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第4話:社畜と泥水スープ

異世界アーゼンベルフ王国の最下層、王都の光が一切届かないスラム街の奥深く。その吹き溜まりのような場所にある酒場『踊る豚亭』での住み込み生活が始まってから、およそ二週間という月日が経過しようとしていた。


「サトー! 三番テーブルのお客様にエールを三つ! あと、厨房の裏口付近の床が油でベタベタしてるから、洗剤を多めにつけてモップがけお願いね!」


「はいはーい! エール三つ、からの裏口のモップがけですね! ただいま行きます!」


活気に満ちた薄暗い店内に、サトーの張り切った明るい声が響き渡る。

かつて地球のブラック企業で、死んだ魚のような濁った目をしながら「……承知いたしました」と感情のない機械のように繰り返していた頃の彼とは、顔つきも声のトーンも、まるで別人のような軽快さだった。


水晶玉が非情にも弾き出した、腕力値「2」、体力値「3」という、スラムの野良犬にすら劣る絶望的なステータスは相変わらずだった。重いエールの樽を運ぶ時は息が上がるし、ちょっと走ればすぐに足がもつれる。

しかし、シルヴィママが毎日「残したらスクワット千回よ」という死の宣告と共に容赦なく胃袋に流し込んでくる『特製プロテインスープ(※味は泥水と腐ったハーブのブレンド)』のおかげか、以前のようにただ息をしているだけで疲労を感じるような虚弱体質からは、いくらか脱却しつつあった。


何より、精神的な疲労度合いが地球時代とは天と地ほども違った。


理不尽な取引先からの、鼓膜が破れそうなほどのクレーム電話に怯える必要はない。

会社に戻った瞬間、直属の上司から「お前の存在自体が部署の士気を下げている」「もっと心から笑え」「なぜ俺の言った通りにやらないんだ(※言っていない)」と、人格を根底から否定されるようなパワハラ説教を延々と食らうこともない。

終わりの見えないエクセルのデータ入力も、他人のミスを被せられて書かされる始末書も、他人の体臭と湿気で息もできないほどの満員電車での通勤ラッシュもない。


今ここにあるのは、床をモップでピカピカに磨き、山のような皿を洗い、クセの強すぎる常連客たちの面倒な絡み酒に適当な愛想笑いで相槌を打つという、単純だが確かな『労働の喜び』だった。

給料は三食のまかない(プロテイン固定)と、厨房の上のホコリっぽい屋根裏部屋のベッドだけだが、サトーにとっては、地球の高級タワーマンションに住みながら胃薬をかじる生活よりも、遥かに幸福度の高い、人間らしい生活だった。


「いやぁ……異世界最高。モブ生活バンザイ。般若王女にはゴミみたいに路地裏へ不法投棄されたけど、結果的にあのクソみたいな会社から抜け出せたんだから、むしろ今となっては王女様に感謝したいくらいだな。……いや、顔を思い出すだけで胃が痛くなるから前言撤回だけど」


開店前の比較的静かな時間、サトーはピカピカに磨き上げた木製のカウンターを満足げに撫でながら、一人ごちた。

自分の手で磨いた場所が綺麗になる。それだけで、自分の労働が正当に評価されたような気がして嬉しい。社畜のハードルは、どこまでも低かった。


「独り言を言ってニヤニヤしてないで、さっさと手を動かしなさいなサトー。あんたにはこれから、大事な『お使い』を頼むわよ」


厨房の奥から、ドスドスと地響きを立てながら、シルヴィママが巨大なゴミ袋を引きずって現れた。

麻袋を何重にも重ね、さらに太いロープで縛られたそのゴミ袋は、サトーの身長の半分ほどの高さがあり、それが三つも四つも転がされている。中には、酒場で出た数日分の生ゴミや、酔っ払いが割ったジョッキの破片、得体の知れない魔物肉の骨などが大量に詰まっており、すでに鼻を突くような悪臭を放っていた。


