第6話:転倒と肉弾特攻
全身の骨という骨が、まるで大型のプレス機で乱暴に押し潰されたかのように悲鳴を上げていた。
「う、ぐぅ……痛ぇ……」
サトーが重い意識を取り戻したとき、最初に感じたのは、かつて経験したことのないほどの強烈な全身の鈍痛だった。
前職のブラック企業で、三日連続の徹夜と取引先での土下座営業を終えた後の疲労感すら、今のこの痛みに比べれば羽毛布団に包まれているようなものだ。
薄く目を開けると、細い十字のスリット越しに、上等な白い布で作られた天幕の天井が見えた。
どうやら、どこかの野戦病院か、あるいは司令官クラスが使う天幕のベッドに寝かされているらしい。背中の下には、スラムの酒場の屋根裏にある硬い麦わらベッドとは比べ物にならないほど、ふかふかで上質なマットレスの感触があった。
(……生きてる。俺、あの地獄の大爆発から生還したのか……)
奇跡だった。
三十キロの錆びついた全身甲冑を着たまま、斜面をボウリングの鉄球のように転がり落ち、魔王軍の幹部である巨漢ザルバの膝裏に激突。
その直後に起きた極大魔法『地獄の業火』の暴発という、致死率一万パーセントの状況下で生き残れたのは、完全に偶然の産物である。
ザルバの三メートルを超える巨体がちょうどサトーの上に覆い被さる形となり、最悪の爆風と熱波を遮る『肉の盾』となってくれたのだ。それに加えて、ゴミ捨て場で拾ったこの分厚い鉄の鎧が、周囲の瓦礫からサトーの貧弱な肉体を守り抜いたのである。
(悪運が強すぎる……。いや、そもそもあんなスラムのゴミ捨て場でこの鎧を拾わなければ、こんな目に遭わなかったんだ。俺のバカ! 浅ましい貧乏性のバカ!)
サトーが心の中で過去の自分を全力で殴り飛ばしていると、天幕の中に気配を感じた。
「おお! 意識を取り戻されましたか、スミス殿!」
サトーの耳に飛び込んできたのは、ひどく興奮した、聞き覚えのある若い男の声だった。
重い首をわずかに動かすと、そこには銀色の真新しい鎧を着た、あの鋭い目つきの騎士――サトーをスラム街から最前線へと強制連行した張本人、レオン小隊長が立っていた。
その顔は、なぜか感動の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。
「スミス殿! このレオン、貴方様の御覚醒を今か今かと待ちわびておりました! 軍医によれば、外傷は奇跡的に一切ないものの、あの凄まじい爆発の衝撃波と、極限まで魔力を練り上げた疲労により、三日は目を覚まさないかもしれないとのことでしたが……たった半日で目覚められるとは! なんという恐るべき回復力!」
(いや、ただ気絶してただけだし、回復力っていうか俺の体力値は『3(病み上がりの老人と同等)』なんだけど……)
サトーが心の中でツッコミを入れていると、レオンはサトーの枕元に歩み寄り、パタンと片膝を突いて、まるで神に祈るかのように深々と頭を下げた。
「スミス殿……いや、スミス将軍! この度は我がアーゼンベルフ王国軍、いや、この世界そのものを救っていただき、言葉では言い表せないほどの感謝を申し上げます! 貴方様は我々の光……真の英雄です!」
(……はい?)
サトーの思考が、完全にフリーズした。
今、この暑苦しい騎士は何と言った? スミス将軍? 英雄?
意味がわからない。
「あ、あの……」
サトーは兜の中で乾き切った唇を舐め、掠れた声で尋ねようとした。
しかし、その声は分厚い鉄の兜を通して、低く重々しい『歴戦の勇士の低い唸り声』となって外に響いた。
「おお、無理に喋らなくても結構です! 状況はすべて私がご説明いたします!」
レオンは勝手にサトーの意思を汲み取り(勘違いし)、熱を帯びた声で語り始めた。
「スミス殿が自らの命を弾丸と化して放ったあの『超高速回転肉弾特攻』により、魔将ザルバは完全に体制を崩し、自らの極大魔法を暴発させて自滅いたしました!その爆発に巻き込まれ、周囲を固めていた数千の魔王軍先遣隊も一瞬にして灰燼に帰しました!我が方の被害は、陣地の柵が少し燃えた程度で、死傷者はなんと『ゼロ』!完全なる、圧倒的な大勝利です! そしてこれはすべて、貴方様お一人の神懸かった戦術と、自己犠牲の特攻によるものなのです!」
レオンの言葉を聞いて、サトーの顔からスッと血の気が引いた。
(マジかよ……。俺が逃げようとして転んだだけの事故が、完璧な『特攻作戦』として処理されてる……!? しかも数千の敵を一瞬で全滅させたって!?)
