第2話:野犬と野垂れ死
冷たく湿った石畳から這い上がってくる底冷えするような冷気が、騎士たちに引きずり回されてボロボロに破れたスーツの薄い生地を通して、容赦なくサトーの体温を奪っていく。
異世界アーゼンベルフ王国の王都。その華やかな中心部である王城から遠く離れた最下層、貧民街の入り口にある薄暗い路地裏のゴミ捨て場で、佐藤一郎(二十五歳・元中堅商社営業マン)は、両腕で膝を深く抱え込み、ガタガタと小刻みに震えていた。
「腹減った……寒い……帰りたい……」
希望に満ちた異世界召喚の儀式から一転、般若の形相をしたセレスティア王女によって王城から不法投棄されてから、すでに数時間が経過していた。
見上げれば、地球のそれとは明らかに違う、禍々しい二つの赤い月が不気味に夜空に浮かんでいる。 周囲には、腐敗した生ゴミの強烈な悪臭と、ヘドロのように淀んだ下水の匂いが立ち込めていた。時折、物陰から「カサカサ」という嫌な音が聞こえ、よく見れば地球のネズミよりも一回りも二回りも巨大な、得体の知れない毛むくじゃらの生物が足元を横切っていく。
(夢だ。これは絶対に、連日の深夜残業と上司のパワハラが引き起こした、タチの悪い悪夢だ。目を覚ませば、いつもの狭くて壁の薄いワンルームのアパートのベッドの上で、目覚まし時計が鳴っているはずなんだ……)
何度も目を閉じ、強く念じてから目を開けるという現実逃避を試みるサトーだったが、擦りむいた両膝から走る鋭い痛みと、極限の空腹によって引き起こされる胃の痙攣が、これが紛れもない『現実』であることを冷酷に突きつけてくる。
水晶玉が弾き出したサトーの体力値は「3」。それは『病み上がりの老人と同等』という、ファンタジー世界の主人公としてはあまりにも絶望的なステータスだった。
ただでさえ連日の過労でボロボロだった肉体は、石畳の上を数時間さまよっただけで完全に悲鳴を上げ、今はもう立ち上がって歩く気力すら一滴も残っていなかった。
「誰か……誰でもいいから助けて……。さっきのファミチキ、ひと口だけでもいいから食べたい……」
前職のブラック企業では、空調の効いたオフィスでパイプ椅子に座って残業できるだけ、まだマシだったのかもしれない。少なくとも、得体の知れない巨大ネズミに足の指を齧られる心配はなかったのだから。 うわ言のように呟きながら、意識が遠のきかけた、まさにその時だった。
『――ヒヒッ。おやおやァ? こんな夜更けに、見慣れない小綺麗なネズミが一匹、迷い込んだようだねェ』
背後の暗がりから、ひどく粘着質な、まるで地面を這いずるような不気味な声が聞こえた。
「え……?」
ビクッと肩を震わせ、サトーが恐る恐る声のした方へ振り返ると、ガス灯の僅かなオレンジ色の明かりの中に、ぬらりと光る『何か』が立っていた。
ボロボロの、元は灰色だったと思われる継ぎ接ぎだらけの布を纏った、異常なまでに痩せこけた男だった。 落ち窪んだ眼窩の奥には、焦点の全く合っていないギラギラとした双眸が怪しく光っている。不気味に歪んだ口元からは、手入れなど一度もされたことのない黄色い歯が覗いていた。
だが、サトーの視線は男の狂気に満ちた顔面ではなく、その『頭頂部』に完全に釘付けになった。
男の頭の上には、丸々と太った生の魚(サバやアジのような青魚)が、まるでヘアバンドかナイトキャップのように、デロンと乗っかっていたのだ。
「なっ……さ、魚……?」
サトーの口から、間の抜けた声が漏れる。 暗い路地裏、ナイフを持った狂人、ここまではスラム街のテンプレかもしれない。しかし、頭に生魚を乗せているという圧倒的なノイズが、サトーの脳の処理能力を限界まで狂わせていた。
『ヒァハハハハ! そうだ、俺の可愛い可愛い相棒さ! 生きたまま頭に乗せると、魚の体液で脳みそがヒンヤリと冷やされて、最高に気持ちいいんだぜェ! お前もやってみるかァ?』
男――王都の路地裏を牛耳る名物狂人『生魚のトマス』は、頭の上の魚を自分の子供でもあやすように優しく撫でながら、奇声を発してサトーへと一歩近づいてきた。 トマスが動くたびに、頭の上の生魚から生臭い汁が滴り落ち、彼の狂気に満ちた顔を濡らしている。
『クンクン……お前、すごくいい匂いがするなぁ。なんだこの匂い? 異世界の匂いか? それとも、絶望に震える極上の肉の匂いかァ? なぁ、俺の相棒が腹を空かせてるんだ。お前の柔らかそうな耳たぶを、一口だけ齧らせてくれないかァ?』
チャキッ、と。 トマスの痩せこけた手の中で、赤黒い血糊のついた錆びたサバイバルナイフが、月明かりに鈍く光った。
(殺される……ッ!)
