第1話:最弱と不法投棄
深夜零時四十五分。
蛍光灯がやけに白く、疲労しきった網膜を無遠慮に刺すように眩しいコンビニエンスストアのレジ前で、佐藤一郎(二十五歳)は完全に死んだ魚の目をしていた。
「ファミチキ、ひとつ……。あと、この発泡酒も」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど擦れ枯れていた。 レジカウンターに置かれたのは、小銭入れからかき集めた数百円の硬貨。それらがカチャカチャと無機質な音を立てるのを、サトーは焦点の合わない目で見つめていた。
「はい、ファミチキ一つですね。温めますか?」
「……そのままでいいです。どうせ、アパートに帰る頃には冷めきってるんで」
中堅の専門商社に入社して三年。今日の労働時間は、優に十五時間を超えていた。
朝一番で、自分のミスではない理不尽な取引先のクレーム対応に駆り出され、一時間以上も電話口で平謝りを続けた。昼食をとる暇もなく飛び回って会社に戻れば、今度は直属の上司から「お前の営業スマイルは胡散臭いんだよ。目が笑ってない。もっと心から笑え」と、到底不可能に近い精神論でネチネチと一時間以上も説教を食らった。
(心から笑えるような労働環境であれば、とっくに笑ってるっつーの……)
すり減った胃粘膜はキリキリと悲鳴を上げ、ストレスで髪の毛はパサパサ。二十五歳にして、鏡に映る自分の顔は四十代のくたびれた中年男性のように生気を失っていた。 崩壊寸前の精神と肉体を辛うじてこの世界に繋ぎ止めているのは、深夜のコンビニで買う油まみれのジャンクフードと、アルコール度数だけが無駄に高い、安い発泡酒の存在だけだった。
(早く帰って、泥みたいに眠りたい……。いっそこのまま意識が途切れて、明日の朝礼なんて永遠に来なければいいのに……。労災で一ヶ月くらい入院できないかな……)
疲れ切った脳髄でそんな不毛な現実逃避を繰り返していると、深夜シフトのアルバイト店員が、お馴染みの黄色いストライプ柄の袋に入った熱々のファミチキを差し出してきた。 スパイシーなチキンの香りが、空っぽの胃袋を強烈に刺激する。今日初めて口にする、まともなカロリーだった。
サトーがそれを受け取ろうと、重い右手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
「あれ……? お客さん、足元、なんか光って……」
店員が戸惑いの声を上げた。 サトーが重い瞼を持ち上げて視線を落とすと、コンビニの安っぽいリノリウムの床の上に、突如として『幾何学模様の光る陣』が浮かび上がっていた。 青白い、ひんやりとした光が、陳列棚のスナック菓子やカップ麺のパッケージを不気味に照らし出している。
「……は?」
バチィィィィィンッ!!
ファミチキの油の匂いが鼻を突く中、唐突に世界が反転した。 視界は暴力的なまでの圧倒的な白い光に飲み込まれ、サトーの意識は一瞬にして重力を失い、底なしの暗闇へと真っ逆さまに落ちていった。
◆ ◆ ◆
「おお……! 成功だ! 異世界からの『勇者召喚』が、ついに成功したぞ!」
「光の女神様のご加護に、大いなる感謝を!」
騒がしい歓声と、鼻を突くような強い香の匂い――教会で焚かれるフランキンセンスのような香り――で、サトーは弾かれたように目を覚ました。
「……え? ここ、どこ……? コンビニは?」
慌てて身を起こすと、そこは巨大な石造りの大広間だった。 見上げるほど高い天井には、無数の蝋燭が煌々と灯る豪奢なシャンデリアが輝いている。周囲を見渡せば、純白のローブを身に纏った皺くちゃの老人たちや、全身をピカピカに磨き上げられた銀色の鎧で包んだ騎士たちがズラリと円陣を組んで並んでいた。 ステンドグラスからは神秘的な月光が差し込み、厳かな雰囲気が空間全体を支配している。
サトーは、ヨレヨレになったスーツに緩んだネクタイという場違い極まりない姿のまま、大理石の床に描かれた巨大な魔法陣の中心にへたり込んでいた。 手には、コンビニのレジ袋だけが空しく握られている。中には冷めかけたファミチキと発泡酒。
(なんだこれ……テレビのドッキリ企画か? いや、カメラなんてどこにもない。セットにしては作りが本格的すぎる。それに、言葉は通じてるみたいだけど、明らかに日本人の顔じゃない。もしかして……)
疲れ果てた社畜の脳裏に、かつて通勤電車の中で現実逃避のために読み漁っていた、ネット小説のテンプレ展開が雷のように閃いた。
(異世界召喚……!? まさか、俺が勇者として選ばれたのか!?)
