20 汚れ 後編
アルシェがぽつりと呟いた。
「……温泉、汚れた」
その瞬間。
火口の縁に引かれた黒い線が、増えた。
一本。
二本。
三本。
音もなく。
ただ、世界の境界が“引き直される”。
神殿の黒ローブたちの足が揃って止まった。
止まったのに誰も転ばない。
転べない。
「……」
ヴィクトルの喉が、微かに鳴った。
アランは低い声で言う。
「アルシェ。行儀よく」
アルシェは頷く。
「うん。行儀よくする」
そして、にこっと笑った。
その笑顔が、さっきよりずっと“竜”だ。
「ヴィクトル」
「はい」
「契約は嫌よ」
「では、交渉を」
「交渉って言う人間、だいたい」
一拍。
「うるさいことをするの」
アランが全力で同意する。
「そうだよな」
ヴィクトルが息を吸い、笑みを整え直した。
「竜様。ならば――」
その瞬間、アルシェが指を軽く振った。
ぱちん、と音はしない。
でも、空気が“閉じる”。
ヴィクトルの声が途切れた。
口は動く。
言葉だけが、出ない。
昨日の勇者と同じだ。
「おい!!」
アランが叫びかけて、すぐ止める。
「……何時間だ」
アルシェは真面目に答えた。
「三分」
「短っ!!」
ヴィクトルが目を見開く。
声が出ないのに、顔で「侮辱か?」って言ってる。
アルシェは首を傾げる。
「行儀よくする日だから。長いのは、あとがもっとうるさい」
アランが胃を押さえながら呻いた。
「おまえの“行儀”は時間制なのか……」
アルシェは、机の上の契約書を指差した。
「それ、燃やしていい?」
「駄目だ!! 火山は便利なゴミ箱じゃねぇ!!」
アルシェが少し不満そうにする。
「汚れ」
「紙の汚れより、外交が燃える!」
レオニスが即座に前へ出た。
「竜様。契約書は王都へ持ち帰り、法務官の立会いで破棄または保管を」
「ほうむかん?」
「大人です」
「大人」
アルシェは納得した。
「大人に任せる。面倒」
「あぁ、今は任せるのがいいな」
アランが必死にうなずく。
アルシェは、ヴィクトルに向き直った。
声が出ないヴィクトルは、目だけで何か言っている。
たぶん「これは暴挙だ」とか「世界が黙ってない」とか。
アルシェは淡々と言った。
「あなた、帰って」
ヴィクトルは返事ができない。
できないけど、姿勢だけは崩さない。
アルシェが続ける。
「次に来るなら、温泉の掃除道具を持ってきて」
アランが叫ぶ。
「そういう比喩やめろ!! 本当に持ってくる!!」
アルシェが首を傾げる。
「掃除道具、必要」
「必要なのは退場だよ!!」
――その時。
火口の向こう側でがさりと岩が崩れた。
「……?」
アランが振り向いた瞬間、見えた。
黒ローブの列の端。
そこにいた“もう一人”。
白いフードじゃない。
黒いローブでもない。
旅装の、軽い布。
神殿の紋もない。
なのに。
“祈り”の匂いがする。
薄いのに、刺さる。
アランの鼻が勝手に反応して、胃が一緒に鳴った。
「……また増えるのかよ」
妖精が悲鳴を上げる。
『やめて!!!増えないで!!!』
アルシェが、その影を見た。
そして、静かに言った。
「……誰」
影の主が、火口の縁に立つ。
その顔が、ちらりと見えた。
良い。
良すぎる。
でもヴィクトル系の“整い方”じゃない。
もっと、無防備で、無自覚で、危険な良さ。
その男は、にこりともせず、ただ言った。
「竜様。温泉は、汚れません」
アランが叫ぶ。
「汚れるんだよ!! お前誰だよ!!」
男はアランを見て、少しだけ眉を上げた。
「……第十七候補、アラン・ド・ヴァレンヌ」
知ってる。
名前を知られてる。
最悪だ。
アルシェがゆっくり笑った。
にこり、じゃない。
温度がない笑み。
「……汚れないって言う人間は」
一拍。
「だいたい、汚すの」
火山がゴォ……と鳴り、雲海がざわりと揺れる。
そしてアルシェは言う。
「温泉の掃除、始める」
アランは膝が笑うのを感じながら胃に手を当てた。
「……デート、どこ行った」
アルシェが即答する。
「掃除もデート」
「デート万能説やめろ!!」
――三分後。
ヴィクトルの声が戻る。
戻った瞬間、彼は初めて、感情の乗った声を出した。
「……竜様」
アルシェは笑顔のまま言った。
「素直に行儀よく帰りなさい」
ヴィクトルは一拍固まり、そして。
ゆっくりと息を吐いた。
「……承知しました」
笑みが戻る。
戻るが目だけが笑っていない。
「ですが、次は“別の者”が伺うでしょう」
アランの胃が条件反射で死を予告した。
「やめろぉぉぉ!!」
アルシェはさらっと言った。
「別の者、掃除道具必要?」
「だから本当に持ってくるな!!」
火山の上で、デートは――
温泉掃除という名の新章に突入した。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