背筋を氷の柱が突き抜けたような悪寒が走った。 腕力値「2」。農民の子供以下のステータスしかないサトーに、刃物を持った大人の狂人と正面から戦う術などあるはずがない。 頭に生魚を乗せたサイコパスの手によって、見知らぬ異世界の路地裏で細切れに解体されるという、あまりにも理不尽で無惨なバッドエンドが脳裏をよぎった。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
生命の危機を悟ったサトーの身体が、ステータスの限界を一時的に突破した。 火事場の馬鹿力で跳ね起きると、サイズが合わずパカパカしていた革靴が片方脱げるのも構わず、悲鳴を上げながら夜の路地裏を猛ダッシュで逃げ出した。
『アヒャヒャヒャヒャ! 逃げろ逃げろォ! 俺は鬼ごっこは嫌いじゃないぜェ! 捕まえたら、指の先から少しずつスライスしてやるからなァ!』
背後から迫る、水たまりを蹴り上げる狂人の足音と、鼓膜にへばりつくような粘着質な笑い声。 サトーは顔中を涙と鼻水と冷や汗でぐちゃぐちゃにしながら、入り組んだ貧民街の迷路を無我夢中で駆け抜けた。
「なんでだよォ! 俺が一体何をしたって言うんだよォ! ただ定時退社して、アパートで発泡酒を飲みながらファミチキが食べたかっただけなのにィィ!」
息は完全に上がり、喉の奥から血の味がした。 体力値3の肺は今にも破裂しそうで、足はすでに自分のものとは思えないほど鉛のように重くもつれている。視界は溢れる涙でぼやけ、足元の障害物すらまともに見えない。
(走れ! 足を止めたら生魚の餌にされる! 会社の厳しい営業ノルマから逃げた時のように、全力で逃げるんだ!)
サトーは心の中で自分を鼓舞したが、無情にも限界はすぐに訪れた。 薄暗い路地の角を曲がろうとした瞬間、石畳の段差に足をとられ、派手に前方のめりに躓いてしまったのだ。
「あぐっ……!」
無様に地面を転がり、擦りむいた膝と両手から血を流しながら、とある古びた建物の重厚な木扉の前に激突して倒れ込む。 薄れゆく意識の中で見上げた先には、塗装の剥げた巨大な看板が揺れていた。そこには『楽しげに踊る二本足の豚』が描かれているはずなのだが、長年の風雨による劣化のせいで、サトーの目には『断末魔の悲鳴を上げる豚』にしか見えなかった。
背後の暗い路地の奥から、チャキッ、チャキッとナイフを鳴らす音と共に、生魚のトマスの「どこへ行ったァ……? かくれんぼはおしまいだぜェ……?」という不気味な声がじわじわと近づいてくる。
(もうダメだ。一歩も立ち上がれない。俺の人生、こんな生ゴミみたいな場所で、生魚男に刺されて終わるのか……)
サトーが絶望に目を閉じ、静かに死を受け入れようとした、その瞬間だった。
ギィィィ……と、重い音を立てて、サトーが寄りかかっていた酒場の分厚い木扉が内側から開いた。
「あれー? こんなところで寝てたら、風邪ひいちゃうよ?」
鈴を転がすような、若く、底抜けに明るい少女の声だった。
サトーが重い瞼を薄く開けると、そこにはピンク色のフリルエプロンを身につけた、可愛らしい少女が立っていた。 年齢は十五歳くらいだろうか。艶やかな栗色の髪を二つ結びにし、大きな瞳をぱちくりと瞬かせながら、底抜けに明るい、まるで太陽のような笑顔を浮かべている。
(て、天使……? いや、こんな危険な路地裏に、こんな普通の、しかも可愛い女の子がいるはずが……?)
