第16話:地竜と激マズ汁
アーゼンベルフ王国の最下層、スラム街のど真ん中に鎮座する酒場『踊る豚亭』は、もはや酒場という生易しい呼称を完全に拒絶する、神話の時代の魔王城のごとき恐るべき威容と異様な熱気を放っていた。
地上では、顔に無数の傷を持つ狂戦士バルタを筆頭に、血走った目をした百名のならず者たち(特務大将直轄・独立遊撃部隊)が、アリ一匹、いや微生物の侵入すら許さぬほどのすさまじい殺気をもって、何重にも張り巡らされた鋼鉄のバリケードを死守している。
「将軍の要塞に近づく者は、たとえ国王の使いであろうと容赦なく叩き斬れ!」という彼らの狂気じみた号令により、スラムの住人たちすら震え上がって遠くへ避難し、周辺は完全なゴーストタウンと化していた。
空は、先日サトーが換気口をこじ開けたことで引き起こされた『極大魔力砲・鏡面反射事件』を重く見たレオンの指示により、分厚い鉄板と幾重もの溶接魔法によって完璧に、一ミリの隙間もなく塞ぎ切られていた。
太陽の光すら一筋も入らない、真の完全密閉空間である。
そして極めつけに、地下である。
かつては酒や食材を保管していたカビ臭い地下貯蔵庫のさらに奥深くには、サトーの不運な事故(プロテインの大暴発)によって完璧に餌付けされ、精神を屈服させられてしまった神話の化け物――『古代地竜』が、絶対に外敵を下から通さない最強の番犬として、巨大なとぐろを巻いて鎮座しているのだ。
もはや、物理的な手段でこの要塞から脱出することは、人間はおろか神にすら不可能な、完全なる『絶対監獄』が完成してしまっていたのである。
「グルルルル……(すりすり)」
地下貯蔵庫に続く階段の下から、家ほどの大きさがある古代地竜の巨大な頭がひょっこりと顔を出し、サトーの錆びついた鉄靴に甘えるように、ゴツゴツとした鼻先を擦り付けてくる。
神話の災厄であり、かつては王都を火の海に変えると言われたその巨大な生き物は、今やすっかりサトーを「自分を圧倒的な暴力(悪臭)で服従させた絶対的な群れのボス」として認識し、巨大な黒曜石の尻尾を犬のようにブンブンと振って、完全に懐ききってしまっていた。
(怖い怖い怖い怖い! お前、甘えてるつもりなんだろうけど、鼻息だけで俺の甲冑がドロドロに溶けそうなくらい熱いんだよ! お願いだからあっちに行っててくれ! 頼むから俺を一人にしてくれ!)
サトーは兜の中で、恐怖のあまり心臓が破裂しそうなほどの激しい動悸に襲われながら、表面上は微動だにせず(※硬直して動けないだけ)、心の中で滝のような冷や汗を流し続けていた。
彼の神経は、荒いヤスリで二十四時間削られ続けているかのように摩耗し、もはや自分が狂っているのか、世界が狂っているのかすら判断できない領域に達しつつある。
物理的な逃げ道は、天にも地にも完全に塞がれてしまった。
魔王軍から百億の暗黒金貨という天文学的な懸賞金がかけられた自分の首を狙って、今この瞬間も世界中から恐るべき暗殺者が波のように押し寄せているというのに、自分は一歩も外に逃げることができない。
このままでは、暗殺者の刃にかかるよりも先に、極度のストレスと酸欠で確実に発狂して死んでしまう。前職のブラック企業で、一ヶ月間家に帰れず、オフィスの机の下で寝泊まりしていたあの地獄のデスマーチですら、今の状況に比べればハワイ旅行のようなものだった。
(物理がダメなら……そうだ、魔法だ! 魔法の力で、この空間から直接外の世界へ転移できれば、外のバリケードも、空の鉄板も、地下のドラゴンも一切関係なく逃げ出せるじゃないか!)
