第5話:鉄屑と強制出荷
ガタガタ、ゴトゴトと、車輪が石や深い轍を乗り越えるたびに、サトーの全身を包む三十キロのポンコツ甲冑が鈍い音を立てて激しく軋んだ。
アーゼンベルフ王国の王都を出発し、魔王軍との血みどろの激戦が繰り広げられている『西部戦線』へと向かう、王国軍の徴兵馬車の中。
窓枠に太い鉄格子がはめられた、どう見ても囚人の護送車にしか見えない薄暗い馬車の片隅で、サトーは体育座りの姿勢のまま、ピクリとも動かずに(正確には、鎧が重すぎて動けずに)完全に固まっていた。
「……ううっ……」
長年の錆で癒着して完全にロックされたフルフェイスの兜の中で、サトーは涙と鼻水にまみれながら、声にならない悲鳴を上げ続けていた。
王都のスラムを出発してから、すでに丸一日が経過している。
その間、サトーは一睡もできず、水一滴すら飲めていなかった。何しろ、兜が外れないのだから食事をとることもできないし、三十キロの重りとカビ、そして古いチーズの悪臭が充満する密閉空間の中で安眠できるはずがない。
(死ぬ。これは絶対に死ぬ。戦場に着く前に、餓死か脱水症状か、この悪臭による窒息で俺の命は終わる。……ああ、シルヴィママの作ってくれた、あの泥水みたいな激マズプロテインスープが恋しい。今ならあれをジョッキで一気飲みできる……)
社畜時代、あれほど憎んでいた満員電車の息苦しさすら、今となっては天国のように思えた。少なくとも、隣のサラリーマンのキツい整髪料の匂いは、この腐ったチーズの臭いよりはマシだった。
「見ろ……スミス殿のあの姿を」
不意に、馬車の向かい側に座っていたレオン小隊長が、隣の若い兵士にひそひそと囁きかける声が聞こえた。
「王都を出発してから丸一日。水も食料も一切口にせず、ただ己の内なる闘気と向き合い、微動だにせず瞑想を続けておられる。あれこそが、真の戦士の『戦への備え』なのだ」
「は、ははぁっ! さすがは歴戦の勇士! 自らを極限の飢餓状態に置くことで、生存本能と殺意を極限まで研ぎ澄ませているのですね! 私など、先ほど支給された干し肉を食べてしまった自分が恥ずかしいです!」
(違う! 違うんだよお前ら! 兜が脱げないだけなんだよ! 干し肉食いたい! 俺にもその干し肉をくれ! 顎が外れてもいいから食わせてくれぇぇ!)
サトーは必死に手を伸ばして干し肉を要求しようとしたが、三十キロの甲冑と長時間の体育座りによって完全に足が痺れており、「カシャン……」と腕のパーツをわずかに数センチ動かすことしかできなかった。
「おお! 今、スミス殿の腕が動いたぞ!」
「なんと鋭い動きだ! きっと、脳内ですでに千回は魔王軍の幹部と斬り合っているシミュレーションを行っているに違いない! 凄まじい気迫だ……近寄るだけで斬られそうだぜ!」
(だから違うって言ってるだろこの筋肉ダルマどもォォォ!)