「うわっ、すごい量ですね。これを裏のゴミ捨て場に持っていけばいいんですか?」


「裏の小さいゴミ箱じゃ、到底入りきらないわよ。今日は月に一度の『大回収日』だから、スラムの第七区画にある大ゴミ捨て場まで運んでちょうだい。あんたのその貧弱な腕力じゃ一度に運べないだろうから、裏庭にある木製の台車を使っていいわよ。……道中、スラムのゴロツキに絡まれても、絶対に走って逃げるのよ。あんたが戦っても1秒でミンチにされるだけなんだから」


第七区画の大ゴミ捨て場といえば、スラム街の中でもさらに奥まった、不法投棄と犯罪のメッカのような危険地帯だ。まともな人間は絶対に近づかない。

しかし、今のサトーには「はい、喜んで!」と居酒屋のバイトのような元気な笑顔で答えられるだけの、謎の自信と心の余裕があった。


「任せてください、ママさん! 昼のピークまでには絶対に戻ってきますから! 台車の車輪に油も差しておきますね!」


サトーは鼻歌交じりに、裏庭から引っ張り出してきた木製の台車に巨大なゴミ袋を積み込んだ。

ギシギシと車輪を鳴らしながら、スラム街のさらに深い闇の奥へと向かって歩き出す。


これが、彼がようやく手に入れたささやかな平穏な日常を永遠に終わらせ、二度と引き返すことのできない『最悪のピタゴラスイッチ』の始まりだとは、この時のサトーは夢にも、本当に一ミリたりとも思っていなかった。


◆ ◆ ◆


「ふぅ……重っ。車輪がガタガタして進みづらいな。それにしても、第七区画ってのは本当に空気が悪い。会社の喫煙所の百倍は空気が淀んでるぞ」


台車を必死に押し込み、ようやく第七区画の大ゴミ捨て場に到着したサトーは、あまりの悪臭に思わず鼻を強くつまんだ。

そこは、王都中から集められたあらゆる廃棄物が山のように積み上げられた、巨大なクレーターのようなすり鉢状の空間だった。

腐敗した生ゴミの甘ったるい臭いと、鉄の錆びた匂い、そして正体不明の薬品の匂いが混ざり合い、視界の先には薄暗い瘴気のような緑色のガスすら漂っている。巨大なハエが羽音を立てて飛び回り、野犬よりも大きなネズミがゴミ山の中を這いずり回っていた。


「うぇぇ……早く捨てて帰ろう。プロテインの時間がもったいない」


サトーは手早く、台車から麻袋を所定の投棄スペースへと放り投げた。

腕力値2のせいで、何度も持ち上げようとしては落とし、全身を汗だくにしながらの重労働だった。

ようやくすべてのゴミを捨て終え、さっさとこの不気味な場所から立ち去ろうと台車の向きを反転させた。


その時だった。


「……ん? なんだあれ」


ゴミ山の斜面の中腹、色とりどりの廃棄物の間に、何か鈍く光るものが半分埋もれているのがサトーの目に留まった。

泥と油にまみれながらも、それは確かな金属の光沢を放っている。


持ち前の貧乏性と、少しでもお金になるものを拾ってママさんに恩返しをしたいという好奇心に駆られたサトーは、悪臭を我慢してゴミ山を数歩よじ登り、周囲の生ゴミを両手でどけてみた。


そこに埋もれていたのは、なんと一揃いの『フルプレートアーマー(全身甲冑)』だった。


王国軍の一般歩兵に支給される安物の量産品のようだが、全体が赤茶色にひどく錆びつき、あちこちに深い刃物の傷や、鈍器で殴られたような生々しい凹みが無数に刻まれている。

胴当て、肩当て、腕当て、脚当て。そして、頭部を完全に覆い隠す、目元だけが細い十字のスリット状に開いているフルフェイスタイプの重厚な兜(ヘルメット)。


「へぇ、本物の鎧か……。誰かが戦死して、遺品ごと捨てられたのかな……。縁起でもないし気味が悪いけど、これだけ分厚い金属なら、鉄屑屋に持っていけば結構な値段で売れるかもしれないぞ」


