が頷く。
「今」
アルシェが満足そうに言う。
「かわいい」
「褒めるな!!」
青年が淡々と続ける。
「次は目。竜の目は、焦点が違う」
「目……?」
「遠くと近くを同時に見る。やってみろ」
「無茶だろ!」
アルシェが言う。
「できる。恋人だから」
「もうそれやめろ!!」
でもアランは、遠くの山の稜線と、足元の小石を同時に見ようとして――
視界が一瞬だけ、二重になった。
「うわ」
眩暈。
でも落ちない。
アルシェの手が、すぐに離れる。
「止める」
青年が頷く。
「今はここまででいい。……死ななかった」
「“死ななかった”って言い方やめろ!!」
青年は真顔だ。
「重要です」
アランは胃を押さえながら、でも少しだけ笑った。
「……おまえ、苦労してるな」
青年が一拍止まって、静かに言った。
「叔母上の担当なので」
「担当って言うな!!」
アルシェが首を傾げる。
「担当、いい言葉」
「良くない!」
青年はため息を吐き、そして言った。
「叔母上。恋人を連れてきたなら、正式な紹介を」
アルシェが即答する。
「恋人」
「だから確定みたいに言うな!」
青年が淡々と続ける。
「竜族は、名を知る。名は、縁だ」
アランの胃が鳴った。
「……縁とか言うな。胃に悪い」
アルシェがアランを見る。
「名、呼ぶ」
「……呼ぶな。照れる」
「呼ぶ」
青年が真顔で言う。
「呼んでください」
「圧が強い!」
アルシェはゆっくり、はっきり言った。
「アラン。アラン・ド・ヴァレンヌ」
ただの名前なのに、胸が変な音を立てた。
青年が頷く。
「覚えました。アラン・ド・ヴァレンヌ」
「フルネームで言うな!!」
青年が淡々と言う。
「公式です」
「公式やめろぉぉぉ!!」
アルシェが満足そうに言った。
「うん。公式」
「おまえも乗るな!!」
谷の風が吹く。
冷たいのに、痛くない。
アランは自分の首の後ろの鱗を触った。
まだある。
現実だ。
そして遠くで、竜たちの影が動いた。
気づいたのだ。
“先代の族長が恋人を連れて帰ってきた”と。
世界の祈りは焼けたのに、今度は竜族の好奇心が集まってくる。
アランは胃を押さえた。
「……これ、次は俺が見せびらかされる側だろ」
アルシェがにこっと笑った。
「うん」
「即答するな!!」
「見せびらかす。計画」
「計画やめろ!!」
青年が空を見上げて、小声で呟いた。
「……妖精たちが可哀想だな」
遠くで羽音だけの泣き声がした気がした。
『胃薬……』
『胃薬……!』
竜の里で、恋人計画は静かに、確実に進行していく。
世界が静かでも、胃はうるさい。
そして最悪なことに。
竜は、そのうるささすら「かわいい」と思っている。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




