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第3話:オカマと踊る豚亭

深い、深い泥の底に沈んでいたような感覚から、ゆっくりと意識が浮上していく。


サトーが重い瞼を薄く開けると、視界に飛び込んできたのは、煤とホコリで黒ずんだ古い木組みの天井だった。

鼻を突くのは、カビの匂いと、強いアルコールの匂い、そして微かに香る香辛料と肉を焼いたような匂い。

硬く、寝返りを打つたびにギシギシと悲鳴を上げる粗末な麦わらのベッドの上に、自分は寝かされていた。


(……ここは、どこだ。俺、死んだのか?)


ぼんやりとした頭で記憶を遡る。

異世界に召喚され、絶望的な低ステータスを理由に、般若のような顔をした王女にスラム街の路地裏へと不法投棄された。

その後、右も左もわからないまま、飢えと渇き、そして得体の知れない野犬のような生物に追い回され、命からがら逃げ惑い……やがて体力が完全に尽きて、冷たい石畳の上に倒れ伏したところまでは覚えている。


(そうだ、俺はスラムのゴミ捨て場で力尽きたはず。ということは、ここは天国……いや、俺のこれまでの人生を考えれば地獄の入り口か?)


サトーがカサカサに乾いた唇を舐め、状況を把握しようと身をよじった、その時だった。


「ああっ! ママ! ゴミ捨て場で拾ってきた行き倒れのお兄ちゃんが、目を覚ましたよ!」


バタンッ!と、木製のドアが蝶番ごと吹き飛びそうなほどの勢いで開け放たれた。

そこに立っていたのは、フリルのついた可愛らしいメイド服を着た、十歳くらいの赤髪の少女だった。


「お兄ちゃん、生きててよかったぁ! もう三日も寝込んでたんだよ! 息をしてない時もあったから、死んじゃったら裏のドブ川に捨てなきゃってママと話してたの!」


(ドブ川に捨てるな。せめて土に埋めてくれ)


心の中でツッコミを入れつつ、サトーは少女の無邪気で残酷な言葉に背筋を凍らせた。


「み、三日も……? 君は……それに、ここはどこ……?」


サトーが掠れた声で尋ねると、少女はパッと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。


「あたしはミア! ここは王都で一番安くて賑やかな酒場、『踊る豚亭』の屋根裏部屋だよ! お兄ちゃん、すっごくボロボロで汚かったから、ママが首根っこを掴んで引きずって帰ってきたの!」


「引きずって……って、首根っこを?」


サトーが戦慄していると、階段の下から、ドスドスと建物の基礎を揺るがすような恐るべき重低音の足音が響いてきた。


「ミア! 騒々しいわよ! まだ開店前なんだから、一階のテーブル拭きを終わらせておきなさい!」


「はーい、ママ!」


ミアが小走りで部屋を出て行くと同時に、入り口のドア枠を完全に塞ぐほどの『巨大な影』がヌッと現れた。


「ヒッ……!?」


サトーは呼吸を忘れ、シーツを固く握りしめた。

そこに立っていたのは、身長二メートルを優に超え、丸太のように隆起した筋肉を持つ、ピンク色のフリルエプロンを着た巨漢だった。

頭には可愛らしい三角巾、耳はエルフのように長く尖っているが、その顔つきは歴戦の傭兵か、あるいは人を何十人も素手で引き裂いてきたオーガにしか見えない。

分厚い胸板の圧迫感たるや、サトーの前職のブラック企業の社長が放っていた威圧感すら可愛く思えるレベルだ。


「おや、ようやく目を覚ましたかい。しぶといドブネズミだねぇ」


巨漢は、野太い、しかしどこか女性的なオネエ言葉でそう言うと、ドスンとサトーのベッドの脇にあった木箱に腰を下ろした。

木箱がメキッという悲鳴を上げた。


「あ、あの……助けていただいたようで……ありがとうございます……」


サトーは本能的な恐怖で全身の毛穴を全開にしながら、ガタガタと震える声で礼を言った。

ここで少しでも失礼な態度をとれば、指一本で頭蓋骨を粉砕されると、現代日本人の生存本能が告げていたからだ。


「フン、感謝するなら神様じゃなくてアタシの気まぐれにしなさいな。アタシはこの酒場の店主のシルヴィ。エルフよ。見りゃわかるでしょ?」


(エルフ……? エルフって、もっとこう、森の奥で弓を構えてる金髪の美少女とかじゃないのか……? なんでこんな世紀末の覇者みたいな肉体をしてるんだ……?)