サトーは、酸素の薄い密閉空間の中で明滅する視界の中、極限の精神状態から一筋の光明を見出した。
そして、薄暗い酒場のフロアの隅のテーブルへと視線を向けた。
そこには、昼間から一人で安酒の入ったジョッキを煽りながら、ボロボロと大粒の涙を流している一人の若い女性の姿があった。
彼女の名前はルーシー。
かつては王国軍の魔術部隊に所属していたものの、味方を巻き込むほどの魔法のコントロールの悪さ(誤爆癖)からパーティーを追放され、今はこの酒場でグラスの水をワインに変えるような宴会芸を見せて日銭を稼いでいる、左遷された落ちこぼれ魔術師である。
(彼女なら、空間を飛び越える『転移魔法』が使えるかもしれない! 失敗ばかりの落ちこぼれだとしても、今の俺には彼女の魔法の不確実性にすがるしかないんだ!)
サトーは、意を決して立ち上がった。
三十キロの錆びついた全身甲冑を、カシャン、ガシャンと重々しく鳴らしながら、泣き上戸のルーシーが座るテーブルへと、一歩一歩近づいていく。
「うぇぇぇん……! なんでよぉ……! 私はただ、ファイアボールで敵を的確に倒したかっただけなのに、なんで味方の前衛の髪の毛まで全部チリチリに燃やしちゃうのよぉ……! 私の魔力制御が絶望的に下手くそだからって、あんなゴミを見るような目で追放しなくてもいいじゃない……! 私は一生、このドブみたいな酒場で腐っていくのよぉ……!」
ジョッキの安ワインを一気に飲み干し、テーブルに突っ伏して大声で号泣しているルーシー。
サトーはその対面の席に、ドスンと重々しい音を立てて腰を下ろした。
「……ひっ!?」
ルーシーが弾かれたように顔を上げ、目の前に座る錆びついた鉄仮面の男を見た瞬間、短い悲鳴を上げて身体をビクッと硬直させた。
この酒場にいる誰もが知っている。
この異臭を放つ鉄の塊が、魔将を単騎で討ち取り、敵の巨大兵站基地を一瞬で消し飛ばし、神話のドラゴンすら無傷で服従させたという、アーゼンベルフ王国最強のバケモノ『無双大将スミス』であることを。
落ちこぼれで誰からも見放された魔術師である自分など、この男が指を一本動かすだけで、塵すら残さず消し飛ばされるに違いない。
「しょ、将軍……っ! も、申し訳ありません、私のような底辺魔術師が、酔っ払って大声を出してしまって……! 将軍の神聖な瞑想のお邪魔をしてしまいましたよね!? 今すぐ、今すぐ外のドブ川に飛び込んで消えますから、どうか命だけは……!」
ルーシーが極限の恐怖で顔を青ざめさせ、椅子から転げ落ちるようにして逃げ出そうとした、その時。
カシャン、と。
サトーは、ルーシーの目の前のテーブルの上に、一本の古びたワインボトルを静かに置いた。
「えっ……? これは……」
ルーシーが目を丸くして、そのホコリを被ったボトルを見る。
それは、サトーが地下貯蔵庫の奥、古代地竜の巣の近くの瓦礫の中で転がっているのを見つけた、何百年も前の超高級なヴィンテージワインであった。
ラベルの文字は古代語で書かれており読むことはできないが、ボトルの装飾と、中から微かに漏れ出る芳醇な魔力の気配だけでも、素人目にすら国宝級の価値がある名酒であることは明らかだった。
サトーは兜の細い十字スリット越しに、ルーシーを真っ直ぐに見つめ、震える声(※分厚い兜を通すことで、低く重厚な威圧感のある声に自動変換される)で、静かに語りかけた。
「……これを、君にやる。その代わり、俺の頼みを聞いてくれないか」
「た、頼み……? スミス将軍ほどの偉大で無敵なお方が、私のような、誰からも見捨てられた落ちこぼれに……?」
(偉大じゃない! 全然偉大じゃないんだよ! お願いだから、俺をこの地獄から遠くへ飛ばしてくれ! 息がしたいんだよォォ!)
