第22話:罠と溶解スライム
アーゼンベルフ王宮の最奥部に位置する、選ばれた王族と国賓のみが立ち入りを許される『白亜の貴賓室』。
深夜二時。
窓の外には、魔王軍の残党が逃げ去った後の静寂な王都の夜景が広がっている。
最高級の香木が焚かれ、床にはふかふかのペルシャ絨毯が敷き詰められたその絢爛豪華な部屋の中央に鎮座する、雲のように柔らかい天蓋付きのキングサイズベッド。
その極上のベッドの上に、三十キロの赤錆びた全身甲冑を着込んだままの男が、ピクリとも動かずに横たわっていた。
(……痛い。背中が痛い。腰も痛いし、首の関節も痛い。なにより、ベッドが柔らかすぎて体が鉄の重みでズブズブ沈んでいって、完全に身動きが取れない……!)
サトーは兜の中で、血走った目を見開きながら、心の中で一人静かに地獄の苦しみと戦っていた。
王宮のVIP待遇。それは一見すると最高のご褒美のように思えるが、甲冑が癒着して絶対に脱げないサトーにとっては、ただの拷問器具でしかなかった。
ふかふかの高級羽毛布団は、三十キロの鉄の塊を容赦なく包み込み、身動きを封じる蟻地獄と化している。寝返りすら打てず、関節に食い込むサビの痛みに耐え続けるだけの夜。
前職のブラック企業で、徹夜明けにオフィスの硬いパイプ椅子を並べて仮眠を取っていた時のほうが、まだ百倍マシな睡眠環境であった。
(もう嫌だ……。スラムの酒場の、あのカビ臭くて硬い木組みのベッドに帰りたい。あそこなら沈み込まないから寝返りが打てたのに。だいたい、部屋の外にはレオンたちが百人がかりで警護(※という名の監視)してるし、完全に軟禁状態じゃないか……)
サトーが絶望的な溜息(※兜を通すと、まるで野獣の低い唸り声のように響く)を漏らした、その時である。
カチッ……。
静寂に包まれた貴賓室の壁際で、微かな、しかし決定的な異音が鳴った。
壁に掛けられていた歴代国王の巨大な肖像画が、音もなく横にスライドし、そこから『隠し扉』が姿を現したのだ。
(えっ……? な、なんだ!? 隠し通路!? 暗殺者か!?)
サトーは心臓を跳ね上がらせ、沈み込んだベッドから必死に這い出そうと手足をバタバタさせたが、亀のようにひっくり返った三十キロの甲冑は、高級羽毛布団の吸引力から逃れることができない。
暗闇の中から、隠し扉を通って部屋に忍び込んできた一つの人影。
それは、暗殺者のような黒装束ではなく。
薄い月明かりに照らし出されたのは、透けるような最高級のシルクで仕立てられた、あまりにも扇情的で露出の多い『真紅のネグリジェ』を身に纏った、第一王女セレスティアであった。
(は、般若王女ォォォ!? なんでこんな夜中に、しかもそんなとんでもない格好で!?)
サトーはパニックで完全に思考が停止した。
セレスティアは、裸足のまま音もなく絨毯の上を歩き、サトーが身動きを取れずにいるベッドの横へと近づいてくる。
その手には、怪しく青い光を放つ、ガラス製の密閉容器が握られていた。
セレスティアの腹黒い脳内では、今、完璧で冷酷な計画の最終フェーズが実行されようとしていた。
(ふふふ……。どんなに警護を固めようと、王宮の隠し通路をすべて把握している私から逃れられるわけがないわ。スミス将軍、貴方がどれほど禁欲的でストイックな男であろうと、今夜で終わりよ!)
セレスティアは、手にしたガラス容器をうっとりと見つめた。
その中には、スライム状の青いドロドロとした生物がうごめいている。
(これは、王宮の地下宝物庫に厳重に封印されていた、伝説の魔法生物『ミスリル・イーター』。人間の肉体には一切の害を与えず、金属や魔法の防壁だけをドロドロに溶かして捕食する、特殊なスライム……!
あの忌々しい、どんな魔法も工具も弾いたサビだらけの甲冑も、これを使えば一瞬で溶け落ちるはず!)