サトーが内心で激しく混乱していると、シルヴィママはサトーの顔を覗き込み、ニヤリと唇を歪めた。


「さて、行き倒れの坊や。アタシは慈悲深いエルフだけど、タダで飯とベッドを提供してやるほどお人好しじゃないわ。あんたを三日も寝かせておいた薬代と、この屋根裏部屋の滞在費。……どうやって返してくれるつもり?」


「ひっ……!」

サトーの心臓が、恐怖で冷たく縮み上がった。


金などない。召喚された時のヨレヨレのスーツ一着しか持っていないのだ。

(殺される。マグロ漁船……いや、異世界なら鉱山の奴隷か、オークの餌にされて売り飛ばされるんだ!)


サトーが絶望に顔を青ざめさせていると、シルヴィママは太い指でサトーの胸をドンッと突いた。


「金がないなら、身体で払ってもらうわよ」


「ひいいいいいっ!? 勘弁してください! 俺みたいなガリガリの男を食っても美味しくないです!」


「馬鹿お言い。誰があんたみたいな骨皮筋右衛門を食うもんですか。ウチは万年人手不足の安酒場なの。借金を返し終わるまで、ここで『住み込みの雑用係』として働いてもらうわ。給料はなし。その代わり、三食のまかないと、この屋根裏のベッドは保証してあげる」


「えっ?」


サトーは、パニックになっていた思考をピタリと停止させた。

今、この巨大なエルフは何と言った?


三食のまかない付き。

屋根のある部屋のベッドで毎日眠れる。

仕事内容は、酒場の雑用。


「……あの、えっと。ノルマを達成できなかったら、深夜三時まで居残りとか、上司から人格を否定されるような説教を数時間受けたりとか……そういうのは?」


「はぁ? あんた何言ってんの。酒場なんだから、夜中の十二時を過ぎたら閉店よ。掃除が終わったらさっさと寝なさい。説教なんてしてる暇があったら、一枚でも多く皿を洗えっての」


「…………!!」


サトーの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


労働基準法など存在しない異世界のスラム街で。

まさか、前職のブラック企業よりも遥かに『ホワイト』な労働環境が提示されるとは夢にも思わなかったのだ。


「あ、ありがとうございます! 働きます! 一生働きます! 俺をここの雑用係として雇ってください! 骨の髄までこき使ってください!」


サトーはベッドから転げ落ちるようにして、シルヴィママの足元に完璧なスライディング土下座を決めた。


「ちょっと、いきなり泣き出しながら土下座するんじゃないわよ、気味が悪いねぇ……。まあいいわ。体力はなさそうだけど、その異常な低姿勢と媚びへつらうスキルは、酔っ払いの相手には向いてそうね。ほら、立て。さっそく一階に降りて仕事の説明をするわよ」


「はいっ! 喜んで!」


こうして、最弱の元社畜・佐藤一郎の、底辺酒場でのささやかで幸せなモブ生活が幕を開けたのである。


◆ ◆ ◆


一階の酒場フロアに降りたサトーは、その異様な光景に圧倒されて立ち尽くした。


まだ昼間だというのに、薄暗い店内には強烈なアルコールの匂いと、安物のタバコの煙が充満している。

スラムのゴロツキ、顔に傷のある怪しげな傭兵、日雇いの労働者たちが、昼からジョッキを片手に大声で騒ぎ、あるいは机に突っ伏してイビキをかいていた。


「いいかい、サトー。あんたの仕事は、客がこぼした酒やゲロの掃除、皿洗い、そして料理の配膳よ。客同士の喧嘩が始まっても、絶対に止めに入らないこと。あんたみたいなモヤシ、巻き込まれたら一秒で死ぬからね」


シルヴィママの的確な業務連絡に、サトーは何度も深く頷いた。


「さあ、まずはウチのクセの強い『常連ども』の顔と名前を覚えなさい。あいつらを怒らせたら、アタシでも骨を拾ってやれないからね」


シルヴィママが指差した先のカウンター席。

そこには、床に届きそうなほど長いヒゲを生やした、小柄だが岩のようにがっしりとした体格のドワーフが座っていた。


「あいつはドワーフのドン・ガン。腕利きの鍛冶屋なんだけど、極度の下戸なのさ」


「えっ? ドワーフなのに下戸なんですか?」


サトーが首を傾げると、そのドン・ガンは、隣の客が飲んでいるエールのジョッキの匂いをスゥーッと嗅いだ瞬間、顔を真っ赤にして「ウィーッ、もう飲めねえぇぇ……」と言いながら、カウンターに突っ伏して高いびきをかき始めた。