高鳴る心臓を抑えきれず、サトーが周囲をキョロキョロと見回していると、重厚な人垣がスッと左右に割れ、一人の女性が歩み出てきた。
息を呑むほど、ただ圧倒的に美しい少女だった。
波打つ黄金の縦ロールヘアは、シャンデリアの光を受けて星屑のように輝き、透き通るような白い肌は最高級の陶器のように滑らかだ。青玉のように澄んだ双眸は、慈愛に満ちた光を帯びて真っ直ぐにサトーを見つめている。 豪奢なレースがあしらわれた純白のドレスに身を包んだその姿は、まさに『女神の再来』と呼ぶにふさわしい、芸術品のような美貌の持ち主だった。
「よくぞ参られました、はるか遠き異世界の勇者様」
鈴を転がすような、甘く、それでいて気品のある優しい声が大広間に響いた。 彼女はサトーの前に進み出ると、優雅に膝を折り、両手を胸の前で組んで、天使のような微笑みを向けた。
「私はこのアーゼンベルフ王国の第一王女、セレスティア・アーゼンベルフと申します。どうか、隣国の脅威と、忌まわしき魔王軍の侵攻から、我々無力な民をお救いください」
(うおおおおおおおっ! キタコレ! これは絶対に来た! チート能力をもらって、魔王を無双して、この超絶美人の王女様とイチャイチャするやつだ! さらばブラック企業! さらば理不尽なクソ上司! 俺の本当の人生は、ここから始まるんだ!)
サトーは歓喜のあまり、顔の筋肉がだらしなく緩みそうになるのを必死に堪えた。 そして、前職の営業で培った、取引先の社長相手にのみ発動する完璧な『営業スマイル』を全開にし、揉み手でもしそうな勢いで立ち上がる。
「は、はい! 私、佐藤一郎と申します! この命に代えましても、王女様とこの美しい国をお救いすることをお約束いたします! 何なりとお申し付けください!」
「ああ、なんと頼もしいお言葉……。その勇気ある眼差し、まさに伝説に語り継がれる勇者様そのものですわ。では、さっそく勇者様の『ステータス鑑定』を行わせてくださいませ。宮廷魔術師長、水晶をこちらへ」
セレスティア王女の合図で、白髭を床まで届きそうなほど伸ばした老人が、恭しく巨大な透明の水晶玉を運んできた。 水晶玉は専用の台座に乗せられ、淡い光を放っている。
「さあ、勇者様。恐れることはありません。この水晶に手を触れてください。貴方様に宿る、神の如きチート能力が数値化され、我々の前に示されますわ」
王女はうっとりとした、甘い期待に満ちた瞳でサトーを見つめている。 サトーは自信満々に「お任せください」と大きく頷き、水晶玉にペタリと右手を置いた。
ポンッ、と気の抜けたような軽い音がして、空中に半透明の文字盤がホログラムのように浮かび上がる。 大広間にいる全員が、固唾を呑んでその文字盤を見上げた。
【対象者】サトウ・イチロウ(職業:一般人)
【腕力】2(※農民の子供以下)
【体力】3(※病み上がりの老人と同等)
【魔力】0(※測定不能) 【カリスマ性】1(※その辺の石ころと同等)
【特殊スキル】『なし』
【総合評価】『下の下の、さらに下』
「…………え?」
大広間に、水を打ったような、いや、時間が完全に凍りついたかのような静寂が落ちた。 誰もが言葉を失い、空中に浮かんだ悲惨すぎる、あまりにも無惨なステータス画面を呆然と見つめている。 水晶玉を持っていた宮廷魔術師長の老人は、あまりの数値の低さにガタガタと震え始め、今にも泡を吹いて倒れそうになっていた。
サトーもまた、自分の目を疑った。
(いやいやいや! 待って待って待って! なんだよこの数字! 魔力ゼロって何!? スキルなし!? 腕力が農民の子供以下!? これじゃただの、ひ弱な一般通過モブじゃねえか!)