サトーの頭の中で、商社マン時代の『少しでも利益を拾ってノルマを達成する』という浅ましい計算が猛烈に働いた。

これを売れば、銀貨数枚にはなるかもしれない。そうすれば、ミアに新しいリボンを買ってあげられるし、ドン・ガンに高級な牛乳を奢ってやることもできる。


「よーし、お宝ゲットだ! 運ぶぞ!」


サトーは意気揚々と、一番大きなパーツである『胴当て』を持ち上げようとした。

しかし、いざ力を込めた瞬間、サトーは自分の腕力値が「2」であることを完全に、綺麗さっぱり忘れていたことに気がついた。


「ぐ、ぬおおおおおおおおっ……! お、重いっ! 重すぎる! なんだこれ、ただの鉄の塊じゃねえか!」


全身甲冑の総重量は、およそ二十キロから三十キロ。しかも長年の錆と泥で固まっており、それ以上の重量感がある。

農民の子供以下の筋力しかないサトーにとっては、巨大な岩を持ち上げるようなものだった。顔を真っ赤にして両手で引っ張っても、ミリ単位でしか動かない。


「ハァ、ハァ、ハァ……ダメだ、持って帰れない。台車に乗せることすら不可能だ。でも、こんなお宝を諦めるには惜しすぎる……」


息を切らし、膝に手をつきながら、サトーの脳内に信じられないほど愚かで、しかしその場では論理的だと思える最悪のアイデアが閃いた。


「……そうだ。手で持って運べないなら、『着て』帰ればいいんだ! 重量も全身に分散されるし、歩くことくらいはできるはずだ。俺ってば天才か!」


誰も見ていない、瘴気の漂うゴミ捨て場のど真ん中で。

サトーはヨレヨレのスーツの上から、錆びついた甲冑をガチャガチャと不器用に装着し始めた。


まずは重い脚当てを固定し、次に腰当て、腕当てと順番に身につけていく。

革のベルトはボロボロで、錆びた金具がスーツの生地に引っかかって何度も擦り傷を作った。


「うっ、重い……! 肩が千切れそうだ……! でも、あと少し……!」


最後に、ひときわ重く、鉄の塊のようなフルフェイスの兜を両手で持ち上げ、すっぽりと頭から被った。

ガシャンッ、と鈍い音がして、首元の金具が噛み合う。


「よし、装着完了……って、うっ……!? く、くっさ!! なんだこれ、臭すぎる!!」


兜を被った瞬間、サトーは激しい吐き気に襲われた。

兜の中の密閉空間に充満していたのは、何年も洗われていないカビの匂い、古い血の匂い、そして発酵したブルーチーズと濡れた犬を混ぜて何日も放置したような、絶望的な悪臭だった。

前の持ち主の怨念すら感じさせるその臭いに、サトーの目は一瞬で涙目になり、視界が歪んだ。


「ダメだ、死ぬ! 窒息する! 臭すぎる! 脱ごう、やっぱり鉄屑屋は諦めよう!」


慌てて兜を脱ごうと両手を首元にかけた、その時だった。

ギリッ……と嫌な音がして、サトーの手はピタリと止まった。


「……あれ? 外れないぞ?」


もう一度、力を込めて引っ張る。

しかし、兜はビクともしない。


「うそっ!? 留め具が完全に錆びついてロックされてる!? マジかよ、外れない! この悪臭の密閉空間の中で、酒場まで一時間近く歩いて戻るのか!?」


パニックになり、兜をガンガンと両手で叩きながら、サトーがゴミ山の上で一人でもがいていると。


ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!


不意に、ゴミ捨て場の入り口の方から、規則正しく重厚な足音が複数、こちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。

細い十字のスリット越しに視線を向けると、そこには銀色の真新しい鎧に身を包んだ、いかにも精強そうな『アーゼンベルフ王国軍』の小隊が歩いてくるのが見えた。

彼らの胸には、サトーを路地裏に不法投棄したあの般若王女の家紋が誇らしげに刻まれている。


(うわっ、王国軍の兵士だ! ヤバいヤバいヤバい! こんなところで軍の支給品の鎧を勝手に着ているのがバレたら、窃盗罪か国家反逆罪で即刻逮捕されるかもしれない!)