「……匂いだけで泥酔してる……」

「そう、ただの面倒くさい親父よ。でも、腕は確かだから、武具の手入れでスラムの荒くれどもから一目置かれてるわ」


次にシルヴィママが顎で示したのは、厨房の流し台。

そこでは、目深にフードを被った小柄な人物が、信じられない速度で皿を洗っていた。

シュババババッ!という風切り音とともに、汚れた皿が一瞬にしてピカピカになり、次々と積み上げられていく。あまりの速さに、手が何本もあるように残像が見えた。


「あいつはポチ。いつも皿洗いの手伝いをしてくれてるんだけど……絶対にフードの中の顔を見ようとするんじゃないわよ」


「すごいスピードですね……。彼も雑用係なんですか?」


「あいつはね、王都の裏社会で伝説と呼ばれた暗殺者よ。今は足を洗って、ここで皿を洗いながら静かに暮らしてるのさ。たまに殺気だけでゴキブリを退治してくれるから助かってるわ」


「暗殺者!? なんでそんな危険人物が皿を洗ってるんですか!?」


サトーの心臓が激しく跳ねた。

一歩間違えれば、皿の代わりに自分の首が洗われてしまう(物理的に)のではないか。


「ビビるんじゃないわよ。ウチの店では誰も殺しはしないっていう協定を結んでるんだから。……ほら、あっちのテーブルで泣き上戸になってるのが、魔術師のルーシーよ」


フロアの隅のテーブルで、とんがり帽子を被った若い女性が、安い赤ワインのジョッキを握りしめながら、ボロボロと涙を流して管を巻いていた。


「うぇぇぇん……! なんでよぉ……! 私はただ、ファイアボールでゴブリンを焼こうとしただけなのにぃ……! 味方の剣士の髪の毛が全部燃えたくらいで、パーティー追放なんてひどいわぁ……!」


「……あれは、その……」


「仲間を誤爆してパーティーをクビになった左遷魔術師よ。いつもここで安い酒を飲んでは、グラスの中の水をワインに変えるっていう、どうでもいい魔法の宴会芸を見せて日銭を稼いでるのさ。放っておきなさい」


サトーは、ルーシーの背中に、かつての自分と同じ『組織から見捨てられた哀愁』を感じ取り、少しだけ親近感を覚えた。


「そして、あっちでリュートを弾いてるのが、吟遊詩人のバッカス」


シルヴィママの視線の先には、みすぼらしいローブを着た青白い顔の男がいた。

彼は美しい音色でリュートを弾き鳴らしていたが、その歌声はあまりにも暗く、悲惨だった。


「~♪ 俺の人生は泥沼ぁ~、希望は明日には腐り落ちるぅ~、どうせみんな死ぬんだぁ~♪」


「……歌を聞いてるだけで、首を吊りたくなってきますね」

「あのネガティブな歌のせいで、客の回転率が下がるのが最近の悩みよ。……とまあ、こんな感じで、ウチの常連はどいつもこいつも社会のはみ出し者ばかりさ。あんたも、ここで上手くやっていきな」


シルヴィママが笑いかけたその時、酒場の扉が開いて、怪しげな水晶玉を抱えた老婆が入ってきた。

全身を黒い布で覆い、顔中が深いシワで刻まれたその老婆は、サトーの姿を見るなり、ピタリと足を止めた。


「おや……。シルヴィ、また面白いものを拾ったねぇ」

「あら、マジョルカ婆さん。いらっしゃい」


マジョルカと呼ばれた占い師の老婆は、音もなくサトーの目の前まで歩み寄り、その濁った瞳でサトーの全身をジロジロと舐め回すように見つめた。


「ひっ……!」


サトーが怯えて後ずさりすると、マジョルカは水晶玉をサトーの顔の前に突き出した。

水晶玉がボワッと淡い光を放つ。


「ふむ……。腕力値、2。体力値、3。魔力値、ゼロ。……こりゃあひどい。そこら辺を歩いている野良のゴブリン以下の、まさに最底辺のステータスだ。お前さん、スラムの子供と喧嘩しても負けるだろうねぇ」


「……やっぱり、そうですか」


サトーは肩を落としたが、同時に奇妙な安心感も覚えていた。

ステータスが低いということは、誰からも期待されないということだ。前線に立たされることも、危険な任務を押し付けられることもない。

これぞまさに、完璧な『モブ』の証明である。


「だがね……」

マジョルカは、シワくちゃの顔をサトーの耳元に近づけ、不気味な声で囁いた。


「お前さんの運命の糸は、途轍もなく太く、そして複雑に絡み合っている。……お前さんは遠くない未来、世界を揺るがす恐るべき『虚像』となり、血の雨を降らせる大災厄の中心に立つことになるだろうよ……。ヒッヒッヒ」


