第23話:始末書と毒杯
アーゼンベルフ王宮の最奥部に位置し、何重もの強固な魔法結界と分厚い防音壁、さらには近衛兵たちの幾重もの警護によって守護されている『白亜の貴賓室』。
小鳥のさえずりが微かに響き、東の巨大なステンドグラスから差し込む清々しい朝の光が、床に敷き詰められた最高級のペルシャ絨毯を眩い黄金色に染め上げていた。
本来であれば、国賓や王族が優雅な目覚めを迎え、淹れたての紅茶の香りを楽しみながら一日の始まりを寿ぐための、この世で最も美しく平和な空間である。
しかし、その部屋のド真ん中に鎮座する、天蓋付きのキングサイズベッドの上だけは、完全に世界の理から外れた、異次元の地獄絵図と化していた。
(……朝か。生きてる。俺、まだ首が繋がってるぞ……)
サトーは、三十キロの赤錆びた全身甲冑に身を包んだまま、一睡もできずに充血しきった目を限界まで見開いていた。
彼の上半身には、透けるような最高級シルクで仕立てられた、あまりにも扇情的な真紅のネグリジェを身に纏った第一王女セレスティアが、まるで獲物を捕らえた巨大なタコのように手足を固く絡ませ、サトーのサビだらけの胸当てに顔を埋めるようにして、スヤスヤと安らかな寝息を立てている。
その光景だけを絵画にでもして切り取れば、まさに『激戦をくぐり抜けた英雄と、彼に寄り添う美しき王女の、愛に満ちたロマンスの翌朝(通称・朝チュン)』である。
だが、当事者であるサトーの現実は全く違った。
(痛い痛い痛い痛い! とにかく全身の関節が痛い! 三十キロの鉄の塊を着たまま、こんなフカフカの柔らかすぎるベッドに一晩中沈み込んでたら、腰の骨と背骨が完全にイカれる! しかも、この王女様が万力みたいな力でガッチリ抱きついてるせいで、寝返りすら一回も打てなかった! なんだこの拷問! 前のブラック企業で、納期前日にオフィスの床でダンボール被って寝た時の方が、まだ百倍人間らしい睡眠環境だったぞ!)
サトーは、全身の関節から発せられる激痛と、極度の睡眠不足により、脳髄がドロドロに溶け出しそうなほどの疲労感と疲弊に苛まれていた。
昨夜。セレスティアが暗殺(あるいは鎧の破壊)を目論んで持ち込んだスライム(ミスリル・イーター)が、サトーの甲冑に何層にも染み込んだ『超濃縮深海クラーケン・プロテイン』の異常な成分によって、まさかの強烈な食中毒を起こして爆発した。
その結果発生したピンク色の催淫ガスによって、セレスティアは完全に王族としての理性を吹き飛ばされ、サトーに襲いかかってきたのである。
そして、その最悪のタイミングでレオンたち狂信者部隊が乱入。事態を「将軍の覇王のオーラに当てられ、王女が自らメスとして完全に屈服した神聖なる儀式」と完全に超翻訳し、気を利かせて部屋の扉を外から封鎖してしまったのだ。
(ガスは数時間で抜けたみたいだけど、この王女様、ガスが抜けた後も俺の甲冑の熱と硬さが抱き枕としてちょうどよかったのか、普通に爆睡しやがったからな……。俺は一晩中、いつこの般若が目を覚まして「気安く触るなゴミィィ!」って叫び出すかビクビクして、一秒も眠れなかったんだぞ……。寿命が確実に十年は縮んだ……)
サトーの心臓は、眩しい朝の光を浴びてもなお、不規則な四拍子を刻み続けていた。
バレれば死刑。動いても死刑。息をしても死刑。
この絶対的な詰み状況から、いかにして穏便にフェードアウトするか。サトーの社畜脳が、生存本能の限界を超えてフル回転を始める。
(そうだ……手紙だ。『始末書』だ。無断で逃げ出して立ち去ると角が立つから、クレーム対応の基本である『誠心誠意の謝罪文(始末書)』を残して、そーっと部屋を抜け出そう。俺が「あの時の不法投棄されたゴミの佐藤です」ってバレる前に、「昨夜は不可抗力でした、もう二度と王宮には近づきません」って一筆書いておくんだ!)
