第五話「子猫のお母さん」
タンッと軽やかな音を立ててエンターキーを押す。
ようやく完成した文章をザッと見直してから、慎重に上書き保存をクリックした。……消しでもしたら大惨事だ。
「……ふうぅぅ」
問題なく保存できたことを確認して、大きく息を吐き出した。
気分的には“終わったーっ!”と叫びたかったが、残念ながら午後からは楽しい職員会議が控えている。チラッとこっちを見た教頭から嫌味を言われないためにも、何事もなかったかのような顔で机の上を片付けることにした。
うん、早くお昼ご飯食べよ。
「莉佳ちゃ~ん、終わったの~?」
広げていた資料や書類を引き出しにしまっていると、隣の席から彩乃さんが話しかけてきた。
「午前中にしたかった分は終わりましたよ。高村先生は?」
「私も終わった~。一緒にお昼食べよ~」
恒例のお昼のお誘いに頷き、彼女がお弁当を置きやすいように少しだけ体を右に寄せる。
キャスターを転がし椅子ごと移動して来た彩乃さんは、可愛らしいランチバッグとタンブラーを私の机に置きながら不思議そうに問いかけてきた。
「ねぇ~。今は春休み中で生徒もいないなんだし、いつも通り名前で呼んだら~」
「ダメです。仕事中ですから。桐下先生のことも苗字で呼んでますし」
小・中・高と一緒だった幼馴染でも、職場ではなるべく苗字で呼ぶようにしている。……鈴芽は普通に名前で呼んでくるが。
「真面目~……って、あれ? 今日、鈴芽ちゃんは~?」
「出張だそうですよ」
「音楽の先生も大変だね~」
出張先の交通の便の悪さを嘆いていた幼馴染に心の中で合掌し、私は今日のお昼ご飯であるツナマヨおにぎりへと手を伸ばした。
彩乃さんが入れてくれた食後のお茶を飲んでいると、机の端に置いておいたスマホが小さく振動しているのが目に入る。
着信画面には“冴木悠慈”と表示されていた。
「……あっ!」
「なあに~? 電話~?」
“彼氏~?”とからかい混じりにこちらを見る彩乃さんに軽く頭を下げ、スマホを持って廊下へと出る。休憩中であっても、職員室で私用電話をすると教頭からお説教を食らってしまうのだ。
「もしもし?」
廊下の隅に移動しながらスマホへと呼びかけると、電波が悪いのか若先生の声が少し遠くに聞こえる。
『りー、今大丈夫だったか?』
「うん。まだ休憩時間だから。……迷い猫のこと、何か分かった?」
マサムネのことを伝えたのは昨日のお昼休みだったのに、もう確認が取れたのだろうか。
悪い予感が頭を過ぎり、思わず尋ねる声が固くなった。しかし、若先生は私の様子を気にすることなく、いつも通りの飄々とした口調で結果を教えてくれる。
『おお、喜べ。飼い主見つかったぞ』
「ホント!?」
『うちのお客さんだった。本人も必死で探してたみたいでな。連絡入れたら、すぐにでも迎えに行きたいって』
「良かった~」
家で待っているであろうマサムネの顔を思い出し、小さく笑みが漏れた。
……良かったね、マサムネ。
ちゃんとお母さん見つかったよ。
『お前、今日の夕方うちに子猫連れて来れるか?』
「ええっと、六時なら確実に行けると思う」
『六時な。んじゃ、あっちにもそう言っとくわ』
「ありがとね、若先生」
『気にすんな。今回はうちのお客さんのことだしな』
“今回は”のところに若干含みを感じる。……毎回迷惑を掛けて申し訳ない。
もう一度若先生へとお礼を言ってから電話を切り、私は少しだけ軽やかな足取りで職員室へと戻った。
◇◇◇
子どもにとって、病院というのは恐怖の象徴である。それは動物の子どもでも変わらない。
『いやあぁぁぁ! ちゅーしゃ、やだああぁぁ!!』
猫用のキャリーバッグの中からマサムネの悲痛な叫び声が聞こえている。先程からずっとこの調子だ。どうやら、病院への行き道に見覚えがあったらしい。
「だから、注射なんてしないって言ってるでしょ!」
『うそだあぁぁぁ!』
「嘘じゃないわよ。キミの“お母さん”が待ってるの……っと」
キャリーバッグから出ようと藻掻くので、危うく転けそうになってしまった。
……危ないわねっ。
イラッとした気持ちを静めつつ、殊更優しい口調で嗜める。相手は幼児だ。飼い主さんと離れて不安がいっぱいの子どもなのだ。
「大人しくしてなさい。お母さんに会いたいんでしょう?」
『……うん』
「病院はただの待ち合わせ場所よ。怖いことなんて何もしないから、ね?」
『うん!』
元気の良い返事にホッとしていると、目的地が見えてきた。
「こんにちわ~」
“さえき動物病院”と書かれたガラスの扉を開けて中を覗き込む。もう休診時間のためか、いつもは活気のある――主にペット達の悲鳴だ――待合室には誰もいなかった。
あれ、マサムネの飼い主さんは?