セレスティアの計画はこうだ。
深夜、隠し通路から忍び込み、寝込みを襲ってこのスライムを甲冑にぶちまける。
甲冑が溶け落ちて素顔を晒し、無防備になった無敵の将軍に対し、この極限まで露出度を高めた真紅のネグリジェ姿で迫る。
どれほど戦場では冷徹な男であろうと、突然鎧を失った無防備な状態で、絶世の美女である王女に迫られれば、男の理性が吹き飛ばないはずがない。
そのまま既成事実を作り上げ、英雄スミスを完全に自らの『犬』として飼い慣らす。王位継承戦を勝ち抜くための、完璧なハニートラップである。
(さあ、スミス将軍! その薄汚い鉄の殻を脱ぎ捨てて、私の前でひれ伏しなさい!)
セレスティアは、ベッドの上でもがいている(※身動きが取れないだけ)サトーを見下ろし、妖艶な笑みを浮かべた。
「……ふふっ。こんばんは、スミス将軍。こんな夜更けに、驚かせてしまってごめんなさいね」
セレスティアは、ベッドの縁に腰を下ろし、わざと胸元の谷間を強調するように身を乗り出した。
(ひいいいいいいっ!? なんだこの状況! なんで社長の娘(王女)が、下着みたいな格好で深夜に俺の部屋に忍び込んでくるんだよ!)
サトーは兜の中で、血の気が完全に引いていた。
ブラック企業における『ハニートラップ(コンプライアンス違反の捏造)』の恐怖が、サトーの社畜脳を激しく刺激する。
(間違いない、これは罠だ! 俺が少しでも手を出そうものなら、外で待機してる近衛騎士が飛び込んできて「王女殿下に何をする!」って不敬罪で逮捕されるやつだ! 前の会社でも、専務の派閥争いでこういう卑劣な罠にハメられてクビになった先輩がいた! 俺は絶対に引っかからないぞ!)
サトーは、なんとか誘惑(※恐怖)から逃れるため、渾身の力を振り絞って顔を横に向け、完全に無視する態勢をとった。
しかし、その強固な『無言の拒絶』は、セレスティアのプライドに火をつける結果となった。
(なっ……! この私、国中が羨むこの私が、ここまで肌を晒して歩み寄っているのに、顔を背けるというの!? どんだけ禁欲的なのよこの男! いいわ、ならば強制的にその鉄の皮を引っ剥がしてあげるわ!)
「……将軍ったら。本当に照れ屋さんなのですね。でも、もうその重い鎧は必要ありませんわ」
セレスティアは、サトーの胸元にガラス容器を押し当てると、その蓋を勢いよくパカッと開け放った。
『ピチャァッ……!』
中から飛び出した青いスライム(ミスリル・イーター)が、サトーの胸当てにへばりつき、金属を捕食するために凄まじい勢いで増殖し始めた。
(うわあああ!? なんだこれ!? 冷たい! 気持ち悪い! スライム!? なんでいきなりスライムをぶっかけてくるんだよ!? 暗殺!? 毒殺!?)
サトーがパニックになり、手足をバタバタと暴れさせる。
スライムは、サトーの三十キロの甲冑を溶かそうと、その強力な消化酵素を分泌し始めた。
「ふふふ……無駄ですわ将軍。それは金属だけを溶かす特殊な魔法生物。数秒後には、貴方は丸裸になりますわ。さあ、私に素顔を見せて……」
セレスティアが勝利を確信し、甘い吐息を漏らした、次の瞬間である。
『……ギ……ギィヤァァァァァァァァァァァァッ!?!?』
突如として。
サトーの胸にへばりついていた青いスライムが、この世の生物とは思えない、断末魔の悲鳴(物理的な振動音)を上げたのだ。
「えっ……?」
セレスティアが目を丸くする。
ミスリル・イーターは、金属を食べるスライムである。
しかし、サトーの甲冑は、ただの金属ではなかった。
スラムのゴミ捨て場で長年熟成された『赤錆』と、シルヴィママが毎日毎日サトーの頭からぶっかけていた『超濃縮深海クラーケン・プロテイン(劇薬)』の成分が、金属の分子レベルにまで深く浸透し、完全に融合した『異常な化学結合の複合装甲』と化していたのである。
スライムの消化酵素が、その甲冑の表面を溶かそうとアクセスした瞬間。
甲冑の内部に蓄積されていた、深海クラーケンの生臭い触手エキス、腐敗したオークの骨髄、謎の有毒ハーブなどの『生物の存在を否定する究極の劇物データ』が、スライムの体内にダイレクトに逆流したのだ。
『ボコッ! ボコボコボコボコッ……!! ピギャァァァァァ!』
青かったスライムは、瞬く間に赤黒く、ドブ色に変色し、ブクブクと異常な泡を吹き始めた。
金属を食うはずの魔法生物が、強烈すぎる異臭と劇薬の成分によって『極度の食中毒』を引き起こし、自らの細胞を崩壊させ始めたのである。
「な、なにこれ!? スライムが……溶けてる!? 逆に溶かされてる!?」
セレスティアがパニックに陥り、後ずさる。
そして。
耐えきれなくなったスライムは、風船が破裂するように、ポンッ!という間抜けな音を立てて爆発した。
その瞬間、スライムの残骸から、ピンク色の怪しいガスが部屋中にブワァァァッと拡散した。
(うおっ!? 毒ガスか!?)