サトーは心の中で必死に血の涙を流して懇願しながら、相手を刺激しないように言葉を慎重に選び、ゆっくりと告げた。
「君の魔法で……俺を、ここから遠く離れた場所へ、飛ばしてほしい。誰も俺を知らない、安全な場所へ。……『転移魔法』を、使えないか」
その言葉を聞いた瞬間、ルーシーの瞳が大きく揺れ動いた。
「空間転移……。魔力の放出量だけなら人一倍あるので、使えます。使えますけど、でも!」
ルーシーは焦ったように両手を激しく振って否定した。
「私の魔法は、座標のコントロールがめちゃくちゃなんです! 王都の外へ転移しようとしても、雪山の山頂なのか、底なしの湖の真ん中なのか、それとも狂暴な魔物の巣窟のど真ん中なのか、どこに飛ぶか全く保証できません! むしろ、安全な場所に飛んだ試しが一度もないんです! スミス将軍ほどの御方を、そんな危険極まりない不確定魔法で飛ばすなんて、恐れ多くて絶対にできません!」
(どこでもいい! 少なくとも、毎日毎日最強の殺し屋に命を狙われ、ドラゴンに怯え、息苦しい密室で部下に崇められ続けるこの狂った要塞よりは、魔物の巣窟の方が百倍マシだ! 頼むから俺を定時退社させてくれェェ!)
サトーの心臓が、急激な焦りと懇願で激しく脈打つ。
サトーはテーブルの上に身を大きく乗り出し、三十キロの甲冑の恐るべき威圧感をもって、ルーシーの顔の真ん前まで錆びた兜を近づけた。
「……構わない。どこに飛ぶかは問題ではない。俺は、君の魔法を信じている。……頼む、俺をここから出してくれ。君にしか、頼めないんだ」
その、低く、重く、しかし確かな熱を帯びた声。
ルーシーの心の中で、これまで頑なに閉ざされていた何かが、激しく弾ける音がした。
これまで、誰一人として自分の魔法を信じてくれる者はいなかった。
仲間からは「危険だ」「才能がない」「役立たずのゴミ」と罵られ、見捨てられ、このスラムの底辺酒場で毎日自暴自棄になって腐っていた自分。
そんな何の価値もない自分に対して、王国最強の英雄であり、すべてを手に入れたはずのこの男は、自身の命を預けると言ってくれているのだ。
「君の魔法を信じている」と、真っ直ぐに自分を見て、あまつさえ国宝級のワインまで差し出してくれているのだ。
(ああ……なんというお方なの。私のようなどうしようもないゴミに、こんなにも真っ直ぐな言葉をかけて、私の魔法の価値を認めてくださるなんて……!)
ルーシーの目から、今度は悲しみや自己憐憫ではなく、純粋な感動の熱い涙がボロボロと溢れ出した。
「わかりました……! スミス将軍! このルーシー、命を懸けて、私の全魔力と魂を絞り尽くして、将軍をご希望の場所へと、必ずや転移させてみせます!」
ルーシーは勢いよく立ち上がり、手にした木製の杖を構えて、サトーの足元に向けて複雑な空間座標の魔法陣を猛烈な勢いで描き始めた。
淡い青色の光が、薄暗い酒場の床に神々しく浮かび上がる。
(やった……! ついにこの監獄から脱出できる! さようなら、特務大将という名の呪い! さようなら、百億の懸賞金! 俺はただの村人Aとして、名前を変えて、田舎で平穏にスローライフを送るんだ!)