老婆の不吉極まりない予言に、サトーの全身からサーッと血の気が引いた。


「な、なんですかそれ! 大災厄って! 勘弁してください、俺はただの雑用係として、ここで平和に一生を終えたいだけなんです!」


「マジョルカ婆さん、新人をいじめないでおくれよ。ほら、サトー。さっそく三番テーブルのゲロの処理に行ってきな!」

「はいっ! ただいま行きます!」


サトーは老婆の不気味な予言を「ただの脅かしだ」と自分に言い聞かせ、逃げるようにモップとバケツを手に取った。

ここでの生活は、確かにカオスで、危険な連中ばかりだ。

しかし、誰も自分のステータスを嘲笑うことはなく、誰も自分を不法投棄物として扱うことはない。

ここにあるのは、ただの泥臭く、平等な日常だった。


◆ ◆ ◆


その日の仕事は、サトーにとって想像を絶する過酷さだった。


体力値3の肉体には、ジョッキを五つ運ぶだけでも腕の筋肉が悲鳴を上げ、床のモップがけをするだけで息が完全に上がり、視界がチカチカと点滅した。

客が酔って暴れれば、机の下に潜り込んでガタガタと震えながら嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。


しかし。

閉店後の深夜。すべての掃除を終えて、厨房の床にヘナヘナと座り込んだサトーの心は、不思議なほどの充実感に満たされていた。


(疲れた……。身体中の骨が軋んでる。でも……社長の怒鳴り声に怯えながら徹夜でエクセルを打ち込んでいたあの夜に比べれば、今の疲労なんて、天国みたいなもんだ)


サトーが息をついていると、厨房の奥からシルヴィママが、巨大な木のどんぶりをドンッと目の前に置いた。


「ほら、サトー。初日のまかないよ。残さず食べなさい」


どんぶりの中には、緑色と茶色が混ざったような、ドロドロとした粘性の高い液体がなみなみと注がれていた。

強烈な薬草の匂いと、生臭い謎の肉の匂いが鼻を突く。

見た目は完全に、スラムのドブ川の底からすくい上げた泥水である。


「えっと……ママさん。これは、一体……?」


「アタシ特製の『超濃縮・体力回復プロテインスープ』よ。スラムの奥で採れた薬草と、オークの骨髄を何時間も煮込んだ特効薬さ。あんたみたいな体力ゼロのヒョロガリには、ぴったりの劇薬よ」


「げ、劇薬って言いました!?」


「いいから黙って飲み干しな! 残したら、明日は一日中、便所掃除の刑だからね!」


シルヴィママの恐ろしい眼光に睨まれ、サトーは震える両手でどんぶりを持ち上げた。

(飲むしかない。これを飲まなければ、明日の労働に耐えられないし、ママさんに殺される!)


サトーは覚悟を決め、息を止めて、その泥水のような液体を一気に口の中に流し込んだ。


「んぐっ……!?」


味覚を刺激する暇もなく、強烈な苦味と生臭さが、食道から体内の奥底へと暴力的に落ちていく。

それはもはや料理ではなく、罰ゲームの液体だった。

サトーの口から魂が抜けかけ、目から自然と涙が溢れ出す。


「ゴクッ……ゲホッ、ゴホッ! む、不味い……信じられないくらい不味いです……!」


「フン。味なんてどうでもいいのさ。どうだい、身体の底から熱くなってきただろ?」


言われてみれば、その劇薬が体内に到達した瞬間から、嘘のように全身の疲労感が引き、手足の筋肉に微かな活力が満ちてくるのを感じた。

体力値3の貧弱な身体が、一時的にドーピングされたような感覚だ。


「す、すごい……。本当に疲れが消えた……」

「ウチで働くなら、毎日それを飲んで身体を鍛え直すことね。さあ、もう寝なさい。明日も早いんだから」


「はい! ありがとうございます、ママさん!」


サトーは空になったどんぶりを丁寧に洗い、フラフラとした足取りで屋根裏部屋へと続く階段を登った。


ギシギシと鳴る麦わらベッドに横たわると、一瞬で強烈な睡魔が襲ってきた。


(過酷だけど……生きてるって感じがする。ここは、俺の居場所だ)


サトーは暗い天井を見つめながら、静かに微笑んだ。


(強大な魔力なんていらない。勇者としての名声もいらない。俺はここで、シルヴィママや、ミアや、変な常連客たちと一緒に、ただの雑用係のモブとして、一生平和に暮らしていくんだ)


底辺でありながらも、確かな温かさと平穏に満ちた生活。

サトーは、このささやかな幸せが永遠に続くと信じて疑わなかった。


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