サトーは、自分に絡みついているセレスティアを決して起こさないように、一ミリずつ、まさにカタツムリのような遅さで、三十キロの甲冑を軋ませないように細心の注意を払いながら、ズブズブに沈み込んだベッドから這い出した。
幸い、セレスティアは疲労困憊(※ガスの影響で一人で暴れすぎたため)のようで、サトーが抜け出しても目を覚ますことなく、代わりに丸められた高級な羽毛布団をムギュッと抱きしめて眠り続けている。
サトーは抜き足差し足(※ガシャン、ガシャンという重低音が響いているが本人は忍び足のつもり)で部屋の隅にある豪奢なアンティークデスクに向かい、そこに置かれていた羊皮紙と、インク壺、そして上質な羽ペンを手にとった。
しかし、分厚い鉄のガントレット(手袋)をはめたままでは、細い羽ペンを握ることすら至難の業である。
(くっ……! 指が太すぎてペンが上手く持てない! インクがボタボタ垂れる! でも書かなきゃ! 急いで書かないと彼女が起きる!
『王女殿下へ。誠に申し訳ございません。私はスラムのゴミです。どうかすべてお忘れください。スミス』……よし、これでいい! 鉄の指で無理やり書いたから、字がミミズの這った跡みたいにグチャグチャで、インクのシミで真っ黒だけど、謝罪のニュアンスと反省の意は確実に伝わるはずだ!)
サトーが、謎の黒いインクのシミと、かろうじて読めるか読めないかの歪で暴力的な文字が羅列された『怪文書(※本人は誠意ある始末書のつもり)』を書き終え、それをデスクの中央に目立つように置いた、まさにその瞬間だった。
「……ん、んん……」
背後のベッドの方から、微かな衣擦れの音と、寝起きの甘い声が聞こえた。
(ヒィッ!? 起きた! トラウマの般若王女が目を覚ました!)
サトーは慌ててデスクから飛び退き、壁際に直立不動の姿勢で、まるで置物のようにピタリと固まった。息をすることすら忘れるほどの緊張感である。
ベッドの上で、セレスティアがゆっくりと重い瞼を開ける。
チュンチュンという小鳥のさえずり。心地よい朝の光。
そして、鼻腔を容赦なく突く、吐き気を催すような深海クラーケンと赤サビの異様な悪臭。
「……くさっ。な、なんなのこの臭い……。私の神聖な寝室で、下水道が爆発でもしたの……?」
セレスティアは顔をしかめながら身を起こし、自分が最高級のシルクのネグリジェ姿であることを確認した。
そして、そのネグリジェの豊かな胸元や美しい太ももが、無残にも『赤茶色のサビ』と『謎のドロドロした液体(プロテインの残り香)』でベットリと汚れていることに気づいた。
「えっ……? な、なにこれ。私、なんでこんな格好で、なんでこんなに全身が汚れて……」
次の瞬間。
彼女の脳裏に、昨夜の記憶の断片が、フラッシュバックのように恐るべき解像度で鮮明に蘇ってきた。
隠し通路から誰にも内緒で忍び込んだこと。
スライムをぶっかけようとしたこと。
スライムが食中毒で爆発したこと。
ピンク色の怪しいガスを思い切り吸い込んだこと。
そして。
自分が完全に理性を失い、獣のようにヨダレを垂らしながら、サビだらけの汚い甲冑の男に馬乗りになり、「私を好きにしてぇぇ!」と狂ったようにすがりついて、鉄の装甲を舐め回していた、あの信じられないほど破廉恥で、王族としての尊厳を粉々に砕く屈辱的な光景のすべてが。
「――――――――――――ッッッ!!!!!!」
セレスティアの顔面から、一瞬にしてすべての血の気が引き、純白のシーツよりも真っ白になった。
瞳孔が極限まで収縮し、声にならない絶叫が喉の奥で詰まり、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。
(嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ! この私が!? 国中が羨望の眼差しを向ける、次期女王たるこの私が!? あんな汚らしいサビの塊みたいな男に、自分から欲情して発情して、下着姿で抱きついてペロペロ舐め回した!? しかも、それをあの野蛮で下品な兵士どもに、ドアをぶち破られて全部見られてた!?)
