第17話:転移と全裸の爺
アーゼンベルフ王国の最下層、スラム街の深い闇に完全に沈み込んだ鋼鉄の密閉要塞『踊る豚亭』の一階フロア。
そこには、異様なまでの静寂と、冷や汗が一瞬で蒸発してしまいそうなほどに張り詰めた、致死量の緊張感が満ちていた。
ルーシーの放った空間放出魔法と、外から侵入しようとした暗殺者ヴェインの空間侵入魔法。二つの相反するベクトルが正面衝突を引き起こした結果生じた、青と紫の魔法陣の残滓が、虚空でパチパチと乾いた電気的な音を立てては消えゆく。
焦げたオゾンの匂いと、シルヴィママが厨房で煮込み続けている『超濃縮深海クラーケン・プロテイン』の強烈なアンモニア臭が混ざり合い、この世のものとは思えないバイオハザード的な空間を作り出していた。
そんな地獄のようなフロアの中央には、頭の先から足の先まで、文字通り一糸まとわぬ『完全なる全裸』となった、骨と皮ばかりの初老の男――大陸最強の魔法暗殺ギルド【銀の月蝕】の最高指導者であるヴェインが、生まれたままの姿で大理石の床に這いつくばっていた。
彼は、己の全財産をつぎ込んだ伝説級の魔導具や、何重にも編み込んだ防壁ローブのすべてを『次元の乱気流』によってシュルシュルと大根おろしのように削り取られ、ただの皺くちゃの老人として、ガタガタと全身を激しく痙攣させている。
そして、その全裸の老人の頭上、わずか数センチ前方の空間には。
三十キロの赤錆びた重厚な全身甲冑に身を包み、腕を固く組んだまま微動だにせず、ただ静かに、圧倒的で禍々しい死のプレッシャーを放ちながら見下ろしている、王国の救世主にして空間支配の大魔導士――特務大将スミス(サトー)の、泥まみれの鉄靴が鎮座していた。
(なんだこれ……。なんだこの終わってる地獄絵図は……!)
サトーは兜の中で、視界を完全に真っ暗に染め上げながら、心の中で狂ったように、そして声なき絶叫を上げ続けていた。
(逃げ出すためにルーシーの転移魔法にすがったはずだろ!? なのになんで、目の前の空間が爆発したかと思えば、空からいきなり見知らぬ全裸の爺さんが降ってきて、俺の足元で泣きながら命乞いをしてるんだよ! 意味がわからない! 怖すぎる! 前職のブラック企業で、徹夜明けの朝礼中に寝ぼけて社長の淹れたてコーヒーを股間にひっくり返した時よりも、遥かに人生の詰みを感じる瞬間じゃないか!)
サトーは恐怖と絶望、そして極限の混乱により、脳の処理能力が完全にフリーズしていた。
一歩でも動けば、この全裸の爺さんがパニックを起こして何をしてくるかわからない。そもそも、甲冑が重すぎて足がすくんで一歩も動けない。
結果として、サトーは『腕を組んだまま、ピクリとも動かずに全裸の敵を見下ろし続ける』という、絶対的な強者のポーズを維持する形になってしまっていたのである。
(もうダメだ。俺は魔法を使っても逃げられない運命なんだ。神様、仏様、ママさん……誰かお願いだから、このバグり散らかしたおかしな世界を一時停止してくれ……!)