前職のブラック企業で例えるなら、間違えてライバル会社の社長に「お前の会社はクソだ」というメールを誤送信してしまった結果、なぜかそれが天才的な心理戦として働き、ライバル会社が勝手に自滅して自社の株価がストップ高になったようなものである。
結果だけ見れば大金星だが、本人の実力はゼロどころかマイナスだ。
「あの……レオン、さん。それは、その……誤解というか……」
「誤解などとご謙遜を! ギュンター司令官も、貴方様のあの決死の突撃を特等席でご覧になり、涙を流して震えておられました! 『彼こそが王国の剣だ』と!」
サトーの胃のあたりが、ギューッと雑巾を絞るように痛んだ。
これはヤバい。非常にマズい。
ここで「いや、実はただ逃げようとして足を滑らせて転がっただけなんです」と真実を告白したらどうなるか。
数万の兵士が感動し、司令官が涙を流して感謝しているこの状況で、それがすべて『勘違い』だったとバレた瞬間。
間違いなく、敵前逃亡、軍の士気低下、司令官への欺瞞罪など、あらゆる重罪を被せられ、魔王軍に殺されるよりも悲惨な方法で処刑されるだろう。
あの般若王女に路地裏へ捨てられた時よりも、遥かに確実で残酷なデッドエンドである。
(ダメだ! 絶対に真実を話しちゃダメだ! このまま『歴戦の英雄スミス』という設定を貫き通すしかない! バレたら死ぬ! 物理的に首が飛ぶ!)
サトーが極限の保身のために沈黙を選択した、その時だった。
「おお、目覚められたか、スミス殿!」
天幕の入り口がバサッと開き、血まみれの包帯を巻いた初老の騎士――ギュンター司令官が、数人の高位の将校たちを引き連れて入ってきた。
彼らはサトーの姿を見るなり、一斉に姿勢を正し、軍の最敬礼を行った。
「ギュンター司令官!」
レオンが素早く立ち上がり、敬礼を返す。
「よい、楽にしろレオン。……スミス殿、お体の具合はいかがかな」
ギュンター司令官は、ベッドで横たわるサトー(※錆びた全身甲冑のまま)の傍らに歩み寄り、慈父のような優しい目を向けた。
「軍医に命じて、貴殿の鎧を脱がせ、傷の手当てと身体の清拭を行わせようとしたのだが……貴殿の兜の留め具は、特殊な細工が施されているのか、何人がかりで外そうとしても全くビクともしなかった。致し方なく、鎧を着たままベッドに寝かせている非礼を許してほしい」
(ちげーよ! ただサビで完全に癒着してロックされてるだけだよ! 外れないからずっとこのカビとゲロの臭いの中で耐えてるんだよ! 脱がせて! 潤滑油とか使って力ずくで脱がせてェェェ!)
サトーは心の中で号泣しながら懇願したが、もちろん声には出せない。
「それにしても……」
ギュンター司令官は、サトーの兜の細いスリットを覗き込み、深く嘆息した。
「傷の手当てすら拒み、あえてその重く苦しい甲冑を脱ごうとしない。……その揺るぎない覚悟、私には痛いほどにわかるぞ」
「えっ?」
サトーは思わず間抜けな声(くぐもった唸り声)を漏らした。
「貴殿は、かつて仕えた主君か、あるいは愛する者を魔族に奪われたのだろう。そして、この世から魔王軍という悪を完全に駆逐するその日まで、決して素顔を晒さず、安息の眠りにもつかないという『過酷な誓い(ゲッシュ)』を立てているのだな。……その兜の錆は、貴殿が流してきた血と涙の証なのだ」
(だから違うってばァァァァッ! 勝手に重すぎるバックボーンを捏造しないでェェェ!)
サトーの心の中のツッコミを完全に置き去りにして、ギュンター司令官も、レオンも、後ろに控えていた将校たちも、全員が目頭を押さえて熱い涙を流し始めてしまった。
「なんて気高いお方だ……。自らの素性も栄誉も捨て、ただ復讐と平和のために鉄の仮面を被り続けるとは……」
「スミス殿……私レオン、貴方様のその崇高な魂に、一生ついていく覚悟を決めました!」
「あ、いや……あの……」
サトーが否定しようと右手を少しだけ上げると、ギュンター司令官がその手を両手でガシッと熱く握りしめてきた。
「案ずるな、スミス殿。貴殿の無言の誓い、このギュンターが確かに受け取った! 貴殿の素性については、今後軍の中で一切詮索しないことを、私の権限において約束しよう!」
(えっ?)
サトーの動きがピタリと止まった。
詮索しない。つまり、素顔を見せなくてもいい。身分証明も不要。
それは、サトーにとって『佐藤一郎(般若王女に捨てられた不法投棄物)』であることが絶対にバレないという、奇跡のような確約だった。
(……これ、乗るしかないのでは? むしろ、兜がサビで外れないのを逆手にとって、『そういう誓いを立ててる設定』にしておけば、顔バレのリスクは一生ゼロになるぞ!)