セレスティアの完璧な人生設計が、音を立てて崩壊していく音がした。
もしこの事実が王宮の貴族たちに知れ渡ればどうなるか。
『第一王女セレスティアは、得体の知れないスラム上がりの将軍に狂わされ、自ら身を差し出して鉄を舐める淫乱な女だ』という致命的で破滅的なスキャンダルとなり、王位継承権はおろか、社交界からも永久に追放され、修道院送りにされるのは火を見るよりも明らかだ。
(お、終わった……。私の人生、完全に終わった……!)
セレスティアが絶望のどん底に突き落とされ、シーツを両手でギリギリと握りしめてガクガクと震えていた、その時。
カシャン、と。
壁際から、重々しい金属音が響いた。
セレスティアが弾かれたように顔を上げると、そこには、三十キロの錆びついた全身甲冑に身を包んだ男――無敵大将スミス(サトー)が、腕を組み、微動だにせず、ただ静かに彼女を見下ろしていたのである。
(ひいいいいいいっ! 目が合った! 般若王女と完全に目が合った! 絶対に殺される! 記憶を消すために、今すぐ俺の首を刎ねろって大声で叫ぶに決まってる!)
サトーは兜の中で、恐怖のあまりガチガチと激しく歯を鳴らし、あまりのストレスで気絶しそうになっていた。
しかし、その『無言で腕を組み、冷徹に王女を見下ろす』という絶対的な強者のポーズは、パニック状態にあるセレスティアの目に、どのように映ったか。
(な、なんなのよこの男は……! 昨夜、私が国中の男がひれ伏すほどの魅力で、あそこまで肌を晒して迫ったのに、指一本触れようとせず、そして今も、この私をまるで『滑稽な道化』を見るような、冷酷な目で見下ろしている……!)
セレスティアの心の中で、絶望が、やがて強烈な『屈辱』と『恐れ』、そして自己を保つための異常な『自己正当化』へと反転し始めた。
(……待てよ。ここで私が取り乱して、この男を不敬罪で処罰しようと叫べばどうなる? 扉の外にいる百人の狂信者どもが黙っていない。間違いなく反乱を起こすわ。それに、この男は魔将三体を瞬殺したバケモノ。力ずくで口封じなんて、王国の全戦力をつぎ込んでも絶対に不可能。……ならば!)
セレスティアは、王族として幼い頃から培ってきた、腹黒く打算的な政治的思考をフル回転させた。
(ならば、いっそ『私が彼を愛し、彼を私の夫として、王宮の覇者として選んだ』という既成事実を、私の方から大々的に公表してしまえばいいのよ! 彼という絶対的な武力を私のモノ(共同体)だと知らしめれば、兄たちも貴族どもも、私にひれ伏すしかない! 昨夜の狂態も、『次期女王たる私が、無敵の英雄を見初めた神聖なる契りの夜』として、歴史の解釈を強引に書き換えてやるわ!)
セレスティアの表情から、パニックと絶望の色がスーッと引いていった。
代わりに浮かび上がったのは、狂気的な野心と、背筋が凍るような『般若の微笑み』であった。
「……ふふ。ふふふふふっ」
セレスティアは、汚れたネグリジェのままベッドから優雅に立ち上がり、壁際に立つサトーに向かって、ゆっくりと歩み寄った。
「おはようございます、私の英雄(スミス将軍)。……昨夜は、その、私としたことが、少しばかり『情熱的』になりすぎてしまいましたわね」
(ヒィッ!? なにその笑顔!? 怖い怖い怖い! どう見ても絶対に裏で暗殺者の手配とか、毒殺の計画を考えてる顔だろそれ!)