サトーが恐怖で完全に硬直していると、その『一切の隙を見せない沈黙』は、周囲を取り囲む狂信者たちにとって、あまりにも重く、あまりにも冷酷で、そして完璧な『絶対的処刑前の静寂』として映っていた。
「……見ろ、バルタ」
レオンが、銀の剣の柄に手をかけたまま、低く引き締まった、歓喜に震える声で呟いた。
その目は、床に這いつくばる全裸の暗殺者を冷徹に、そしてサトーの背中を熱烈な崇拝の眼差しで見据えている。
「あのヴェインという男は、我が国の王都すら単身で壊滅させ得るほどの、伝説の魔術暗殺者だ。魔法の知識と隠密の技術においては、間違いなく大陸の頂点に君臨するバケモノだ。通常の尋問手段であれば、いかなる凄惨な拷問を用いようとも、自らの舌を噛み切ることはあっても、組織の機密や魔王軍との繋がりを口にすることなど絶対にないだろう」
「ああ。だが、大将は一切の暴力も、下劣な脅しすらも使ってやがらねえ」
バルタは、己の身長ほどもある巨大な両刃の戦斧を肩に担ぎ、感嘆と畏怖の色を隠せない顔で、荒い鼻息を鳴らした。
「ただ一言も発せず、ただ圧倒的な『死の気配』と『空間の理』を背負ってその場に立っているだけで、あの傲慢でプライドの塊みたいな暗殺者の心を粉々に叩き折り、物理的にも精神的にも裸一貫にして、床にひれ伏させちまった……。これ以上の完璧な尋問が、この世のどこにあるってんだ」
そこへ、暗闇の中から音もなく現れた小柄な人影が、静かに口を挟んだ。
元・王都の伝説の暗殺者であり、現在は踊る豚亭で世界最速の皿洗いとして生きる男、ポチである。彼は深く被ったフードの奥で、鋭い眼光をヴェインに向けていた。
「フッ……レオン殿の言う通りだ。裏社会に生きる者にとって、【銀の月蝕】のグランドマスター・ヴェインは、文字通り恐怖の象徴。あの男が口を割るなど、天地がひっくり返ってもあり得ない事象のはずだった」
ポチは、食器用のスポンジを握りしめながら、サトーの背中を見てブルリと身震いをした。
「だが、スミス将軍は、暗殺者にとって最も重要な『隠密の魔導具』と『衣服』という、己の存在を定義するすべての装甲を、空間の摩擦を利用してコンマ一秒で完全に剥奪した。暗殺者にとって、衆人環視の中で全裸にされることほど、精神を根底から破壊される拷問はない……。将軍は、人間の持つ本能的な『羞恥』と『無力感』を完璧にコントロールし、最も残酷な方法で精神を解体したのだ。我の暗殺術など、将軍の底知れぬ深淵に比べれば、児戯にも等しい……」
彼ら三人の、一切の遠慮のない声高な会話を聞き、床に這いつくばる全裸のヴェインの背筋に、絶対零度の氷柱が何本も突き刺さるような激しい悪寒が走った。
(こ、この男は……喋らない。私に弁明の機会すら一切与えないというのか……! 私のすべての魔導具を削り取り、全裸という最も無防備で、最も尊厳を傷つけられる姿に落とし込んだのは、単なる偶然などではない! この元同業者の男が言う通り、初めから私の精神を完全に破壊し、すべてを自白させるための、計算し尽くされた拷問だったというのか……ッ!)
ヴェインの老いた脳内で、勝手に恐怖の被害妄想がフル回転を始める。
暗殺ギルドの最高指導者としての数十年分の誇りも、冷酷非情な魔術師としてのプライドも、この数分間の出来事で完全に宇宙の塵となって消滅していた。
目の前で無言の圧力を放つ鉄仮面の男は、自分を殺すことなど、それこそ呼吸をするよりも簡単にできるはずだ。だが、あえて生かしたまま、その圧倒的な次元の格の違いを見せつけ、魂の底の底から服従させようとしているのだ。
逃げようと転移魔法を詠唱しようものなら、次の瞬間には空間ごと身体をミンチにされるだろう。
隠し財産や、魔王軍との密約の証拠を隠し通そうと黙秘を続ければ、どうなるか。
『グルルルルルル……』
足元の床下、地下貯蔵庫の方角から、大地を揺るがすような神話のドラゴン(古代地竜)の恐るべき唸り声が響いてきた。あれはおそらく、この男が飼い慣らしているペットなのだ。少しでも嘘をつけば、あのドラゴンの灼熱の胃袋に、全裸のまま生餌として放り込まれるに違いない。
耐えきれなくなったヴェインは、ついに精神の防波堤が決壊し、大粒の涙と鼻水、そして恐怖の涎を大理石の床に撒き散らしながら、甲高い、老婆のような絶叫を上げた。
