第13話:夜逃げと給水塔
アーゼンベルフ王国の最下層、スラム街の一角に、異様な威容を誇る巨大な建造物が現出していた。
かつては、古びた木材と剥げかけたペンキの看板が目印の、うらぶれた庶民的な酒場であったはずの場所。
しかし現在の『踊る豚亭』は、その面影を完全に消し去り、さながら最前線の軍事要塞、あるいは絶対に脱獄不可能な監獄のような姿へと変貌を遂げていた。
建物の周囲には、分厚い鋼鉄の板が何重にも張り巡らされた巨大なバリケードが構築され、その表面には凶悪な返しがついた無数の鉄の棘が、まるでハリネズミのように外側へ向けて突き出している。
屋根の上には、急造とは思えないほど堅牢な木と鉄の櫓が四方に建てられ、そこからは鋭い眼光を放つ百名の『独立遊撃部隊』のならず者たちが、昼夜を問わず、血走った目で周囲をギョロギョロと監視し続けていた。
「おい! そこの路地裏で立ち止まったゴロツキ! 貴様、魔王軍の密偵だな! スミス将軍の御命を狙うネズミめ、俺の毒矢の的になりやがれェェ!」
「ヒャハハハ! 動くものは全部敵だ! バリケードの前に近づく奴は、片っ端から足を切り落として豚の餌にしてやれェ!」
「将軍の安眠を妨げる奴は、この俺が許さねえ! 虫一匹、風の一吹きすら通すなァ!」
酒場の周囲百メートルは完全に封鎖され、武装した狂信者たちが殺気立ってパトロールを行っている。
スラムの住人たちは、あまりの恐ろしさに誰一人として近づこうとせず、周辺は完全に無人のゴーストタウンと化していた。
そして、その難攻不落の要塞の内部。
厳重に鍵をかけられ、窓という窓すべてに分厚い木の板が打ち付けられた、薄暗く息苦しい厨房の片隅で。
(帰りたい……。いや、ここは俺のアパートなんだけど……違う意味で帰りたい。どこか、誰も俺を知らない平和な世界に帰りたい……)
サトーは三十キロの錆びついた全身甲冑を着込んだまま、部屋の隅で膝を抱えて、心の中で声にならない絶望の悲鳴を上げ続けていた。
百億の懸賞金がかけられたあの日から。
レオンとバルタの狂信的な号令により、踊る豚亭の要塞化はわずか一晩で完了してしまった。
サトーは「安全のため」という大義名分のもと、一歩たりとも酒場の外へ出ることを禁じられ、完全にこの息苦しい密閉空間の中に軟禁状態となってしまったのである。
心臓は常に早鐘を打ち、神経はヤスリで削られ続けるように摩耗し、視界の端はずっとチカチカと点滅している。
外から聞こえてくる部下たちの物騒な怒号を聞くたびに、サトーの寿命は確実に縮まっていた。
「ちょっと、あんたたち! 外でギャーギャー騒いでる暇があるなら、薪割りを手伝いなさいな! ウチは兵舎じゃないのよ、酒場なの! 営業妨害なんだから、せめて労働力として貢献しなさい!」
ドスドスと地響きを立てながら、シルヴィママが厨房から身を乗り出して外のならず者たちに怒鳴りつけた。
すると。
「おおっ! 将軍の御滞在を許可してくださっている女将殿の頼みとあらば! おい野郎ども、斧を持て! マキを割るんだ! 将軍の厨房の火を絶やすなァァ!」
狂戦士バルタが、魔将を真っ二つにできそうな巨大な両刃の戦斧を軽々と振り回し、恐るべき速度で薪を粉微塵(※細かすぎて使い物にならない)に割り始めた。
「私は床を磨きましょう! 将軍の歩まれる道に、チリ一つ残してはならない! ポチ殿、皿洗いの速度なら負けませんぞ!」
「フッ……我がスポンジの軌跡は、神の眼でも捉えられぬ……。勝負だ、エリート騎士よ……」
レオンが目を血走らせながら床を雑巾がけし、元・伝説の暗殺者であるポチと謎の労働バトルを繰り広げている。
シルヴィママは「タダ働きしてくれるなら好都合ね」とばかりに、彼らを完全に無料の従業員として酷使し始めていた。この極限状態にあっても、彼女の逞しさはスラム随一である。
(ママさん……彼らを煽らないで……。俺、もう生きた心地がしないよぉ……)
サトーが部屋の隅でガタガタと震えながら縮こまっていると、シルヴィママがドスンと、巨大な鉄の寸胴鍋をサトーの目の前に置いた。
「ほらサトー、震えてないで仕事よ。この『特製・深海クラーケンの触手と腐敗ハーブの超濃縮プロテイン煮込み』を、火にかけてかき混ぜ続けなさい。底が焦げたら、ペナルティで腕立て伏せ一万回だからね」
「は、はいぃぃ……」
サトーは泣きそうになりながら立ち上がり、自分よりも大きな寸胴鍋の前に立った。
鍋の中では、紫色のドロドロとした液状の何かが、マグマのようにボコボコと不気味な泡を立てている。
煮え立つたびに、強烈なアンモニア臭と、腐った魚の匂いが混ざり合った、目に染みるほどの有毒ガスのような悪臭が立ち昇ってきた。
(くさい……熱い……目が痛い……。兜の隙間から臭いが入ってきて、本当に息が詰まる……)
サトーは三十キロの甲冑をカシャンカシャンと鳴らしながら、巨大な木べらを持って、全身の体重をかけながらその劇薬を必死にかき混ぜ始めた。