兜の中でのサトーの血の涙も虚しく、彼らの中での『歴戦の英雄スミス』という完全に間違った虚像は、馬車が戦場に近づくにつれて、雪だるま式に巨大化していく一方だった。
◆ ◆ ◆
やがて、馬車が重々しい音を立てて急ブレーキをかけ、停車した。
外から鉄格子の扉が乱暴に開けられ、焦げ臭い熱風と、鼓膜を直接震わせるような重低音の爆発音が車内に雪崩れ込んでくる。
「到着したぞ! ここが西部戦線の最前線、第十三防衛陣地だ! 全員、直ちに降車し、ギュンター前線司令官の指示を仰げ!」
レオンの号令とともに、兵士たちが次々と馬車を飛び出していく。
足が完全に痺れ切っていたサトーは、立ち上がろうとした瞬間にバランスを崩し、馬車の入り口から「ガシャンッ!」と無様に地面へ転げ落ちた。
「お、おおっ! スミス殿! 馬車が完全に停車する前に、前転受け身で最速の降車をキメるとは! どこまでも戦場慣れしておられる!」
(ただ足が痺れて落ちただけです……誰か手を貸して……)
サトーが地面を這いつくばりながら重い兜の顔を上げると、細いスリット越しの視界に、この世の地獄をそのまま具現化したような光景が飛び込んできた。
空は、禍々しい魔力と炎によって赤黒く染まり、太陽の光を完全に遮っている。
見渡す限りの荒野には無数の巨大なクレーターが穿たれ、そこかしこで火柱が上がり、黒煙がもうもうと立ち込めていた。
耳をつんざくような剣と剣のぶつかり合う金属音、魔法による耳鳴りのするような爆発音、そして、手足を失い負傷した兵士たちの断末魔の悲鳴が、絶え間なく響き渡っている。
「なんだ、これ……映画の撮影……じゃないよな。本物の、戦争……」
現代日本で平和に生きてきたサトーにとって、それは完全にキャパシティを超える光景だった。
血の匂いと、肉が焦げる匂い。すぐ数十メートル先では、見上げるほど巨大なオークや、異形の魔物たちが、王国軍の兵士たちと血みどろの殺し合いを繰り広げている。兵士が次々と宙を舞い、地面に叩きつけられているのが見えた。
「ヒッ……! ヒィィィィィッ!」
サトーの全身の毛穴が開き、甲冑の中でガチガチと歯の根が合わなくなるほどの激しい痙攣が始まった。
前職のパワハラ上司の怒鳴り声など、この本物の殺戮の音に比べれば、幼稚園児のお遊戯のようなものだ。
「レオン小隊、到着しました! ギュンター司令官、戦況は!」
レオンが、前線の天幕の前で血まみれの包帯を巻いていた初老の騎士――ギュンター司令官に敬礼する。
「おお、レオンか! よく来てくれた! だが、状況は最悪だ! 敵の先遣隊を率いているのは、魔王軍幹部が一人、爆炎の魔将ザルバだ! 奴の放つ極大魔法の前に、我が軍の防衛線はすでに崩壊寸前……この陣地が突破されれば、王都まで一気に蹂躙されるぞ!」
ギュンター司令官が震える指で指し示した先。
戦場のど真ん中、ひときわ小高い丘の上に、その『絶望の象徴』は立っていた。
身長三メートルはあろうかという巨体。全身を黒い炎のような禍々しいオーラで包み、頭には山羊のようなねじれた角を生やした恐るべき大悪魔。それが、魔王軍幹部『爆炎の魔将ザルバ』だった。
『グハハハハ! 脆い、脆いぞ人間ども! 貴様らの貧弱な魔法障壁など、我が爆炎の前では紙切れ同然よ! さあ、次はこの第十三防衛陣地ごと、貴様らを消し炭に変えてやろう!』
ザルバが両手を天に掲げると、その頭上に、直径十メートルを超える巨大な火球――太陽をそのまま地上に持ってきたかのような、超高熱の『地獄の業火』が圧縮され、生み出され始めた。
そのすさまじい熱波だけで、遠く離れたサトーたちのいる陣地の地面すらチリチリと焦げ始めている。
「し、司令官! あれを撃たれたら、陣地ごと我々は全滅です!」
「わかっている! だが、あの魔法の発動を止めるには、ザルバの懐に直接飛び込んで魔法陣を破壊するしかない! しかし、あそこへ辿り着く前に、奴の周囲を固める親衛隊の魔物どもに八つ裂きにされる……! もはや、これまでか……!」
王国軍の兵士たちが、頭上の巨大な火球を見上げて次々と武器を取り落とし、絶望の涙を流して膝を突き始めた。
しかし、ただ一人、レオン小隊長だけは目を輝かせて振り返った。
その視線の先には、恐怖でガタガタと震えながら、後ろずさりしようとしている全身甲冑の男――サトーがいた。
「ギュンター司令官! 諦めるのはまだ早いです! 我々には、スミス殿がおります!」
「ス、スミスだと……? 誰だそれは!」
「王都のスラムで野に下っていた、歴戦の勇士です! 見てください、あの圧倒的な敵を前にしても一歩も引かず、むしろ武者震いを抑えきれずに闘気を爆発させているあの姿を!」
「な、なんだと!? この絶望的な状況で、あれほどの闘志を保っている者がいるというのか!?」
ギュンター司令官と、周囲の数百人の兵士たちの視線が、一斉にサトーへと突き刺さった。
(違う! 引いてる! めちゃくちゃ後ろに引いてる! 逃げたいのに鎧が重すぎて後ろに進めないだけだ! 闘気じゃなくてただの失禁寸前の痙攣だァァァ!)