『しゃ、しゃべります! すべて喋りますから、どうか、どうかお慈悲を……!! 魂だけは、魂だけは砕かないでくださいませェェェ!』
「「「ほう……?」」」
レオン、バルタ、ポチ、そして周囲を何重にも取り囲んでいた百名のならず者たちが、一斉に獣のような目を光らせ、全裸の男に殺気を向けた。
『わ、私の隠し財産はすべて! 王都の東区画にある、廃教会の地下に隠された秘密の金庫に保管されています! 総額にして二十億ゴールドの貴金属と、禁断の古代呪文書が百冊、さらに他国の王族を脅迫するための証拠の手紙まで、すべて、すべて差し出します! さらに……!』
ヴェインは自分の全裸の恥ずかしさすら完全に忘れ去り、床にゴツゴツと額を打ち付けて血を流しながら、震える裏返った声で、裏社会の最大の機密をペラペラと自白し始めた。
『魔王軍の西部戦線司令部から、スミス将軍の暗殺を依頼されたのは、我がギルドが結んだ破格の独占契約です! 依頼主は、魔王軍最高幹部の一人である「魔将バルバロス」! 奴らは次の作戦として、王都の地下水脈に直結する水源に、古代の呪われた腐敗毒を流し込み、都市の防衛機能を内側から完全に麻痺させた上で、数万の軍勢で総攻撃を仕掛ける計画を立てています! その作戦計画書の隠し場所も、毒の解毒剤の製法も、私を含めたギルドの幹部の名簿も、すべてお教えします! だから、だから命だけはぁぁぁ……! 服を、布切れ一枚でいいから恵んでくださいぃぃぃ!』
酒場の密閉されたフロアに、大陸の歴史を揺るがすほどの極秘情報が、蛇口を全開にした水道のように次々と垂れ流されていく。
(ちょっ……! 待って待って待って! そんな国家を揺るがすような超重要な機密を、なんでそんな大声でペラペラ喋るんだよ! 俺はそんな話一ミリも聞きたくない! 聞いたら絶対に関わっちゃいけない、巻き込まれたら確実に死ぬやつだろ! 耳を塞ぎたい! 今すぐ耳を塞いで「あー聞こえない聞こえない」ってやりたいのに、この三十キロの甲冑は防音機能ゼロだから、全部クリアに聞こえちゃうじゃねえか!)
サトーは兜の中で、冷や汗を滝のように流しながら、心の中で頭を抱えてのたうち回っていた。
『知らぬが仏』という、日本の偉大なことわざがある。魔王軍のテロ計画なんて知ってしまったら、いよいよ自分はスラムでのひっそりとした隠居生活どころか、絶対に最前線の戦争の渦中、それも一番危険な指揮官のポジションに引っ張り出されてしまう。定時退社どころか、二四時間戦えますか状態の永遠のデスマーチの始まりだ。
しかし、サトーのその「絶望して完全に思考がフリーズしている姿」は、狂信者たちの目には全く違う意味で映っていた。
一切の動揺を見せず、シリアルに、そして冷徹に、想定通りに事態を見極めている覇者の姿として――。
「……聞いたか、レオン」
バルタが、額に青筋を立て、険しい顔つきで戦斧をギリッと握りしめた。
「魔王軍のクズどもが、王都の水源に腐敗毒を流し込むだと? 正面からじゃ大将に勝てねえからって、罪のない市民の飲み水に毒を盛るなんて、胸糞悪りぃにも程があるぜ。……あわやというところで、将軍がこの暗殺者を自らの足元へ引きずり出し、テロ計画を未然に暴き出してくださったというわけだ」
「ああ……! なんという、神のごとき深謀遠慮……!」
レオンは、震える手で目頭を押さえながら、感極まった声で叫んだ。
「将軍は、初めからこの魔王軍の汚劣な水資源テロ計画を完全に察知しておられていたのだ! だからこそ、あえて敵の最高戦力であるこの暗殺者を殺さず、『生かしたまま全裸で尋問』し、我々部下の前でその自白を引き出させることで、我々遊撃部隊全員に敵の卑劣な次の手に対する警戒を徹底させようとなされた……! 言葉で命じるのではなく、敵の口から直接真実を語らせる。なんという完璧な統率力、そして王都を救うための慈悲深き英断……!」
「「「おおおおおおおおおおっ!! スミス将軍バンザイ!!」」」
百名のならず者たちが、サトーの「先を見越した完璧な尋問戦術」に、再び割れんばかりの、酒場の鉄板が吹き飛びそうなほどの狂熱の歓声を上げた。
(違う違う違う! 全然違うからぁ! 俺はただ遠くの平和な村に行きたかっただけで、この爺さんが転移に失敗して勝手に自白してるだけなの! 水源の毒とかバルバロスとか知らんがな! 誰か、誰かこの狂った空気を止めてくれ!)