サトーの持ち前の「その場しのぎの社畜根性」が、ここで最悪の方向にフル回転した。
サトーはゆっくりと、あえて重々しく、コクリと一度だけ頷いてみせた。
それは『すべては平和のために。私の正体など気にするな』という、無言の肯定だった。
「おお……っ!」
ギュンター司令官が感極まったように声を震わせた。
「スミス殿。貴殿のその類まれなる戦術眼、そして軍の危機を救った圧倒的な功績。これを単なる一兵卒のままにしておくのは、王国軍の損失であり、恥である。よって、王都の本部に事後承諾の形で、貴殿の特例昇進を申請した!」
(……はい?)
サトーの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「特例昇進……ですか?」
「うむ! 本日この瞬間をもって、貴殿を『独立遊撃部隊の隊長』、階級にして『将軍』待遇として遇することとする! そして、貴殿の手足となって働く副官として、このレオンを専属でつけさせてもらう!」
「レオン小隊長、改め、スミス将軍専属副官のレオンです! スミス将軍の御手足となり、地獄の底までもお供いたします!」
レオンがバチィィッ!と完璧な敬礼を決める。
(将軍!? 隊長!? ちょっと待って、昇進!? 前職で平社員だった俺が、いきなり軍の将軍!?)
サトーの脳内はパニックを超えて、もはや真っ白な灰になりかけていた。
軍のトップクラスの階級。それはつまり、平穏なモブ生活とは最も縁遠い場所だ。
安全な後方で皿洗いをしているはずだったのに、これからは常に最前線に立たされ、部下たち(しかも自分を狂信しているマッチョたち)を率いて、本物の化け物たちと殺し合いをしなければならないということだ。
(無理だ! 絶対に無理だ! 俺の腕力は農民の子供以下なんだぞ! 将軍なんてやったら、次の戦いで絶対にバレて殺される!)
「あ、あの! ギュンター司令官! 私は将軍などという大層な器では……それに、まだ体調も優れず……」
サトーが必死に辞退を申し出ようとしたが、悲しいかな、彼のくぐもった声は『謙虚で無欲な英雄の言葉』にしか聞こえなかった。
「ははは! さすがはスミス将軍、地位や名誉など歯牙にもかけないというわけか! だが、貴殿にはこの国を救う義務がある! すでに王都のセレスティア王女殿下にも、貴殿のすばらしい功績と名前は伝令の早馬で報告済みだ!」
「…………え?」
サトーの全身の血が、一瞬にして完全に凍りついた。
「王女……殿下、に……?」
「うむ! あの冷徹で知られるセレスティア王女殿下も、スミス将軍の『たった一人で魔将を討ち取り、自軍の被害ゼロ』という報告を聞いて、大層お喜びになっているそうだ。近いうちに、王都に凱旋して直接お褒めの言葉を賜る機会もあるだろう!」
(終わった……)
サトーは兜の中で、完全に白目を剥いた。
あの般若王女に。
ステータスが低いというだけで自分を路地裏に不法投棄した、あの冷酷無比な超ブラック上司(王女)に、『英雄スミス』の名前が知られてしまった。
もしも、王都に凱旋して、この兜を無理やり外されて、中身が『あの時捨てた無能なドブネズミ(サトー)』だとバレたら?
国家予算を注ぎ込んだ召喚儀式の失敗作が、王国の英雄として自分を騙していたと知ったら?
(殺される。間違いなく、ただの死刑じゃ済まない。串刺しにされた上で火あぶりにされて、その灰をスラムのドブ川に流されるレベルの激怒を買う……!)
絶対にバレてはいけない。
この『兜が外れない寡黙な英雄・スミス』という設定を、墓場まで貫き通さなければ、俺の命はない。
「……スミス将軍? いかがなされた? 震えておられるようだが」
ギュンター司令官が心配そうに覗き込んでくる。
サトーはガチガチと鳴る歯を食いしばり、必死に震えを止めて、ゆっくりと首を横に振った。
「……なんでも、ありません。……これより、私が……この部隊を、率います……」
地獄の底から響くような、絶望に満ちた低い声(※周囲には『静かなる闘志』に聞こえる)で、サトーはそう宣言するしかなかった。
「おお! 言ってくださったか! 皆の者、聞け! 我らが新たな英雄、スミス将軍の誕生だ!」
「「「スミス将軍! スミス将軍! スミス将軍バンザイ!!」」」
天幕の外にまで響き渡る、兵士たちの熱狂的な大歓声。
レオンは感動のあまり号泣し、ギュンター司令官も満足げに頷いている。
その狂騒のど真ん中で。
重さ三十キロの悪臭漂う甲冑の中に閉じ込められた最弱の社畜は、逃げ場のない完璧な地獄の始まりを悟り、ただ一人、誰にも見えない暗闇の中でポロポロと絶望の涙を流し続けるのだった。
―――つづく。