サトーの脳内に浮かんだささやかな希望と疑問は、次の瞬間に木っ端微塵に打ち砕かれた。
「よいしょっと! ここに置いとけばいいよね!」
少女は「あはは」と無邪気に笑いながら、自分の背丈よりも遥かに巨大な、中身がたっぷりと満載に詰まった木製の特大エール樽(推定重量百キロ超え)を、なんと『片手で』軽々と持ち上げてみせたのだ。
「えっ……?」
サトーの思考が完全に停止した。 農民の子供以下の腕力しか持たないサトーからすれば、それは完全に物理法則を無視した、怪物の所業であった。百キロを超える樽を、まるで発泡スチロールの小道具か何かのように、指先だけでジャグリングするように弾ませているのだ。
「どうしたの、お兄ちゃん? すっごく顔色悪いよ? お腹痛いの?」
特大の樽を片手で軽々とポンポンと弾ませながら、少女――酒場の看板娘であるミアは、小首を可愛らしく傾げてサトーを見下ろした。
「ミアちゃぁ〜ん。明日の仕入れの樽、まだ裏の倉庫に運んでないのぉ〜? お客様が来ちゃうわよぉ〜」
サトーが目の前の現実を処理しきれずに口をパクパクさせていると、続いて、酒場の奥からドスドスと地響きのような恐ろしい足音を立てて『別の何か』が現れた。
サトーはさらに大きく目を剥いた。 現れたのは、身長二メートルを優に超える、丸太のように極太の腕と、鋼鉄の鎧のような分厚い胸板を持つ、筋骨隆々の巨大な男だった。 しかし、その顔の造作はファンタジーの代名詞とも言えるエルフ特有の長く尖った耳を持ち、あろうことかその屈強な顔面には派手な紫色のアイシャドウと真っ赤な口紅を施し、ミアとお揃いのピンク色のフリル付きエプロンを、はち切れんばかりの筋肉の上に強引に身に着けていたのだ。
「あらやだ。ウチの可愛い扉の前に、なんだか汚らしい野良ネズミが転がってるじゃないの。ウチは保健所でも炊き出しの会場でもないのよぉ?」
野太く響き渡る低音のバリトンボイスから放たれたのは、完璧なオネエ言葉だった。 王都の裏社会でも一目置かれる酒場『踊る豚亭』の店主にして、最強のオカマエルフ、シルヴィママの登場である。
頭に生魚を乗せた狂人、物理法則を無視する怪力少女、そしてピンクのエプロンを着た筋肉オカマエルフ。 致死量を超える異常な情報の暴力に脳の処理能力が完全にオーバーヒートを起こし、サトーはただ呆然と空を見つめることしかできなかった。
その時、路地の奥の暗がりから、ついに生魚のトマスが姿を現した。
『ヒヒッ! 見つけたぜェ……って、なんだいお前らバケモノども。その美味しそうな獲物は俺が最初に見つけたんだ、さっさと俺に渡しなァ!』
トマスが錆びたナイフをチャキチャキと鳴らし、狂気を孕んだ目で威嚇する。 しかし、シルヴィママは恐れるどころか、呆れたように鼻でふんと笑い、丸太のような太い腕を組んで見下ろした。
「あんたねぇ、アタシの神聖な店の前で、そんな腐りかけたナマモノ(生魚)をチラつかせないでくれる? 衛生管理上、非常に不愉快だわ。保健所の監査が入ったらどうしてくれるのよ。……ミアちゃん、ちょっとそこのゴミを『お掃除』してちょうだい」
「はーい、ママ! お掃除しまーす!」
ミアは満面の笑みのまま、持っていた特大のエール樽(百キロ超え)を右手に構え、まるで野球のピッチャーが全力投球するかのように、大きく振りかぶった。 そして、恐るべき体幹の捻りとともに、片手でひょいっと、だが尋常ではない速度でトマスに向かって樽を放り投げた。
ブォンッッッ!!!