「スミス殿!」
レオンが、サトーの前に進み出て、深々と頭を下げた。
「もはや、あの魔将ザルバの懐に飛び込めるのは、極限の死地を潜り抜けてきた貴方しかおりません! どうか、どうか我がアーゼンベルフ王国を……我々をお救いください!」
「おおお! 頼む、歴戦の勇士よ!」
「俺たちの家族を守ってくれぇぇ!」
周囲の兵士たちが次々と土下座し、涙ながらにサトーに祈りを捧げ始める。
完全に退路を断たれたサトーは、兜の中で白目を剥きそうになっていた。
(嘘だろ……なんで俺が、あんな核ミサイルみたいなのを作ってる化け物に突っ込まなきゃならないんだよ! 俺はただの商社マンだぞ! 腕力2だぞ! あんなの、近づく前に熱で蒸発するに決まってるだろ!)
頭上の巨大火球は、さらに膨張を続けている。あと数秒で、それがこの陣地に放たれるのは明白だった。
(無理だ! 死ぬ! 絶対に死ぬ! こんなところで死んでたまるかァァァ!)
極限の恐怖と生存本能が、ついにサトーの理性を完全に吹き飛ばした。
三十キロの甲冑の重さなど関係ない。火事場の馬鹿力が発動し、サトーは兵士たちの祈りを完全に無視して、クルリと『敵陣とは真逆の方向』――つまり、後方の安全地帯へと背を向けた。
「俺は帰る! 絶対に帰る! 豚亭の屋根裏部屋に帰るんだァァァァッ!!」
兜の中で魂の絶叫を上げながら、サトーは全力で逃亡を図るべく、地面を強く蹴り出した。
だが。
ここは整備された王都のアスファルトの道路ではなく、無数の魔法と砲撃によって荒れ果てた最前線の戦場である。
サトーが全力で踏み出したその右足は、不運にも、地面に深く突き刺さっていた『折れた巨大なオークの槍の柄』に思い切り引っかかってしまった。
「あぐっ!?」
バランスを崩したサトーの体は、三十キロの甲冑の重量と遠心力によって、まるでコマのように空中で横に半回転させられた。
そして、そのまま背中から地面に激突し、あろうことか『ザルバがいる丘の頂上』へ向かって続く、長くて急な下り坂の斜面へと放り出されてしまったのだ。
「えっ……? ぎゃあああああああああああああああっ!?」
傾斜角約四十度の急斜面。
丸みを帯びた全身甲冑に身を包んだサトーは、まるで人間ボウリングの巨大な鉄球のように、凄まじい速度で斜面を転がり落ち始めた。
ゴロゴロゴロゴロゴロォォォォォンッ!!!
三十キロの鉄の塊が、重力加速度を味方につけて斜面を爆走する。
兜の中のサトーは、完全に三半規管が破壊され、天地がひっくり返る視界の中で「オロロロロロロロ!」と叫び(吐き)ながら、ただただ転がり続けた。
一方、丘の上で極大魔法の詠唱を終えようとしていた魔将ザルバは、眼下からものすごい土煙を上げて自分に向かって一直線に突進(転がって)くる、謎の鉄の塊に気づいた。
『な、なんだあれは!?』
ザルバを護衛していた親衛隊の魔物たちが、慌てて武器を構えてサトーの行く手を阻もうとした。
しかし、重力と遠心力が完全に乗り切った、時速六十キロを超える『三十キロの鉄の塊のローリングタックル』は、もはや最強の物理兵器と化していた。
ドゴォォォン! バキィィィン!
『ギャアアアッ!』
『グベェッ!』
サトー(鉄球)は、立ちはだかる魔物たちを次々とボウリングのピンのようにはね飛ばし、粉砕しながら、一直線にザルバの足元へと迫っていく。
『ば、馬鹿な! 我が親衛隊の壁を、ただの肉弾突撃で突破しただと!? いや、違う! あれは防御を完全に捨て、自らの命を弾丸と化して放つ、伝説の特攻秘奥義……!』
ザルバが驚愕に目を見開いた、その直後。
ゴォォォォォンッ!!!
