26 竜化 前編
火山の音が、子守歌みたいに遠かった。
眠りに落ちる直前、アランは「聞こえてる」と言った気がする。
言ったのか、思っただけなのかは分からない。
でも確かに――
耳元で、羽音みたいに小さな笑いがした。
◇
目が覚めたとき、世界はまだ静かだった。
いや、静かな“ふり”をしているだけだ。
火山は火山で、赤く脈打っている。
雲海は雲海で、ざわざわと動いている。
ただ、それらが今はアランの神経を殴ってこない。
……胃が生きている。
これが一番の異常だ。
アランはゆっくり息を吸って、確認するみたいに呟いた。
「……生きてる」
隣でアルシェが瞬きをした。
「なにが?」
「胃」
「胃、えらい」
「褒める対象じゃない」
起き上がろうとした瞬間、肩に手が乗った。
軽いのに動きを止める力がある。
「まだ」
「……なんだよ」
「寝起き、かわいい」
「やめろ」
「やめない」
「やめろって」
「やめないって」
会話が幼児みたいになっている。
火山の上で。
アランは顔をしかめて、でも少しだけ息を吐いた。
怒鳴るほどの元気が出ない。
というか、怒鳴る必要がない。
アルシェが静かな声で言う。
「世界、静か」
「……さっき掃除したからな」
「うん」
アルシェは頷く。
「触られない」
その言い方が、妙に小さくて。
最強竜が「触られない」って言う不自然さが、胸の奥に刺さる。
アランは視線を逸らして言った。
「……おまえさ。昼寝中、見てたって言ってたけど」
「うん」
「何を見てた」
アルシェは真面目な顔で答える。
「あなた」
「だから、その“あなた”の何だよ」
「呼吸」
「呼吸」
「まつげ」
「まつげ」
「眉間のしわ」
「……寝てても皺寄ってんのかよ」
アルシェが小さく頷いた。
「心配してた顔」
「寝てたのに?」
「寝てても、心配する」
アランは言葉を失う。
火山の熱より胃に悪いのに、胃が生きている。
矛盾だ。
「……おまえ、そういうの、ずるい」
「ずるくない」
「ずるい」
アルシェは首を傾げる。
「恋人、ずるいの許す?」
「許すって言ったら調子乗るだろ」
「乗る」
「正直!!」
アルシェが少し笑って、アランの指先をつまんだ。
熱い場所なのに、その瞬間だけ温度が“静か”になる。
「ねえ」
「何だよ」
「恋人(仮)、やめる?」
アランの心臓が、変な音を立てた。
「……は?」
アルシェは冗談の顔をしていない。
目が澄んでる。逃げ道のない顔だ。
「仮、面倒」
「おまえ、面倒って言葉を便利に使いすぎだろ」
「便利」
「開き直るな」
アルシェは淡々と言う。
「恋人、仮じゃなくていい」
アランは火口の赤を見た。
さっきまで胃を殴ってきた単語が、今は遠い。
世界、均衡、信仰、契約。
それより、隣の竜の視線のほうが近い。
「……それ、俺が言う側じゃねぇの」
「あなたが言うの?」
「……言えるか」
「言えない顔」
「顔で決めるな!!」
アルシェがちょっと嬉しそうにする。
「照れる顔」
「言うな!」
アランは大きく息を吐いて、諦めるように言った。
「……仮は、やめない」
アルシェの目がほんの少しだけ曇る。
その変化が、こわい。
「やめない?」
「今すぐ“恋人確定”って言ったら、俺の胃が死ぬ」
「胃が死ぬの嫌」
「だろ?」
アルシェは一拍考えて、こくりと頷いた。
「じゃあ」
一拍。
「恋人(本命)」
「余計悪化する!!」
アルシェが不思議そうに言う。
「本命、いい言葉」
「言葉の意味が違う!」
「違う?」
「違う!」
アルシェは眉を寄せた。
「……人間基準、難しい」
「今さらそれ言うな」
アランは笑ってしまう。
火山の上で笑える自分に自分が驚く。
アルシェがその笑いを見て、ささやく。
「いい顔」
「やめろって」
「やめない」
「しつこい」
「覚えたいから」
アランは視線を逸らしたまま、小さく言った。
「……覚えなくていい」
「嫌」
「嫌って言うな」
「嫌は便利」
「便利って認めるな!」
アルシェは少し笑って、真面目に続ける。
「覚えたい。あなたの好き、あなたの嫌い、あなたの怖い」
アランの眉が寄った。
「……俺の怖い?」
「うん」
「何だよそれ」
アルシェは少しだけ視線を落として言った。
「触られるの、怖い」
火山より静かに落ちる言葉。
でも熱い。
アランは声を落とす。
「……俺は、触らない」
アルシェが瞬きをする。
「触るよ」
「は?」
アルシェは淡々と言った。
「恋人は触る」
「待て待て!」
「あなたは、いい」
アランの胃が別方向で死にかけた。
「言い方ァ……」
アルシェが首を傾げる。
「触っていい?」
許可を取る。
距離を守る。
さっきアルシェが求めたものをアルシェ自身が実行している。
アランは答える前に手を伸ばしてしまった。
自分から。
アルシェの髪に触れる。
さらさらしていて、火山の匂いがしない。
触れた瞬間、アルシェの金色の目が細くなった。
嬉しいというより、安心の顔だ。
「……こういうのは、いいのか」
「いい」
「じゃあ、こういうのは」
アランはアルシェの指を取って、軽く握った。
涼しい。
冷たくない。
アルシェが小さく息を吐く。
「もっといい」
「比較すんな」
「比較する。好きは増える」
「増やすな。俺の心臓が先に死ぬ」
「死なない」
「そこは竜基準を持ち込むな!」
アルシェが、ふっと笑った。
「あなた、かわいい」
「言うな!」
「言う」
「言うな!」
「言う」
アランはもう抵抗を諦めた。
「……分かった。言え。好きにしろ」
アルシェは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐ笑った。
「好きにする」
そして、一拍置いてさらっと言う。
「じゃあ、竜の姿、見せる」
アランが固まる。
「……今?」
「今」
「今ここで?」
「ここは温泉地」
「温泉地の概念やめろ!」
アルシェは真顔だ。
「恋人に、見せびらかす」
「見せびらかすって言い方!!」
「見せびらかす」
「言い直すな!」
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