サトーは心の中で血の涙を流しながら絶叫し続けたが、その声が分厚い兜を越えて外に届くことは絶対にない。
「ちょっと! あんたたち、うるさいわよ!」
そこへ、厨房の奥からドスドスと地響きを立てながら、ピンク色のフリルエプロンを着た身長二メートルの筋肉オカマエルフ、シルヴィママが、手に見事なモップを持って現れた。
「さっきからドカンバカンと馬鹿でかい音を立てて……って、ちょっと! 誰よ、アタシの神聖な酒場に、そんな汚らしい全裸の老人を持ち込んだのは! 営業停止処分になったらどうしてくれんのさ!」
シルヴィママは、床にひれ伏すヴェインを見るなり、顔をしかめてその巨大なモップを振り上げた。
「汚い! 不潔! ウチはそういうマニアックな店じゃないのよ! さっさと服を着るか、表のドブ川に飛び込んで消毒してきなさい!」
ドスッ! バキィッ!
シルヴィママの容赦ないモップの連撃が、全裸のヴェインの背中や頭に情け容赦なく叩き込まれる。
通常であれば、伝説の暗殺者がただの酒場の店主のモップ攻撃など受けるはずもない。しかし、精神が完全に崩壊しているヴェインにとっては、それすらも恐怖の対象だった。
『ひぎゃあああっ! お、お許しを! なんだこの巨漢のエルフは!? 恐るべき筋力……! まさか、スミス将軍は、こんなバケモノのような戦闘奴隷を酒場の店主として偽装させているというのか! やはりこの要塞は、一ミリの隙もない死地……! 痛い! モップの柄に闘気がこもっているゥゥ!』
「何をごちゃごちゃ言ってんのさ! サトー! あんたも突っ立ってないで、この全裸の変質者を摘み出すのを手伝いなさいな!」
「は、はいぃぃっ!」
サトーがシルヴィママの怒声にビクッとして返事をしようとした、その時だった。
この全裸の暗殺者による大自白劇と、狂信者たちの熱狂、そしてシルヴィママのモップ攻撃が入り乱れる大混乱の最中。
踊る豚亭の堅く閉ざされた鋼鉄の正面玄関を、猛烈な勢いで、狂ったように叩く激しい音が響き渡ったのだ。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
「おい! 開けろ! 重要な急ぎの用だ! 王国軍の最高機密に関わる使者を通せ! 一刻を争うのだ!」
聞き覚えのある、しかし非常に高飛車で、それでいてひどく切羽詰まった声だった。
王都の最下層であるスラムの路地裏には絶対に似つかわしくない、気品と焦燥が入り混じったその声に、酒場の熱狂的な空気がピリッと氷のように引き締まった。
「……ふむ。外のバリケードを叩く愚か者がいるな」
レオンが、モップで殴られている全裸の男から視線を外し、冷徹な視線を玄関の鋼鉄の扉に向けた。
「こんな深夜に、この要塞の絶対的な恐怖を知りながら、あえて近づいてくるなど、ただの命知らずの酔っ払いであるはずがない。魔王軍の残党か、あるいは……」
ガシャン、と。
バルタが巨大な戦斧を構え、筋骨隆々の体を揺らして鋼鉄の扉の前に仁王立ちした。
「おい、レオン。開けてやれよ。大将の完璧な尋問で、すでに敵の計画は丸裸だ。どんなネズミが来ようが、一瞬で俺の斧の錆にして、ミンチにしてやらあ!」
「待て、バルタ。血の気が多すぎる。無闇に殺すな。将軍の御前を血で汚すわけにはいかん。まずは相手の身分を確認する」
レオンの指示のもと、バルタが分厚い鋼鉄のバリケードに設けられた小さな確認用の小窓をガチャリと開けた。
そこから覗き込んだ外の光景に、バルタは思わず「おっ?」と間の抜けた声を漏らした。
そこに立っていたのは、スラムの泥水と汚泥にまみれ、車輪が半分壊れかけた豪華な馬車と、息をゼエゼエと切らせて青ざめた顔をした一人の若い貴族――いや、王宮の特使である高位の官僚だった。
彼の胸元には、アーゼンベルフ王国の王紋である『双頭の獅子』が刻まれた純金のバッジが、泥にまみれながらも輝いている。
「わ、私は王都司令本部より遣わされた特使だ! 頼む、スミス将軍に面会させてくれ! 王都が……我々の誇る王都が今、最大の危機に瀕しているのだ!」
その必死の、血を吐くような叫びを聞いたレオンは、少しだけ眉をひそめ、そして振り返ってサトーを見た。
「……将軍。王都からの使者のようです。おそらく、先ほどこの全裸の男が自白した『水源の毒』の件について、王宮の諜報網にも何らかの兆候が引っかかり、慌てて将軍の助けを乞いに来たのでしょう。王都の連中は、いつも後手後手ですね」
(いや、俺に関わらないでくれ! 王都の危機とか知らん! 俺はただの雑用係だ! 使者なんて追い返してくれ、俺はもうベッドに入って寝たいんだよ!)