サトーは兜の中で、歓喜の涙を流しながら、転移の光に完全に包まれるのを今か今かと待ち構えていた。
◆ ◆ ◆
その全く同じ時刻。
踊る豚亭から数キロ離れた、王都の地下水路の最も暗く深い奥底。
『……フン。黒き牙も、幻影蜘蛛も、所詮は物理法則と三次元の空間に縛られた、滑稽な三流の殺し屋に過ぎん。奴らが全滅したのは必然よ』
汚水が流れる暗闇の中で、不気味な紫色のローブに身を包んだ、痩せこけた初老の男が、嘲るような冷笑を漏らした。
彼の名はヴェイン。
大陸の裏社会において、物理的な暗殺ではなく、高位魔法を用いた『魔法暗殺』の頂点に君臨する魔術ギルド【銀の月蝕】のグランドマスター(最高指導者)である。
ヴェインの周囲には、十数名の黒装束を着た高位魔術師たちが、床に巨大で複雑極まりない七芒星の魔法陣を展開し、莫大な魔力を練り上げている最中だった。
地下水路の空気が、彼らの放つ魔力の重圧によってビリビリと震えている。
『愚かな奴らは、わざわざ標的のいる要塞に外から物理的に近づこうとするから、狂犬のような護衛どもに返り討ちに遭うのだ。……我々【銀の月蝕】の暗殺は、壁も、距離も、次元そのものをも超躍する』
ヴェインは、自身の手に握られた、先端にまばゆい紫色の宝玉が埋め込まれた『空間転移の魔杖』を不敵に掲げた。
『スミス将軍が、どれほど強固な鋼鉄の要塞に引きこもろうとも。空を塞ぎ、地にドラゴンを這わせようとも。空間の座標そのものを書き換えてしまえば、すべての物理防壁は無意味となる。今から我々は、十数名の高位魔術師の魔力を束ねた超高精度の空間転移魔法により、標的であるスミスの背後わずか数十センチの空間へと、私自身を直接転移させる! そして、奴が気づいて振り返る間もなく、我が杖から防御不能の即死魔法を脳天に叩き込む!』
『グランドマスター! 空間座標の固定、完了しました! 標的のいる酒場の一階フロア、魔力の反応が最も強い一点に、完璧に照準を合わせました!』
部下の一人が、額に汗を浮かべながら叫ぶ。
『よきかな。……歴史上、いかなる英雄も我が空間転移の刃から逃れた者はいない。無敗の軍神も、今日この瞬間にただの骸と化す。百億の懸賞金、このヴェインが悠々と頂くぞ! 空間転移、発動ッ!!!』
ヴェインの絶叫とともに、王都の地下水路にまばゆい紫色の閃光が弾けた。
空間がガラスのように歪み、次元の扉が開く。
ヴェインの肉体は光の粒子へと変換され、三キロ離れた『踊る豚亭』の内部へと、音速や光速すらをも超える次元跳躍の速度で転送されていった。
完璧な暗殺。完璧な奇襲。
これ以上ないほど研ぎ澄まされた魔法の力。
ヴェインは、次元のトンネルを滑るように通り抜けながら、自らの絶対的な勝利を完全に確信し、すでに懸賞金の使い道にまで思考を巡らせていた。
だが、彼は一つだけ、決定的な、そしてあまりにも不運な計算違いをしていた。
彼が王都の地下水路から転移を発動しようとした、まさにそのコンマ数秒のタイミング。
転移先の座標である踊る豚亭のフロアにおいて、ルーシーという一人のポンコツ魔術師が、サトーを外へ飛ばすための『転移魔法』を、己の魂を燃やし尽くすほどの全力で発動させていたという事実を。
◆ ◆ ◆
「いっけぇぇぇぇぇっ! 私の全魔力よぉぉぉぉぉっ!! 将軍を、お導きくださぁぁぁい!!」
酒場のフロアで、ルーシーが杖を天に高く突き上げ、魂の絶叫とともに転移魔法を起動した。
サトーの足元に描かれた青い魔法陣が、太陽のように強烈な光を放ち、周囲の空間をグニャリと歪め始める。
(よし! 来るぞ! 転移だ! さようなら要塞! さようならスミス将軍!)