「ふべぇっ!?」
サトーの重厚な兜が、魔将ザルバの膝の裏(人間でいう最も急所の部分)に、弾丸のような速度でクリーンヒットした。
『グオォォォォォォッ!?』
不意打ちで膝の関節を完全に破壊されたザルバは、三メートルの巨体を支えきれずに、大木が倒れるように前方のめりに崩れ落ちた。
そして、その拍子に。
ザルバが両手で必死にコントロールしていた頭上の極大魔法『地獄の業火』の魔力バランスが、完全に崩壊した。
『し、しまった! 魔力の制御が……! ぬあああああああああっ!?』
ボシュゥゥゥゥゥ……ピカァァァァァァァァァァァァッ!!!
次の瞬間、戦場全体を真昼のように照らし出す、超弩級の閃光が弾けた。
ザルバの頭上にあった直径十メートルの火球が、目標を失い、ザルバ自身とその周囲にいた魔王軍の陣地のど真ん中で、大暴発を起こしたのだ。
ズドォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
鼓膜が破れるような轟音とともに、巨大なキノコ雲が戦場の空へと舞い上がった。
凄まじい爆風が吹き荒れ、王国軍の兵士たちもたまらず地面に伏せる。
数分後。
もうもうと立ち込めていた爆炎と土煙が晴れた後、そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
難攻不落と思われた魔将ザルバと、数千の魔王軍の先遣隊は、自らの極大魔法の暴発によって完全に消し炭となり、クレーターだけが残されていた。
敵軍の、完全なる一瞬での壊滅である。
「……お、おお……」
ギュンター司令官が、震える声で呟いた。
そして、その巨大な爆心地のクレーターの中心に。
爆発の瞬間、ザルバの巨体の下敷きになったことで奇跡的に直撃を免れ、さらにゴミ捨て場で拾った厚さ数センチの重厚なフルプレートアーマーのおかげで熱波からも守られたサトーが、白目を剥いて気絶しながら、あおむけに倒れていた。
その錆びついた甲冑からは、プシューッと白い煙が上がっている。
「……スミス、殿……」
レオンが、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、震える足で立ち上がった。
そして、戦場全体に響き渡る声で絶叫した。
「見よォォォォッ! あれが、我がアーゼンベルフ王国が誇る、真の英雄の姿だ! 自らの命を弾丸と化し、敵将の極大魔法の発動をその身一つで阻止し、さらには敵軍全体を巻き込んで自滅させるという、神懸かった『超高速回転肉弾特攻』!!」
「「「うおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
レオンの叫びに呼応するように、絶望の淵にあった王国軍の数万の兵士たちが、地鳴りのような大歓声を上げた。
「スミス将軍! スミス将軍! スミス将軍!!」
兵士たちは次々と立ち上がり、武器を天に掲げ、気絶してピクピクと痙攣しているだけのサトーに向かって、狂ったような歓喜のコールを送り始めた。
ギュンター司令官すらも、「なんという恐るべき戦術眼と、自己犠牲の精神……。彼こそが、この国の救世主だ!」と、ボロボロと感動の涙を流している。
一方、兜の中で気絶していたサトーは、周囲の爆音のようなコールで目を覚ました。
視界はぐるぐると回り、全身の骨が軋むように痛い。胃袋の中身はすべて兜の中にぶちまけてしまい、悪臭は限界を突破していた。
(あ、あれ……? 俺、生きてる? 逃げようとして転んで……そしたら急に大爆発が起きて……)
かすれる意識の中で、外から聞こえてくる「スミス将軍バンザイ!」という地鳴りのような歓声を聞いて、サトーは薄々と現状を理解し始めていた。
(……なんか、俺が敵のボスを倒したことになってる……?)
ここで「違います、逃げようとして転んだだけです」と真実を告げれば、間違いなく敵前逃亡の罪で即刻斬首されるだろう。
しかし、このまま英雄として祀り上げられれば、いつか必ず本当の死地に送られることになる。
どっちに転んでも、絶望のデッドエンド。
(……ママさん。俺の、俺のノンストレスな日々が……完全に、終わっちゃったよぉぉぉ……)
歓喜に沸き返る王国軍のど真ん中で。
最弱の元社畜・佐藤一郎は、誰にも聞こえない兜の奥底で、ポロポロと絶望の涙を流し続けるのだった。
―――つづく。