サトーは内心で絶叫しながら、壁に背中をめり込ませるようにして張り付かせた。
セレスティアは、サトーの怯えた態度(※威風堂々とした沈黙)に一切動じることなく、デスクの上に置かれていた『一枚の羊皮紙(サトーが書いた必死の始末書)』に目を留めた。
「あら? これは……将軍が、朝早く起きて書かれたのですか?」
(あっ! ヤバい、見られた! その字の汚さを見られたら、俺が文字もまともに書けない教養のないスラムのゴミだってバレる!)
サトーが「ああっ」と手を伸ばして止めようとするよりも早く、セレスティアはその羊皮紙を手に取った。
そこには、鉄のガントレットで無理やりインクをつけて書かれた、黒いインクが四方八方に飛び散り、ミミズがのたうち回ったような、凄まじく禍々しい筆跡の文字列が刻まれていた。
『王女殿下へ。誠に申し訳ございません。私はスラムのゴミです。どうかすべてお忘れください。スミス』と書いたはずの、その文章。
だが、セレスティアの野心に満ちた目には、その常軌を逸した荒々しい筆跡と血飛沫のようなインクのシミが、まるで古代の呪術文字か、あるいは『叛逆の血の契約書』のように映ったのである。
「これは……!」
セレスティアの目が、驚愕と歓喜に大きく見開かれた。
「この、羊皮紙を切り裂かんばかりの力強い筆致……! 飛び散るインクは、まるでこれから流れるであろう政敵たちの血潮を暗示しているかのよう……! そして、この短く、暗号のように記された文字列……」
セレスティアは、羊皮紙を震える手で持ちながら、勝手な超解釈(政治的リーディング)を爆発させた。
「『王……殺……ス(す)……』? インクが滲んで読めない部分が多いですが……まさか将軍! 貴方様は、この私への愛と忠誠の証として、『現在の無能な国王と兄たちを暗殺し、私を唯一の女王として玉座に据える』という、国家転覆の血の盟約書を書いてくださったのですか!?」
(ちげえええええええええええええっ!!!)
サトーの脳内で、超新星爆発が起きた。
「申し訳ございません」の『申』がインクの滲みで『王』に見え、「スラム」の『ス』が残って、どうして『王を殺す』になるんだ。いくらなんでも飛躍しすぎだろ! どうして謝罪のための始末書が、一瞬にして国家転覆のクーデター計画書に翻訳されるんだ。この女の頭の中は一体全体どうなっているんだ。
「素晴らしい……! ああ、なんという苛烈で、残酷で、頼もしい愛の形……! 貴方様のその背負う覚悟、私震えてしまいましたわ!」
セレスティアは、その勘違い羊皮紙を愛おしそうに胸に抱きしめ、うっとりとした、完全に熱に浮かされた瞳でサトーを見つめた。
「わかりましたわ、スミス将軍。貴方様のその深い愛と狂気、このセレスティアが確かに受け取りました。私たち、もう後戻りできない共犯者ですわね。……ふふ、ふふふふっ! 誰にも邪魔はさせませんわ!」
(違うからぁ! 共犯者になんかなりたくない! 俺はただ定時で帰って、平和な村でスローライフを送りながら寝たいだけの一般人なんだよォォォ!)
サトーが心の中で血の涙を流し、完全に膝から崩れ落ちそうになった、その時である。
ドォォォォォォォォォンッ!!!