サトーが心の中で猛烈に首を横に振っていると、レオンはそれを『我が要塞への立ち入りと、面会を許可する』という、強者の寛大な意志表示として受け取った。
レオンが、百名の部下たちに向けて凛々しく号令をかける。
「通せ! 将軍の御前である、粗相のないようにしろ!」
ギィィィ……ガゴンッ!
重々しい鋼鉄の扉のカンヌキが外され、分厚い扉がゆっくりと開け放たれた。
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数分後。
すっかり冷え切った、暗黒の密閉酒場のフロア。
王都から決死の覚悟でやってきた青ざめた特使の男は、目の前に広がるこの世の地獄のような光景を見て、足元から崩れ落ちそうになり、ガクガクと膝を震わせていた。
太陽の光を完全に遮断し、天井が鋼鉄で塞がれた絶望的な闇の空間。
壁という壁を埋め尽くす物騒な拷問器具(※ドン・ガンが持ち込んだ鍛冶道具)と武器。
血走った目をして、今にも自分に襲いかかってきそうな百名の狂信的な兵士たち。
足元には、なぜか一糸まとわぬ全裸で、全身にモップで叩かれたミミズ腫れを作りながら土下座して震えている、伝説の暗殺ギルドのマスター。
そしてその中心で、異様な悪臭と、息が詰まるほどの禍々しい威圧感を放ちながら、微動だにせず鎮座する、三十キロの錆びた全身甲冑の男――特務大将スミス。
特使の男は、あまりの恐怖とプレッシャーでガタガタと激しく歯を鳴らしながら、かろうじて直立の姿勢を保ち、ひっくり返りそうな震える声で告げた。
「す、スミス将軍……! お、お噂はかねがね……! 我々王都司令本部は、貴方様のこれまでの圧倒的な武勲と、王国への忠誠に、心より感謝しております……! しかし、今、王都に……王都に、建国以来最大の危機が迫っているのです!」
「……ほう」
レオンが、将軍の代弁者として、腕を組んで特使の前に一歩出た。
「先ほど、我が将軍の『神技の尋問』により、魔王軍の王都水源毒殺計画についてはすでに完全に把握している。むしろ、貴様ら王都の連中が気づくのが遅すぎたくらいだ。その件についての救援要請か?」
「い、いや! 水源の毒殺だけではありません! それは単なる陽動作戦に過ぎなかったのです!」
特使の男は、頭を狂ったようにブンブンと横に振った。
「魔王軍の最高司令部が、我が国の王都そのものを完全に包囲し、数万の軍勢で総攻撃を開始したのです! しかも、敵の先陣を切って城壁を破壊しているのは、かつて勇者によって封印されたはずの伝説の魔将たち……! 四天王クラスのバケモノが、三体も同時に出現したのです!」
「なんだと……!?」
レオンとバルタが、驚愕と怒りに満ちた声を上げた。
「王都の防衛結界はすでに限界に達し、第一王女であられるセレスティア様が、自ら近衛騎士団を率いて最前線へと出陣しておられますが、敵の数は圧倒的……! このままでは、王都は今日の日を越えずに、完全に陥落してしまいます!」
(王都が陥落……? 第一王女のセレスティアが、自ら出陣……?)
その名前を聞いた瞬間、サトーの脳裏に、あの『般若』の恐るべき形相と、「こんなゴミ、路地裏に捨ててきなさい!」というヒステリックな絶叫が、昨日のことのように鮮烈に蘇ってきた。
(セレスティア王女がピンチ……? ……あの、俺をスラムのゴミ捨て場に不法投棄した、あの性格が最悪で恐ろしい般若王女が……? え、それって……もしかして、だけど……)
サトーの心臓が、恐怖ではなく、極めて打算的で、ブラック企業で培った利己的な別の意味で、ドクンと激しく跳ねた。
(もしあの般若王女が魔王軍に討ち取られて、王都が滅びたら……。俺が「体力3のゴミ」であるという身分を証明できる人間も、俺を不法投棄した過去の事実を知る人間も、すべてこの世からいなくなるんじゃないか……? つまり、俺の過去の不法投棄の黒歴史が完全に闇に葬り去られ、俺はこの要塞で永遠に「伝説の英雄スミス」として、誰にもバレずに平和に暮らせる……?)