風を切り裂き、空気が爆発するような凄まじい轟音が路地裏に鳴り響く。
『……へ?』
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!
トマスが間抜けな声を漏らした瞬間、砲弾の如き速度で飛来した百キロ超えの樽が、路地裏の分厚い石壁ごとトマスを吹き飛ばした。 トマスの体は文字通り星となって夜空の彼方へ一直線に飛んでいき、「ヒギィィィィ!」という断末魔の悲鳴と共に、赤い月の彼方へと消え去っていった。
あとに残されたのは、砲撃でも受けたかのように半壊した路地裏の石壁と、トマスの頭に乗っていた生魚の破片がパラパラと雨のように降ってくる光景だけだった。
「…………」
サトーは白目を剥きそうになりながら、あまりにも非現実的な光景に絶句した。 恐怖すら通り越し、ただ純粋な『理解不能』という感情だけが心を支配している。
「ふふっ、ど真ん中ストライク! お掃除完了だよ、ママ!」
ミアは無邪気にピースサインを作り、キャハハと笑っている。
「もう、ミアちゃんったらやりすぎよぉ。あんなに全力で投げたら、樽が粉々になっちゃうじゃないの。もったいない。明日の新しい樽の弁償代、アンタのお小遣いから引いておくからね?」
「ええーっ! ひどーい! ママのケチー!」
目の前で半壊した壁と、星になった狂人を完全に無視し、まるで日常茶飯事の些細な出来事かのようにキャッキャとじゃれ合う二人のやり取りを見て、サトーの心の中で、これまでギリギリのところで持ちこたえていた何かが、ポキリと完全に折れる音がした。
(あ、ダメだ。この世界、マジで全員頭がおかしい。俺みたいな体力3の最弱モブが、まともに生きていける世界じゃない。……もう、何も考えたくない……)
限界を迎えていたサトーの意識は、そこでプツリと途絶え、泥のように地面へと崩れ落ちて完全に暗転した。
「あらあら。気絶しちゃったわね、この子。ヒョロヒョロで、本当にモヤシみたいだわ」
シルヴィママは、地面に倒れ伏したサトーのボロボロのスーツ姿を見下ろした。 その目は、口調とは裏腹に、どこか優しげな光を帯びていた。かつて、自分たちがこの理不尽な王都の路地裏で行き倒れ、その日暮らしの泥水をすすっていた頃の古い記憶が蘇る。
「……仕方ないわねぇ。骨と皮ばっかりじゃない。放っておいたら明日の朝にはゴミ収集車行きね。拾って、特別にアタシの『特製プロテインスープ』で、あの貧弱な胃粘膜からバッチリ鍛え直してあげるわ」
「わーい! 新しいお兄ちゃんだね! 私、いっぱいお手伝いしてもらう!」
シルヴィママは、サトーのスーツの首根っこを丸太のような太い二本指でヒョイとつまみ上げると、まるで捨て猫でも拾うかのように、そのまま酒場の奥へと引きずっていった。
つづく。