サトーが目を固く閉じ、転移の衝撃に備えて全身の筋肉を硬直させた、まさにその瞬間だった。
バチィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!!!
サトーを包み込もうとしていた青い転移の光の中に、突如として、外部から無理やりねじ込まれたような紫色の強烈な雷光が混ざり込み、空間そのものが物理的にひび割れる凄まじい轟音が響き渡った。
「きゃあああああっ!?」
魔法の暴走による衝撃波で、ルーシーが悲鳴を上げて後ろのテーブルへと吹き飛ばされる。
「な、なんだ!? 何が起きた!? 失敗か!?」
サトーが慌てて目を開けると、自分の目の前の空間が、まるで底なしのブラックホールのように渦を巻き、赤と青と紫の激しい火花を散らしているのが見えた。
外へ向かってサトーを押し出そうとする、ルーシーの『空間放出の魔法』と。
外から内へ向かって侵入しようとしていた、ヴェインの『空間侵入の魔法』。
この二つの極めて強力なベクトルを持つ空間魔法が、サトーの目の前という全く同じ座標で、一ミリの狂いもなく全く同じタイミングで正面衝突を起こしたのである。
その結果、二つの魔法は複雑に絡み合い、お互いの力を反発させ合い、空間の断層を引き裂く凄まじい『次元の乱気流』をフロアの中央に発生させてしまったのだ。
『な、なんだこれはァァァァァァッ!? 空間の座標が、乱れている!?』
次元のトンネルの中で、完璧な転移を行っていたはずの暗殺者ヴェインは、突如として発生した空間の竜巻に巻き込まれ、出口を見失って絶叫を上げた。
外へ押し出そうとするルーシーの荒々しい魔力と、中へ入ろうとするヴェインの緻密な魔力。
二つの相反する力が、超高速のミキサーのように渦を巻き、ヴェインの肉体ではなく、彼が身につけていた『魔法の装束』や『魔導具』にのみ、強烈な次元摩擦エネルギーとして作用し始めた。
『バ、バカな! 私が身につけている国宝級の「虚無の魔力障壁ローブ」が、空間の摩擦で削り取られていく!? あり得ない! 伝説の「無効化の指輪」が熱を帯びて溶けるゥゥゥ! 代々受け継いできた空間転移の杖が、粉々に粉砕されたァァァァ!』
次元の乱気流の中で、ヴェインが身につけていた、総額数十億ゴールドにも及ぶ伝説級の魔法装備の数々が、まるで巨大な大根おろしにかけられるように、シュルシュルと完全に削り取られ、空間の彼方へと塵となって消滅していく。
そして。
数秒間の次元の揉み合いの末。
すべての装備を削り取られ、物理的な防御力も、魔力的な抵抗力も、ついでに衣服という概念すらも完全にゼロになった状態のヴェインが。
スポォォォォォォォンッ!!!