サトーの口元が、兜の中で思わずニヤリと歪みかけた。
だが、次の瞬間、社畜の現実的な思考がそれに待ったをかけた。
(いや、待てよ。王都が陥落したら、次は間違いなくこのスラムに魔王軍がなだれ込んでくる。そうなったら、百億の懸賞金がかかってる俺は、伝説の魔将三体に袋叩きにされて、一番残酷な方法で殺されるじゃないか! ダメだ、王都には絶対に持ち堪えてもらわないと俺が死ぬ!)
サトーが究極のジレンマと混乱の最中にあると、特使の男は泣きそうな顔で、泥だらけの床に膝を突き、サトーの足元にすがりついた。
「スミス将軍! お願いです! 貴方様のその、魔将をも一撃で屠る神のごとき力をお貸しください! 王都を救うため、今すぐこの精鋭部隊を率いて、王都の最前線へ出陣していただけませんか! 王女殿下も、血だらけになりながら、貴方様のお名前を呼び、必死に戦線で耐えておられるのです!『スミス将軍はまだか!』と!」
(呼ばないで! 俺の名前を呼ばないで! 絶対に俺が「あの時のゴミ」だって気づいてないだけで、顔バレしたら確実に殺されるんだから!)
特使の言葉を聞き、レオンとバルタは、一斉にサトーの方向を振り返った。
彼らの目は、「我が君主よ! 今こそ我々の真の力を世界に示す時! 王都を救うための出陣の号令を!」という、熱烈で狂気じみた期待に満ち溢れている。
(王都に行く!? あの般若王女が剣を振り回してる血みどろの戦場に行く!? 冗談じゃない、絶対に冗談じゃないぞ! 四天王が三体もいる戦場なんて、体力3の俺が行ったら、一秒で肉片になって消滅するわ! あんな恐ろしい女の顔を二度も見たら、今度こそショックで心臓が止まる! 出陣なんて絶対にしたくない!)
サトーは兜の中で、必死に、千切れるほどの勢いで頭をぶんぶんと横に振って「行かない、絶対に行かない、無理、死ぬ」という無言の意思表示を激しく繰り返した。
カシャン、カシャン、カシャン! と、兜が悲鳴のような音を立てる。
しかし。
その狂気的なまでの激しい拒絶(首振り)は、狂信者たちの目にはどう映ったか。
「……なるほど」
レオンが、すべてを悟り、世界の真理に到達したかのような、深い深い頷きを見せた。
「将軍は、すでに王都の危機など、遥か前から見抜いておられたのだ。しかし、ただの救援要請で、尻尾を振って簡単に王都へ赴くなどしない。……なぜなら、我が国の腐敗した上層部や、平和に甘え切った愚かな貴族どもに、自らの足で『真の危機感』を骨の髄まで教え込む必要があるからだ!」
「そうだぜ!」
バルタがニヤリと凶悪で不敵な笑みを浮かべ、巨大な戦斧を床の大理石に叩きつけて砕いた。
「大将は、『俺たちが最前線で命懸けで守ってやってるからって、王都の連中が調子に乗りやがって。一度自分たちの無力さを思い知って、痛い目を見せてやらねえとわからねえってのにな』って呆れて首を振ってやがるんだ! ……おい、特使! 持ち帰れ! これが将軍の、甘え切った王都に対する絶対的なお言葉だ!」
「ひ、ひえぇぇっ!? そ、そんなご無体な! 今すぐ来ていただけなければ、王女殿下のお命が!」
特使の男が青ざめて、この世の終わりのような顔をして泣き叫ぶ。
(いやいやいやいや! そんな偉そうなこと、一言も言ってないからね!? ただ「怖いから行きたくない」って首を振ってただけだからね!? なんで輪をかけて、俺が王都の上層部を教育するみたいな、超上から目線の傲慢な態度になってるんだよ!)
サトーの心臓は、もはや限界を超え、不規則な四拍子のリズムを刻み始めていた。
王都が魔王軍の総攻撃を受けて、風前の灯火となっている。
部下たちは勝手に「王都の連中を教育し、絶望のどん底から救い出すための、完璧なタイミングでの遅参」だと曲解し、出陣の準備を勝手に、そして着々と進めようとしている。
そして、その地獄の戦場の先には、かつて自分をゴミのように捨てた、あのトラウマの般若王女が待ち構えているのだ。
―――つづく。