サトーは慌てて息を止めた。幸い、分厚い兜の構造と、長年嗅ぎ続けた悪臭に対する耐性のおかげで、サトーにはほとんど影響がなかった。
しかし、無防備なネグリジェ姿で、至近距離でそのガスを吸い込んでしまったセレスティアは違った。
そのガスは、魔法生物が死の直前に放った『幻惑とフェロモンの暴走ガス』に、プロテインの謎の成分が混ざり合った、極めて危険な催淫と混乱の気体だったのだ。
「けほっ……! な、なにこれ……。頭が、フワフワして……体が、熱い……」
セレスティアの瞳から、理性の光が急速に失われていく。
彼女の顔は熟れた果実のように赤く染まり、その息遣いは荒く、熱を帯びたものへと変わっていった。
「ああっ……。将軍……スミス将軍……」
完全にガスに酔っ払い、理性を吹き飛ばされたセレスティアは、目の前に横たわるサトーの錆びた鉄の塊(甲冑)に向かって、フラフラと倒れ込んだ。
ガシャンッ!
「ひぃっ!? ちょ、王女殿下!? なにやってるんですか!」
サトーはパニックで叫んだが、セレスティアはサトーの鉄の胸当てに頬をすりすりとおしつけ、完全にトランス状態に陥っていた。
「ああ……冷たくて、硬くて……とっても素敵な匂い(※クラーケンの悪臭)がしますわ……。将軍……私を、私を好きにして……。もう、私から逃げられないわよ……えへへ……」
セレスティアは、サトーの鉄の腕に抱きつき、その錆びた金属の表面を、舌でペロリと舐め回し始めた。
(ギャアアアアアアアアッ!!! 狂った! 般若王女がガス吸って完全に狂った! なんで俺のサビを舐めてるの!? バイ菌だらけだぞ! 破傷風になるぞ! やめろ、離れろォォォ!)
サトーは恐怖のあまり、ベッドの上でもがき狂い、なんとか彼女を引き剥がそうと鉄の腕を動かした。
しかし、ガスでリミッターの外れた王女の執力は凄まじく、タコのようにサトーの甲冑に絡みついて離れない。
「ダメですわ……。将軍は、私のモノ……。この鉄の殻ごと、愛してあげますわ……ガブッ!」
「痛い痛い痛い! 鉄を噛むな! 歯が折れるぞ!」
サトーとセレスティアが、ベッドの上でガシャンガシャンと激しくもつれ合い、部屋中に異様な金属音と、王女の甘い喘ぎ声が響き渡る。
その、まさに最悪のタイミングであった。
「――将軍!! 部屋の中から争う音が聞こえましたが、ご無事ですか!!」
ドバァァァァァンッ!!!