若先生の姿もないことを不思議に思いながら、静かに室内へと入る。
『おかあさん、いた?』
「うーん。まだ来てないみたい」
腕時計を見ると、約束の六時までまだ二十分近くあった。急いだ甲斐あってか、だいぶ早く着いたようだ。
とりあえず、座って待っていようとキャリーバッグをソファに置いたところで、奥の診察室から若先生が出て来た。
「おー、もう来てたのか」
若先生はそう言いながらソファへと近づいて来る。
診察時間外だからか、トレードマークの白衣は着ていなかった。綺麗に染めた焦げ茶の髪を流行りのウルフカットにし、ブランド物のシャツを着こなす姿から彼を獣医だと思う人は少ないだろう。
「さっき着いたところ。飼い主さんは?」
「まだ来てねえな。……っと、マサムネ、ちょっとデカくなったか?」
『……っ!』
緊張で固くなっていたらしいマサムネをキャリーバッグから抱き上げ、若先生はしげしげと観察するように見つめる。
抱き上げられているマサムネの顔は見事に引き攣っていた。
『いやあぁぁ!』
「ははっ、ビビってんな」
「来る途中も、病院だって気付いて物凄い嫌がったんだからね」
『りかさあぁんん!!』
「病院が好きな子猫なんていねえだろ。俺のせいじゃねえよ」
『うわあぁぁぁん!!』
「……私が抱っこしとく」
必死に救いを求めるマサムネがさすがに可哀想になる。
プルプルと震える体を若先生から受け取ると、マサムネは“もう離れない!”とばかりに私の服にしがみついた。……そんなに怖かったのか。
そんな私達のやり取りに若先生が呆れた声を上げる。
「懐いてんな~。まだ拾って三日目だろ?」
「拾ったわけじゃないけどね……」
どうでも良い話をしていると、病院の入り口が控えめに開かれた。
「あ、あの……」
ガラスの扉を小さく開けて、こちらを窺うように顔を出したのは目を見張るような美少女だった。彩乃さんも結構な美人だが、この子は正統派美少女といった感じである。こう、大和撫子タイプの。
「おお、芳野さん。遠慮せず入っといで」
「は、はい」
若先生が手招きすると、芳野さんというらしい美少女はおずおずと病院の中へと入って来た。この子がマサムネの飼い主さんなのだろう。
芳野さんは不安げに視線を彷徨わせていたが、私の腕の中のマサムネを見るとぱあっと笑顔になる。
「マサムネ!!」
『あっ、おかあさんだ!!』
駆け寄って来た芳野さんにマサムネを手渡すと、彼女は嬉しそうにマサムネを抱き締めた。
「もうっ、本当に心配したんだからっ」
『おかあさあぁぁんん!!』
「良かった……っ」
再会を喜ぶ二人からそっと離れる。感動のシーンに部外者は不要だ。
一頻り再会を喜び合ったあと、芳野さんは少し恥ずかしそうに自己紹介をしてくれた。
「芳野恋春です。マサムネを見つけて下さり、本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をする彼女は、この春から一人暮らしを始めた女子大生らしい。
猫を飼うのは初めてで、躾にも四苦八苦してたところにこの迷子騒動が起きたのだとか。完全にパニックになっていたので、若先生から連絡が来たときは本当にホッとしたという。
「猫って意外なところからスルッと外に出て行っちゃうことがあるから、今度からは迷子札とか付けといた方が良いかもね」
「はい。そうします」
私の言葉に真剣に頷いている彼女なら、これからもマサムネと良い関係を築いていけるだろう。
「じゃあね。マサムネ、もう勝手に家から出ちゃダメよ」
『はーい!』
本当に分かっているのかと疑ってしまうような能天気な返事に脱力する。
今も、病院の窓から見える蝶に気をとられているあたり、もう二・三回は脱走しそうだ。……自分で降りられない木には登らないでよ。
「本当に……本当に、ありがとうございました」
「そんなに気にしないで」
「そうそう。コイツは動物を拾うのが趣味みたいな奴だから」
若先生の人聞きの悪い言葉に小さく笑い、芳野さんはマサムネを連れて帰って行った。
◇◇◇
「あれ? 莉佳さん、今帰りですか?」
マンションまであと数歩というところで、ヴォルフの散歩に行くらしい恭くんに声をかけられた。……向かいに住んでいて、今までこうして会わなかったことが不思議だ。ここに越して来て半年くらい経つのに。
「うん。ちょっと用事があって……」
「春休みなのに大変ですね」
「いや、仕事じゃないんだけどね」
気遣ってくれる恭くんに笑い掛けてから、ジッと私を見つめるヴォルフへと視線を合わせた。
『莉佳』
「こんばんわ、ヴォルフ。……子猫の飼い主さん無事に見つかったよ」
ピンッと耳を立てたヴォルフの頭を撫でながら、恭くんに聞こえないように小声で告げる。
興味ないかとも思ったが、嬉しげに尻尾を振る様子からすると意外と心配してくれていたのかもしれない。
「じゃ、またね。恭くん、ヴォルフ」
今朝のように口説かれても困るので、ヴォルフが何か言う前にサッと立ち上がる。
エントランスへと向かって歩いていると、後ろから“良かったな”というヴォルフの声が聞こえた気がした。