サトーは慌ててゴミ山の陰に隠れようと、一歩後ろへ下がった。

しかし、全身を覆う三十キロの甲冑のせいで極端にバランスを崩し、足がもつれてしまった。


「あわっ……!」


ガシャンッッッ!!!

サトーは派手な音を立てて、ゴミ山の斜面から転げ落ち、王国軍の兵士たちの目の前に、見事な土下座の姿勢で地面に這いつくばる形になってしまった。


「むっ!? 誰だ、そこにいるのは!」


小隊の先頭を歩いていた、鋭い鷹のような目つきと、顔に大きな傷を持つ屈強な騎士――のちにサトーの狂信的な右腕にして、王国最強の槍使いとなる、レオン小隊長――が、腰の剣の柄に手をかけながら、警戒感を露わにしてサトーの前に進み出てきた。


サトーは地面に這いつくばったまま、極限の恐怖でガタガタ、ブルブルと全身の甲冑を鳴らしながら震え上がった。


(終わった! 見つかった! 殺される! 軍の備品を盗んだ罪で、またあの般若王女の前に引きずり出されて、今度こそ確実に処刑されるんだ! 俺のモブ生活があああ!)


「ひ、ひぃぃぃっ! お助けをぉぉ! 命だけは! 命だけはお助けをぉぉ!」


兜の中で、サトーは涙と鼻水を撒き散らしながら情けない悲鳴を上げた。

しかし、分厚い鉄の兜を通して激しくくぐもったその声は、外にいるレオンたちの耳には、地を這うような『怒りに満ちた、不気味な獣の唸り声』のように低く変換されて響いていた。


レオンは、足元でブルブルと激しく震える謎の甲冑の男を見下ろし、ハッとして息を呑んだ。


その鎧の無数の刀傷。

赤黒く染み付いた錆(レオンの目には、数え切れないほどの魔物を屠ってきた歴戦の返り血に見えた)。

そして何より、王国軍の精鋭部隊である自分たちを前にして、一歩も引かずに地面を掴み、闘志を抑えきれずに武者震い(恐怖による痙攣)をしているその度胸。


「……貴様、まさか……我が軍が募集していた『志願兵』か?」


「……え?」


想定外すぎる単語を投げかけられ、サトーの震えがピタリと止まった。


レオンの目は、暗闇の中で伝説の隠れた英雄を見つけたかのように、キラキラと熱い尊敬の光を帯びて輝き始めていた。


「現在、我がアーゼンベルフ王国軍は、魔王軍の幹部による度重なる侵攻により、深刻な兵力不足に陥っている。王都の各区画で徴兵を行っていたが、まさかこのような最下層のスラムのゴミ捨て場に、これほどの『歴戦の猛者』が野に下り、己の牙を研いでいたとはな!」


(え? は? 歴戦の猛者? 牙を研ぐ? 俺が?)


サトーが状況を全く理解できずに完全に硬直していると、レオンはサトーの肩をガシッと力強く掴み、無理やり引き起こした。


「見よ、この鎧に刻まれた無数の傷跡を! これは、死線を幾度も潜り抜けてきた真の戦士だけが持つ、名誉ある勲章だ! そして、我々を前にして発していたあの闘気に満ちた武者震いと、低く響く戦意の唸り! お前、ただの素人ではないな? 過去に名のある傭兵部隊にでも所属していたか!」


(違います! それただのゴミ捨て場にあった廃棄物です! 傷じゃなくてただの凹みです! 震えてたのはただビビってただけです!)


サトーは必死に否定しようと口を大きく開いたが、兜のせいで「あ、あの、ちが……」という情けない声は外に響かず、ただ「ゴフッ……」という重い吐息にしか聞こえなかった。


「謙遜など無用だ! 今、王国は貴様のような血に飢えた本物の戦士を求めているのだ! ちょうど今から、魔王軍の先遣隊が迫る最も過酷な戦地、『西部戦線』へと向かう最前線補充部隊が出発するところだ。貴様も我々と共に来い! 貴様のその力、王国のために存分に振るうが良い!」


(西部戦線!? 最前線!? 魔王軍!? 嘘だろ、体力3だぞ俺! 絶対死ぬ! 一秒でミンチにされる! 無理無理無理無理!)