という、巨大なワインのコルクを勢いよく抜くような、あまりにも間抜けな音とともに、酒場のフロアに生じた空間の亀裂から、ポンッと勢いよく吐き出されたのである。
「えっ……?」
サトーの目の前。わずか一メートルの距離。
そこには、頭の先から足の先まで、文字通り『一糸まとわぬ完全な全裸』となった、骨と皮ばかりの痩せこけた初老の男が、ドサァッ!と無様に大理石の床に叩きつけられていた。
「い、痛てててて……! 空間の出口が、いったいどうなって……私のローブはどこへ……」
全裸のヴェインが、フラフラと顔を上げる。
そして、彼の手のひらほどの距離にある目に飛び込んできたのは。
三十キロの錆びついた重厚な全身甲冑に身を包み、腕を組み、微動だにせず、ただ静かに、そして圧倒的なプレッシャーを放ちながら自分を見下ろしている、威風堂々たるスミス将軍の恐るべき姿であった。
『ヒッ……!?!?』
ヴェインの心臓が、恐怖で完全に硬直した。
呼吸が止まり、眼球が飛び出さんばかりに見開かれる。
自分が完璧な隠密状態から発動したはずの、絶対防御不能の空間転移暗殺。
それを、この男はあらかじめ完全に読み切っていたのだ。
読み切っていただけでなく、自らも空間魔法を展開し、自分の転移座標を『強制的に上書き』し、次元の乱気流を意図的に発生させて、自分のすべての魔法装備だけをピンポイントで削り取った上で、この足元へと『全裸で引きずり出した』のだ。
いかなる大魔導士であろうと、これほど神がかった空間支配など不可能である。
相手を殺すのではなく、相手のすべてを剥奪し、誇りを打ち砕くための、最も残酷で完璧なカウンター魔法。
『ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ! バケモノだ! あんた、物理法則どころか、空間の理すら支配している悪魔かァァァ!』
全裸の初老の男が、床に這いつくばり、涙と鼻水を撒き散らしながら、サトーのサビだらけの鉄靴にすがりついて、無様な命乞いを始めた。
『降参します! 完全に降伏します! 【銀の月蝕】は今日をもって解散します! だから、命だけは! 命だけはお助けをォォォ! 裸でスラムに放り出すのだけは勘弁してくださいィィ!』
(ええええええええええええっ!?)
サトーは兜の中で、完全にパニックを引き起こし、白目を剥いていた。
転移して平和な村に逃げられるはずだったのに。なぜか目の前の空間が爆発したかと思えば、空からいきなり全裸の爺さんが降ってきて、泣きながら足にすがりついてきているのだ。
前職の満員電車で遭遇した露出狂の変質者よりも、遥かに意味不明で恐ろしい状況である。
その時。
厨房の扉を蹴り破って、レオンとバルタ、そして百名のならず者たちが、凄まじい殺気をみなぎらせてフロアへと雪崩れ込んできた。
「将軍ゥゥゥッ! 凄まじい魔力の衝突と空間の歪みを感じましたが、何事ですかァァァ! 敵襲ですか!」
そして、彼らの目に飛び込んできた光景。
青い魔法陣の残滓の中心で、微動だにせず(※硬直しているだけ)静かに佇むスミス将軍。
その足元で、完全に全裸の状態で土下座し、涙を流して命乞いをしている初老の男。
「こ、こいつは……!」
レオンが、全裸の男の顔を見て驚愕に目を見開いた。
「間違いない! 大陸最強の魔法暗殺ギルド【銀の月蝕】のグランドマスター、ヴェインだ! かつて数千の軍勢を魔法一つで壊滅させた男だぞ! なぜこいつが、全裸で将軍の足元に転がっているのだ!?」
「見ろ、レオン!」
バルタが、床に残る複雑な空間魔法の残滓と、倒れているルーシーを指差した。
「大将は……敵が『空間転移』を使って、この鋼鉄の要塞の壁をすり抜けて暗殺に来ることを、完全に先読みしてやがったんだ! だからこそ、あえてこの落ちこぼれのルーシーに転移魔法を使わせ、敵の転移座標と正面衝突させて『次元の罠』を張ったんだ!」
「なんと……!」
レオンが、全身の毛を逆立て、狂気に満ちた歓喜と畏怖の絶叫を上げた。
「ただ敵の転移を防ぐだけではない! 将軍は、敵の最高指導者をあえて自分の足元へと『強制召喚』し、さらに次元の摩擦を利用して、敵のすべての武器と防具、魔導具を削り取り、全裸という『魔術師にとって最も無力で屈辱的な状態』に陥れた上で、一切手を下さずに心を完全にへし折ったのだ!!」
「す、すげえ……! 物理だけじゃなく、空間魔法の真髄すら極めてやがるのかよ、大将は!」
バルタが、自慢の戦斧を取り落とし、全裸の暗殺者を見下ろすサトーに向かって、深く深く平伏した。
「殺さずに、敵の魂の根幹から絶対的な恐怖を植え付け、完全降伏を引き出す……。これぞ、王者の戦い方! 俺たちは、とんでもない軍神を主君にしてしまったぜ……!」
「「「おおおおおおおおおおっ!! スミス将軍バンザイ!!」」」
百名のならず者たちが、全裸の暗殺者を足元にひれ伏させるサトーの次元を超越した神業に、狂ったような感嘆の雄叫びを上げた。
(違う! 違うってば! 俺はただ遠くに逃げたかっただけだよ! ルーシーの魔法が暴発しただけで、なんでこんな全裸の爺さんが降ってきたのか、俺が一番教えてほしいんだよォォ!)