部屋の扉の代わりとして立ちはだかっていた強固な肉の壁(狂信者たち)が左右に大きく割れ、地響きのような大声とともに、数人の人物が部屋の中へとなだれ込んできた。
「おはようございます、将軍! そして王女殿下! 我らが無敵大将の『神聖なる朝』を祝し、究極の朝食をお持ちいたしましたぞ!」
レオンとバルタ、そしてなぜかワイン樽を被ったままの全裸の老人ヴェインが、満面の笑みで部屋に突入してきたのだ。
さらにその後ろからは、巨大な寸胴鍋を軽々と肩に担いだピンク色フリルエプロンのシルヴィママと、木のお玉を持ったリンちゃんが、ドスドスと足音を立てて入ってくる。
「さあサトー! あんた、昨夜は激しい運動(※セレスティアとの密室での格闘)をしたんでしょ! 外まで聞こえてたわよ! 失われた筋肉の細胞を修復するためには、朝イチのタンパク質補給が絶対条件よ! はい、ママ特製の『超濃縮深海クラーケン・プロテイン(劇薬)』、いつもより多めのおかわりを持ってきたわよ!」
シルヴィママが、豪華なアンティークデスクの上に、ボコボコと赤黒い不気味な泡を立てる巨大な寸胴鍋をドンッ!と置いた。
その瞬間。
貴賓室の優雅な香木の香りは宇宙の彼方へ完全に消し飛び、代わりに、ドブ川の底のヘドロを煮詰めて三日間炎天下で放置したような、生物の脳髄を直接殴りつける『致死量の悪臭』が部屋中に充満した。
「オエェェェェェェッ!?」
ネグリジェ姿のセレスティアが、あまりの悪臭に喉を掻きむしり、涙目になって壁際まで後ずさった。
昨夜の大広間でも嗅いだ臭いだが、密室であるこの部屋での破壊力は桁違いである。目の前の空間が、アンモニアガスで陽炎のようにグニャグニャと歪んで見えるほどだ。
「な、なんなのよこの泥水は!? これを……これを将軍の朝食だと言うの!?」
セレスティアが、鼻をつまみながら悲鳴を上げる。
「ええ、そうですとも王女殿下!」
レオンが、なんの疑いもなく誇らしげに胸を張った。
「将軍は、いかなる時も己を甘やかさず、この『猛毒(ドラゴンすら一撃で気絶させたアレ)』を毎日摂取することで、肉体を神の領域へと昇華させておられるのです! さあ将軍、冷めないうちにどうぞ!」
リンちゃんが、ニコニコと無邪気な笑顔で、極太の木製ストローをサトーの兜の十字スリットにスポッと差し込んだ。
「……ズズッ。……ズズズズズッ」
サトーは、致死量の悪臭が立ち込める中、微動だにせず、ただ無心でそのドロドロの泥水をストローですすり始めた。
(マズい。朝から飲むと一段とマズい。胃袋が痙攣してるのがわかる。吐きそうだ。でも……なんだろう、この謎の安心感。高級なベッドでビクビク怯えながら寝るより、この泥水を飲んでる時の方が、俺が『ただの底辺のサトー』に戻れた気がして、心が不思議と落ち着くんだ……)
サトーが、王宮の超VIPルームの中心で、優雅さの欠片もないストローで泥水をすする姿。
それを見たセレスティアの心に、ある種の強烈な『対抗心』と『恐怖』が湧き上がった。
(な、なんなのこの男は……。こんな、嗅いだだけで失神しそうな劇物を、顔色一つ変えずに(※兜で見えないだけ)、まるでただの水のように平然と飲んでいる……。これが、三体の魔将を瞬殺した底知れぬ力の源……!)
セレスティアは、先ほどサトーと交わした(と思い込んでいる)『国家転覆の血の盟約』を思い出した。
この底知れぬ無敵のバケモノを、完全に私のモノとしてコントロールし、この王国の絶対的な女王として君臨するためには。
私自身が、彼にとって『対等で、覚悟のある価値ある女』であることを、今ここで証明しなければならない。
「……お待ちになって、スミス将軍」
セレスティアは、震える足で立ち上がり、決死の覚悟を決めたような、悲壮感すら漂う顔で、寸胴鍋の前に進み出た。
「お、王女殿下?」
レオンたちが怪訝な顔をする。
「将軍。貴方様が、私というパートナーを選んでくださったこと……その深く残酷な愛に、私は応えなければなりません」
(えっ? なに? なんの話? 急にどうしたの?)
サトーがストローを咥えたまま、ピタリと動きを止める。
「貴方様が、私との未来のためにその猛毒を飲み、己の肉体を極限まで痛めつけているというのなら……貴方様の隣に立つこの私も、同じ苦痛、同じ毒を分かち合う覚悟がありますわ!」
セレスティアは、シルヴィママが持っていた木製のお玉をひったくると、寸胴鍋の中でボコボコと煮えたぎる赤黒い泥水を、なみなみとたっぷりとすくい上げた。
「殿下!? いけません、それは殿下のような高貴な方が口にして良いものでは! 命に関わりますぞ!」
レオンが慌てて止めようとする。
「黙りなさい! これは、私と将軍の『愛の誓い(毒杯)』ですわ! スミス将軍、見ていてください! 私の、貴方様への命を懸けた覚悟を!」
(やめろォォォォォォォッ!!! 飲むなバカ!)