「お、お待ちください! 誤解です! 私はただの居酒屋の雑用係で……!」


「おお、そうか! 素性を明かせない、身分を偽らねばならないほどの、複雑で悲しき過去を抱えているのだな! 安心しろ、我が軍は実力主義だ。過去の経歴や素性など一切問わん! して、貴様の名はなんという!」


レオンの圧倒的な勢いと声の大きさに完全に気圧され、サトーの脳内は真っ白にパニックを引き起こした。

名前。名前を聞かれている。

ここで馬鹿正直に『佐藤一郎』などと名乗れば、あの異世界召喚の儀式から逃亡した例の不法投棄物だと即座にバレてしまうかもしれない。それは般若王女の耳に入り、確実な死を意味する。


何か、何か偽名を! この世界にいそうな、一番ありふれていて、目立たない、絶対に誰の記憶にも残らないような、モブ中のモブっぽい偽名を!


サトーは極限のパニックになりながら、中学時代に習った英語の教科書に出てきた、最も一般的な名前の羅列の中から、とっさに一つを叫んでいた。


「ス、スミス! 私の名前は、スミスですぅぅぅ!」


「スミスだな! 良い名だ! そして、良い面構え(※兜で一切見えない)だ! さあ、スミス殿! ともに魔王軍のクズどもを地獄へ送ろうぞ!」


「えっ? いや、ちょっと! 待って! お願いだから一回話を聞いて! 兜が! 兜が脱げないんです!」


「はははは! 戦場に向かう前から、すでに兜の紐を固く結んで絶対に脱がない覚悟を決めているとは! 凄まじい戦意、まさに鬼神の如き覚悟だ! おいお前たち、スミス殿を丁重に馬車へご案内しろ!」


「はっ!」


レオンの命令を受けた二人の屈強な兵士が、サトーの両脇をガシッと抱え上げた。

足が地面から完全に浮き上がり、腕力値2のサトーは一切の抵抗ができないまま、ズンズンとゴミ捨て場から連行されていく。


「いやああああああっ! 離してぇぇぇぇ! 待って! 俺はまだ、酒場の厨房のモップがけが終わってないんですぅぅぅ! ママさんに殺されるぅぅ!」


「素晴らしい! これから死地に赴くというのに、まるで酒場の厨房を掃除するような気軽さで敵を殲滅するという、その豪快なジョーク! 歴戦のスミス殿、我ら若輩者も大いに学ばせていただきますぞ!」


(違う! 冗談じゃない! 比喩表現でもない! 本当にモップがけしなきゃシルヴィママにスクワット千回させられるんだよォォォ!)


兜の中は、絶望の涙と鼻水、そして古いチーズの悪臭で地獄のような惨状になっていた。

しかし、サトーの必死の命乞いの叫びは『歴戦の勇士の豪快なジョーク』として完全に好意的に脳内変換され、彼はそのまま王国軍の徴兵馬車(という名の護送車)へと文字通り放り込まれてしまった。


ガタガタと、馬車が容赦なく動き出す。

鉄格子のついた窓の隙間から、遠くに見えるスラム街の景色と、『踊る豚亭』のボロボロの屋根がどんどん遠ざかっていくのを見つめながら、サトーは兜の中で声を殺して号泣した。


さようなら、俺の愛しき平穏なモブ生活。

さようなら、マズいけど元気が出るプロテインスープ。

さようなら、イカれてるけど優しかった常連客たち。


こうして、ただゴミ捨て場で小遣い稼ぎのために不用品の鎧を着てしまっただけの最弱の元社畜は、王国軍が誇る『狂気の英雄スミス』として、生存率0%の絶望の最前線へと強制的に出荷されていったのである。



―――つづく。


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