冷や汗が滝のように流れ落ち、ヨレヨレのスーツの背中がびっしょりと冷たく濡れるのを感じた。 恐る恐る、目の前で跪いている『天使』に視線を戻すと――そこには、目を疑うような光景があった。
セレスティア王女が、深く俯いていた。 小刻みに肩を震わせ、ギリギリ、メキメキと、美しい歯を食いしばる音が広間に響き渡っている。 彼女が握りしめているドレスの裾は、指の関節が白くなるほど強い力で握られていた。
「……王女、様……?」
「ッッッざけんじゃないわよォォォォォォォォォォッ!!!」
大広間の空気を震わせるような、鼓膜が破れそうなほどの絶叫が轟いた。 サトーがビクッと肩を跳ね上げて顔を上げると、そこには先ほどの慈愛に満ちた女神はいなかった。
額に太い青筋を何本も浮かび上がらせ、白眼を血走らせ、口を耳まで大きく裂いて牙を剥き出しにした……恐るべき『般若』がいた。
「な、な、なにこれェ!? 魔力ゼロォ!? スキルなしィ!? 総合評価が下の下のさらに下ァ!?」
セレスティアは美しい純白のドレスの裾を乱暴に蹴り上げると、ドスドスと重い足音を立ててサトーに詰め寄った。 その目には、先ほどの慈愛など微塵もなく、絶対的な殺意と侮蔑の色だけが渦巻いている。
「あんたねえ! この大召喚儀式に、国家予算の半分を注ぎ込んでるのよ!? 国中の高位魔導士を総動員して、何日も不眠不休で徹夜して魔力回路を繋いで、ようやく呼び出したのがこんな『見苦しいドブネズミ』一匹だっていうの!?」
「ひぃっ!?」
「誰よ! 魔力干渉の座標計算をミスった馬鹿は! これじゃただの召喚失敗じゃないの! 隣国の連中に知られたら、我が国は大陸中の大爆笑の的よ! 私の王位継承権に傷がついたらどう責任取ってくれるのよォォォ!」
般若のような形相で喚き散らし、美しい顔を完全に台無しにして怒り狂う王女の姿に、サトーは腰を抜かし、大理石の床にへたり込んだまま完全に硬直していた。 これが、のちに王国軍の裏で『般若王女』と恐れられる彼女の本性、誰も逆らうことのできない真の姿だった。
「お、王女様! お怒りを鎮めてください! も、もしかすると、表示されないだけで隠された大器晩成型の力が……」
「黙りなさい宮廷魔術師長! 言い訳なんて聞きたくないわ、あんたは明日から下水道の清掃係へ左遷よ!」
王女は周囲の老人たちを一喝すると、文字通り冷たいゴミでも見るような、絶対零度の瞳でサトーを見下ろした。
「おい、そこの不法投棄物」
「ひゃ、はいぃっ!」
「私とこのアーゼンベルフ王国の視界から、今すぐ消えなさい。お前みたいな何の役にも立たない無能を養うためのパンは、この国には一口たりとも存在しないわ」
それは、異世界の知識も金も持たないサトーにとって、まごうことなき死刑宣告に近い言葉だった。 サトーは慌てて膝を突き、営業時代に激怒したクレーマー相手に何度も繰り出した、完璧なフォームの『スライディング土下座』を放った。
「お、お待ちください! なんでもします! 事務仕事でも、雑用でも、床磨きでも、靴磨きでもなんでもしますから! 言葉もわからない外にいきなり放り出されたら、俺、絶対に死んじゃいます!」
しかし、激怒した王女の心には微塵も響かなかった。
「衛兵。このゴミを王都の最下層、貧民街の路地裏に捨ててきなさい。もちろん、1ゴルド(金)も持たせる必要はないわ。……あぁ、本当にイライラする! 最高の勇者様にお会いできると信じて、三時間もかけて化粧して、エステにまで行ったのに!」
「はっ!」
王女の命令を受けた屈強な騎士二人が無言で歩み寄り、土下座の姿勢のままのサトーの両脇を乱暴に抱え上げ、ズルズルと引きずっていく。
「ああっ! 待って! 命だけは! せめて、せめてその袋の中のファミチキだけでも返してェェェ!」
サトーの悲痛な叫びは、無情にも閉ざされた重厚な扉の向こうへと消えていった。
◆ ◆ ◆
数十分後。
王都の貧民街の入り口、鼻が曲がるような悪臭が漂う薄暗い路地裏のゴミ捨て場に、サトーはポイッと無造作に放り出された。
「痛っ……」
擦りむいた膝を抱え、冷たく湿った石畳の上に座り込む。 見上げれば、地球のものとは明らかに違う、禍々しい二つの赤い月が不気味に夜空に浮かんでいた。
手元にはお金も、スマホも、唯一の心の支えだったファミチキすらない。あるのは、騎士に石畳を引きずられてボロボロに破れ、泥だらけになったヨレヨレのスーツだけ。
「……なんなんだよ、これ。俺が一体、何をしたっていうんだ……」
ポツリとこぼした言葉は、誰にも届かずに路地裏の闇の中へ溶けていく。
―――つづく。