サトーは兜の中で、今日一番の絶叫を上げた。
体力3の自分ですら、飲むたびに三途の川が見える激マズの劇薬プロテインである。
こんな温室育ちの、最高級の料理しか食べたことのない王女様が飲んだら、マジで死ぬ。胃袋がショックで破裂して死ぬ。
王女が死んだら、暗殺容疑で俺が確実に死刑になる! 止めなきゃ! 物理的に止めなきゃ!
サトーが三十キロの甲冑を軋ませて手を伸ばそうとした、その瞬間。
「覚悟ォォォォォッ!!」
セレスティアは、目と鼻を固く閉じ、お玉になみなみと注がれたプロテインを、一気に自分の口の中へと流し込んだのである。
ゴクリ。
一瞬の、静寂。
王女の細い喉仏が動き、その劇物が胃袋へと到達した音がした。
「……」
セレスティアの動きが、大理石の彫像のようにピタリと止まった。
その美しく整った顔のパーツが、中央にギュッと寄り。
白目の部分に、無数の赤い毛細血管がバキバキと浮き上がる。
深海クラーケンの生臭さと、腐敗したオークの骨髄の脂が、彼女の繊細な味覚神経と嗅覚神経を、内側からダイレクトに核爆発させたのだ。
「――――――――ア、ァ、ガ、ガハッ……!?」
セレスティアの口から、声にならないカエルのような呻き声が漏れた。
彼女は、自らの喉を両手で掻きむしり、全身をビクンビクンと痙攣させながら、白目を剥いて、その場にドスーン!と仰向けに倒れ込んだ。
「王女殿下ァァァァァァッ!?」
近衛騎士たちが悲鳴を上げて駆け寄る。
セレスティアは、口から紫色の美しい泡(※カニのような泡)を吹きながら、完全に意識の彼方へと旅立っていた。
「……なんと」
レオンが、白目を剥いて倒れた王女を見下ろし、そして、ストローを咥えたまま固まっているサトーを振り返った。
「王族の強靭な精神力をもってしても、一口で気絶するほどの凄まじい猛毒……。それを、毎日平然と飲み干しておられる将軍の肉体は、もはや神か悪魔の領域。……そして王女殿下もまた、将軍のその深淵なる力に少しでも近づこうと、自らの命を懸けて毒杯を煽られたのだ! なんという美しく、狂気に満ちた愛の形か!」
「すげえぜ……! これが王都の頂点に立つ女の覚悟ってやつか! 大将にふさわしい、最高の狂いっぷりだぜ!」
バルタが感極まって男泣きする。
「お見事ですぞォォォ! 覇王と女王の誕生に、空間の祝福をォォ!」
樽の老人が謎のカニ歩きステップを踏む。
(終わった……。俺の人生、完全に、完璧に終わった……)
サトーは、ストローから口を離し、泡を吹いて倒れている般若王女を見つめながら、ただただ虚無の境地へと達していた。
王宮の貴賓室でのハニートラップ。
国家転覆の血の盟約(と勘違いされた怪文書の始末書)。
そして、毒殺未遂(※王女の自爆)。
これらすべての要素が完璧なまでの誤解で絡み合い、サトーはもはや「ただの武力の英雄」から、「第一王女を心酔させ、国家の裏で暗躍し、次期国王の座すらも狙う、底知れぬ狂気と猛毒の絶対覇王」としての地位を、不可逆的に確立してしまったのである。
「もう……誰か俺を、スラムのゴミ捨て場に不法投棄してくれ……」
最弱の社畜・佐藤一郎の、兜の奥から漏れた小さすぎる本音は。
狂喜乱舞する部下たちの大歓声と、泡を吹く王女の微かないびきにかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。