サトーは兜の中で、全身の神経を焼き切られそうな混乱と恐怖でガタガタと激しく痙攣していた。
しかし、その小刻みな震えは、またしても彼らの目には「空間支配の魔法を完遂し、静かに魔力の余韻を散らしている大魔導士のオーラ」として完全に自動翻訳されていた。
そして、床に倒れていたルーシーが、フラフラと立ち上がり、サトーを見つめてボロボロと感動の涙を流し始めた。
「ああ……スミス将軍……! 貴方様は、私のこの欠陥だらけの座標が狂う転移魔法を、あえて『敵を絡め取るための完璧な触媒』として利用してくださったのですね……!」
ルーシーが、サトーの前に進み出て、深く深く膝を突いた。
「私の魔法は、決して無駄なポンコツではなかった。将軍のような偉大なお方が導いてくだされば、大陸最強の暗殺者をも無力化する神の魔法へと昇華される! ありがとうございます……私に、魔術師としての自信と生きる意味を与えてくださって……! このルーシー、一生将軍の奴隷として、命の限り魔法を捧げることを誓います!」
「おおお! ルーシー殿! 貴女もついに、将軍の底知れぬ深謀遠慮に気づかれたか!」
レオンが熱い涙を流しながら、ルーシーの肩を力強く抱きしめた。
「皆の者! これで証明されたぞ! スミス将軍の知覚能力は、物理の壁も空間の壁も完全に超越している! もはや、いかなる暗殺者であろうと、将軍の御前に立つことすら不可能だ!!」
「「「スミス将軍バンザイ! 空間支配の神、バンザイ!!」」」
酒場の密閉空間に響き渡る、狂信者たちの熱狂的な大合唱。
そして、全裸の暗殺者ヴェインまでもが、「偉大なる空間の覇王よ……!」と泣きながらサトーの鉄靴にすり寄ってきている。
「やめてええええええええええええええっ!!!」
サトーは兜の奥底で、完全に魂の形が崩壊し、細かい砂となって異次元の彼方へ消え去る音を聞いた。
逃げたかっただけなのに。
魔法の力を使って、誰も知らない田舎の村へ飛んで、平和なスローライフを送りたかっただけなのに。
その切実な命がけの行動が引き起こした奇跡的な『空間衝突トラップ』によって、またしても敵の最高戦力を手付かずで壊滅させてしまい、自分の『空間支配の大魔導士』という、もはや人間をやめているレベルの新たな伝説が追加されてしまったのだ。
これでもう、魔法を使って逃げることすら絶対に不可能となった。
次にサトーが「転移魔法を使ってくれ」と頼んでも、部下たちは「ははぁ! 次はどの敵対国家の王を全裸で召喚するおつもりですか!」と目を輝かせるだけだろう。
もはや、サトー自身が外に出ることは、物理的にも、魔法的にも、完全に不可能な『真の絶対監獄』。
それが、サトーの今後の生活環境として、寸分の狂いもなく確定してしまったのである。
―――つづく。




