19 汚れ 前編
アルシェの“にこっ”が酒場の空気を一段だけ冷やした。
店内の酔っ払いが、理由もなく背筋を正す。
喧嘩腰の男が、なぜか急に水を飲み始める。
店主が、ジョッキを拭く手を止める。
竜の笑顔は、酒場の治安を良くする。
アランは胃を押さえながら言った。
「アルシェ。行儀よく。今日は行儀よくする日」
アルシェは頷く。
「うん。行儀よくする日」
妖精が小声で泣いた。
『行儀の基準が竜……』
『祈りたい……』
「妖精ども祈るな! 余計ややこしくなる!」
レオニスが一歩前に出る。
「竜様。ヴィクトルは、火山で“契約”を結ぶ準備をしている可能性があります」
「契約」
アルシェがその単語を転がす。
砂粒みたいに、舌の上で嫌そうに。
「契約って、縛る?」
アランが即答する。
「縛る。だいたい縛る。紙でも言葉でも縛る」
アルシェは少し考えてから、さらっと言った。
「じゃあ、嫌」
店内の空気がまた、すっと薄くなる。
「嫌、で済ませるな……!」
アランが呻くと、アルシェが手を差し出した。
「行く」
「……行く」
アランが手を取った瞬間、世界が“めくれる”気配がした。
「待て! 今度は二歩で移動するな!」
「じゃあ、三歩」
「そういう問題じゃねぇ!」
アルシェは一瞬だけ眉を寄せる。
「……人間基準、難しい」
「難しいねぇじゃない!」
その時、店主が震え声で言った。
「お、おいアラン……あの嬢ちゃん、マジで何者なんだ……?」
アランは一拍置いてから、諦めたように言う。
「……恋人(仮)」
「えっ」
店内がざわつく。
「恋人!?」
「アランに!?」
「顔だけじゃなかったのか……!」
アルシェが目を輝かせた。
「恋人」
アランの胃が鳴った。
「今それを確定みたいに復唱するな!」
「仮」
「そこ大事!」
アルシェは満足そうに頷いた。
「仮の恋人。いい」
「いいのかよ!」
レオニスが咳払いをした。
「竜様、時間が」
「うん」
アルシェはアランの手を引く。
「三歩、歩く」
「だからその歩数の概念をやめろ!」
アルシェは真顔で言った。
「歩くのがデート」
「今は緊急事態だ!」
「緊急デート」
「語尾で解決するな!」
◇
三歩目が落ちた瞬間。
硫黄の匂いが戻った。
熱が戻った。
地鳴りが戻った。
そして何より――
火山の上の“静けさ”が戻った。
静けさというか、世界が息を殺している感じだ。
火口の縁。
雲海。
赤く脈打つ溶岩。
黒い岩肌。
そして、その上に。
黒い点々。
人影がいくつもいる。
神殿の者たちだ。
白いフードではない。
黒いローブの集団。
整列しているろうそくみたいに動かない影たち。
その中央でヴィクトルが立っていた。
あの、涼しい顔で。
涼しい声で。
そして、よりにもよって。
火口の縁に、机を置いていた。
「……机?」
アランが呟いた。
「机だね」
アルシェが頷く。
「温泉に、机」
「温泉って言うな!」
ヴィクトルがこちらを見て、微笑んだ。
「竜の御方。お戻りをお待ちしておりました」
アランが叫ぶ。
「待つな!! 勝手に待つな!!」
ヴィクトルはアランを見て、穏やかに言う。
「第十七候補。お健やかそうで何よりです」
「胃は死んでる!!」
ヴィクトルは微笑みを崩さない。
「それは遺憾」
「遺憾で済ませるな!」
アルシェが一歩前に出た。
火山の熱気の中で、彼女だけが涼しい。
「ヴィクトル」
「はい」
「あなた、私の温泉に来た」
「竜様の“お気に入りの場所”と伺いましたので」
「招待してない」
「ええ。承知しております」
承知してるのに帰らない。
この男の厄介さは、礼儀が完璧なところだ。
アルシェは指を一本立てた。
「行儀よくする日」
ヴィクトルが少しだけ目を細める。
「素晴らしい」
「褒めるな」
アランが即座に言うと、アルシェが頷いた。
「うん。褒めるの、嫌」
ヴィクトルがやけに丁寧に礼をする。
「では、本題に入ります」
アランの胃が嫌な予感で跳ねる。
「入るな! 本題に入るな!」
ヴィクトルは机の上の紙を一枚、持ち上げた。
紙が、火山の熱気でふわりと揺れる。
「契約書です」
「ほら来た!」
アルシェが首を傾げる。
「紙で縛るやつ」
アランが呻く。
「理解が早いのが怖い!」
ヴィクトルは笑う。
「縛りません。これは“確認”です」
「確認って言うやつはだいたい縛る!」
ヴィクトルは紙を指でトン、と叩いた。
「竜様が自由に選ぶこと」
「神殿が介入しないこと」
「そして、選考会の記録は“世界”に開示すること」
アルシェは真顔で言った。
「最後だけ、嫌」
ヴィクトルが微笑む。
「当然でしょう。だからこそ、契約です」
「やっぱ縛ってるじゃねぇか!!」
アランが叫ぶと、ヴィクトルは淡々と返す。
「縛りではなく、合意です」
「同じだ!」
アルシェが一歩、また前に出た。
「私は、世界に説明したくない。その義務もない」
その声は静かだ。
静かなのに火山が一瞬だけ鳴り止んだように感じる。
ヴィクトルは柔らかく言った。
「竜様。世界は、あなたの“気分”を恐れています」
アルシェが瞬きをする。
「私の気分が怖いの?」
「はい」
「じゃあ、世界は私を見てない」
アルシェの声が少しだけ冷たくなる。
「私が“何を嫌うか”を見てない」
ヴィクトルの笑みがわずかに固まる。
アランは一歩前に出た。
「ヴィクトル。あんた、契約を火山でやる意味は?」
ヴィクトルは即答した。
「象徴です」
「象徴」
「竜の温泉。竜の楽園。竜の領域」
言い方が巧い。
巧すぎる。
「ここで契約を結べば、世界各国は安心します」
アランが吐き捨てる。
「安心じゃねぇ。所有の札を貼るつもりだろ」
ヴィクトルは微笑む。
「解釈は自由です」
「それ言うな!!」
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