サトーの部屋の巨大なマホガニー製の扉が、外からバルタの戦斧によって木っ端微塵に粉砕され、レオンを筆頭とする狂信者たちが、殺気をみなぎらせて一斉に雪崩れ込んできたのだ。
さらに、空間の亀裂が走り、ワイン樽を被った全裸の老人までもが、「空間の乱れを察知し、馳せ参じましたぞ!」と空から降ってきた。
そして、彼らの目に飛び込んできたのは。
薄暗い月明かりの中、乱れた最高級のキングサイズベッドの上。
仰向けに倒れた無敵大将スミス(サトー)の巨体の上に、あられもない真紅のネグリジェ姿の第一王女セレスティアが馬乗りになり、熱い吐息を漏らしながら、必死に将軍の体にすがりつき、顔を埋めている光景であった。
「…………なっ」
レオンの思考が、一瞬完全に停止した。
バルタは持っていた戦斧を取り落とし、ならず者たちは全員が信じられないものを見たように口をポカンと開けた。
樽を被ったヴェインに至っては、「おお……なんという神聖な儀式……」と拝み始めている。
(終わった。完全に終わった。ハニートラップが大成功した瞬間を、会社の上司と同僚全員に見られたようなもんだ。俺はもう社会的に死んだ。不敬罪で確実に極刑だ……)
サトーは兜の中で、魂の形が完全に崩壊し、細かい砂となって宇宙の彼方へ消え去るのを感じていた。
抵抗する気力すら失い、ただ静かに死(処刑)を受け入れようとした、その時。
「……見ろ、バルタ」
レオンが、震える手で目頭を押さえながら、静かに、しかし確かな熱を帯びた声で呟いた。
「王宮の最奥部に忍び込み、将軍の寝込みを襲おうとした暗殺者の気配。……だが、将軍は一切の武器を取らず、ただ己の『圧倒的な雄としての魅力』と『覇王のオーラ』のみで、敵を完全に骨抜きにしてしまったのだ」
「えっ」
サトーの思考が、別の意味でショートした。
「しかも、その刺客の正体は、あろうことか第一王女セレスティア殿下ご自身……! 王宮の権力闘争において、将軍の無敵の力を自らの手駒にするため、殿下は自らハニートラップという禁じ手を仕掛けてきたのだ」
バルタが、ゴクリと生唾を飲み込みながら言葉を繋ぐ。
「だが……大将は、そんな下劣な色仕掛けに一切動じなかった! それどころか、王女の魅惑の肉体がどれほど迫ろうとも、一切の欲情を見せず、鉄の鎧すら脱ごうとせず、無言のまま冷徹に拒絶し続けている! そのあまりにもストイックで絶対的な『雄の精神力』の前に……王女殿下の方が逆に、心から大将に惚れ込み、発情しちまって、自分からすがりつく狂信的なメスになっちまったってわけだ!!」
「そうだ! 見よ、あの将軍の微動だにしない冷静な姿を! そして、自らのプライドをすべて捨て去り、将軍の鉄の鎧に頬をすり寄せて懇願する王女殿下の姿を!」
レオンが、感動のあまりボロボロと大粒の涙を流して天を仰いだ。
「将軍は、剣を振るうことなく、魔法を放つこともなく、ただそこに横たわっているだけで! 次期女王たる王女殿下の魂を完全に支配し、このアーゼンベルフ王国の実質的な『王』へと君臨されたのだ!!」
「「「おおおおおおおおおおおおっ!!!」」」
「「「無敵大将スミスバンザイ! アーゼンベルフの真の王、バンザイ!!」」」
深夜の王宮の貴賓室に、百名の狂信者たちによる、狂気と熱狂の大合唱が轟き渡った。
(違う違う違う違う! 俺はただスライムぶっかけられてパニックになってただけだよ! ていうか、このピンクのガスのせいだよ! なんで俺が王女を洗脳して国を乗っ取った極悪人みたいに超翻訳されてるんだよォォォ!)
サトーの心の絶叫は、熱狂の渦に完全に掻き消されていた。
ベッドの上では、依然としてガスの影響から抜け出せないセレスティアが、「将軍……んふふ、かっこいい……私のモノ……」と、サトーの甲冑にヨダレを垂らしながら抱きついたままである。
「さあ、皆の者! 将軍と王女殿下の『神聖なる契り』の邪魔をしてはならん! 我々は部屋の外に出て、死ぬ気でこの扉を死守するのだ! 誰一人としてこの部屋には近づかせるな!」
「おう! 朝まで絶対に誰も通さねえぜ!」
レオンとバルタが、勝手に気を利かせてならず者たちを部屋から追い出し、粉砕された扉の代わりに、自分たちが物理的な肉の壁となって部屋の入り口を完全に封鎖してしまった。
「待って! 行かないで! 一人にしないで! 助けてえええ!」
サトーが叫ぼうが手を伸ばそうが、完全に『愛の営み(という名の地獄)』を邪魔しないための配慮として処理され、無視されてしまう。
静寂を取り戻した、しかし完全に逃げ場を失った密室(貴賓室)の中。
サトーの上に馬乗りになったままの、理性を失った般若王女。
そして、絶対に脱げない三十キロの甲冑の重み。
(もうダメだ……。明日、ガスから覚めて正気を取り戻した王女に、俺は絶対に殺される。国家権力を使って、何が何でも俺をギロチン送りにするに決まってる……)
最弱の社畜・佐藤一郎は、王宮という名の最高級の牢獄のベッドの上で、王女の熱い吐息とプロテインの悪臭に包まれながら、完全に絶望の涙を流し、意識をシャットダウン(気絶)させることしかできなかったのである。