◆ ◆ ◆
その頃。
踊る豚亭の屋根の真上、遥か上空の分厚い雨雲の中に、音もなく浮遊している三つの影があった。
『……見ろ。あれが標的の潜む隠れ家か。なんという異様で、狂気に満ちた防衛陣だ』
黒いローブに身を包み、顔を不気味な蜘蛛の仮面で隠した男が、眼下の要塞酒場を見下ろして低く呟いた。
彼らは、大陸の裏社会において【黒き牙】と双璧をなすと言われる、幻術と潜入に特化した伝説の暗殺ギルド【幻影蜘蛛】の精鋭三人衆であった。
百億の懸賞金に釣られ、彼らもまた、サトーの首を狙って王都へと飛来してきたのである。
『リーダー。地上の警備は異常です。百名の兵士が、完全に殺気立って隙一つ見せません。あれでは、いかなる潜入の達人でも、地上から近づくことは不可能です』
『フッ……愚かな人間どもめ。平面の防衛にばかり気を取られ、空の守りが完全に疎かになっている。……我々【幻影蜘蛛】の、国宝級の魔導具の力を見せてやろう』
リーダーの男が、懐から透明な輝きを放つ宝玉を取り出した。
『幻影のヴェール』。
対象の姿を完全に透明化し、さらに魔力や体温、匂いといったあらゆる気配を周囲の空間に同化させる、伝説のステルスアイテムである。
『この宝玉の力を使えば、我々の姿は誰にも認識できなくなる。さらに、屋根の櫓にいる見張りの視界を幻術で歪め、屋根を突き破って直接内部へと侵入する!』
『素晴らしい。標的は、自らあの密室に引きこもってくれたおかげで、逃げ場のない袋のネズミというわけですね』
『行くぞ。特務大将スミス……貴様の百億の首、音もなく刈り取ってくれる!』
三人の暗殺者は、宝玉の力によってその姿を完全に透明な空気へと変え、上空から一気に踊る豚亭の屋根めがけて降下を開始した。
櫓で見張りをしているならず者たちは、彼らの接近に全く気づいていない。
音もなく屋根に降り立った三人は、特殊な腐食薬を使って、分厚い屋根板と天井の木材を、円形にスライムのように溶かし切った。
誰にも気づかれることなく、彼らは天井から、目標のいる厨房へと向かって、音もなく静かに降下していったのである。
◆ ◆ ◆
「ハァ……ハァ……重い……。プロテインが重すぎる……」
厨房では、サトーが限界をとうに超えた体力で、巨大な寸胴鍋の木べらを必死に動かし続けていた。
紫色のプロテインは完全に沸騰し、マグマのようにボコボコと跳ねている。強烈な悪臭と熱気で、サトーの意識は半分朦朧としていた。
(もうダメだ……腕が千切れる。ちょっとだけ、ちょっとだけ鍋を火から下ろして休もう……)
サトーは木べらを置き、熱された巨大な寸胴鍋の取っ手を、分厚い鉄の腕当て越しに両手でガシッと掴んだ。
そして、「ふんぬおおおおおっ!」と情けない掛け声を上げながら、自分よりも重いかもしれないその鍋を、火のついたコンロから床へと持ち上げて下ろそうとした。
しかし、足元には、先ほどまで猛烈なスピードで皿洗いをしていたポチがこぼした、大量の洗剤と水が混ざった滑りやすい水たまりが広がっていたのだ。
ツルンッ!
「あわっ!?」
サトーの右足の鉄靴が、見事にその水たまりに乗り上げ、摩擦を完全に失って激しく滑った。
バランスを崩したサトーの身体は、三十キロの甲冑の重量と、抱え上げていた巨大な寸胴鍋の重さに引っ張られ、そのまま後ろへ向かって大きく仰け反るように倒れ込んでしまった。
「うわああああああああっ!!」
サトーが悲鳴を上げながら床に背中から激突するのと同時に。
彼が両手で持ち上げていた、沸騰し、煮えたぎる『超濃縮深海クラーケン・プロテイン(約五十リットル)』が、凄まじい勢いで宙を舞った。
――それは、まさに。
天井の穴から、完全に姿を消した状態で、サトーの背後へと音もなく着地しようとしていた、【幻影蜘蛛】の三人の暗殺者たちに向かって。
放物線を描いて、寸分違わず完璧な軌道で、頭上から降り注いだのである。
『なっ!?』
『ぎゃあああああああああああああっ!?』
突如として、何もない空中の三箇所から、断末魔のような絶叫が響き渡った。
ドパァァァァァァァァッ!!
沸騰した紫色の毒々しい液体が、透明だったはずの暗殺者たちの全身に、頭の先からつま先まで、容赦なく浴びせかけられた。
熱い。ただでさえ沸騰した熱湯である。
しかし、それ以上に恐ろしいのは、その『匂い』であった。
深海クラーケンの触手と腐敗ハーブを極限まで煮詰めた、生物の嗅覚神経を直接破壊するほどの、信じられない悪臭の暴力。
『アガッ……!? な、なんだこの液体は!? 熱い……いや、くさ、臭すぎるゥゥゥ!』
『目が……! 目が溶けるゥゥ! 息が、息ができないィィ!』
『幻影のヴェールが……腐食して、壊れ……ガハッ!』
プロテインの強烈な成分が、暗殺者たちの持っていた国宝級のステルス魔導具を瞬時にショートさせ、破壊した。
彼らの透明化が解け、紫色のドロドロの液体にまみれて床でのたうち回る、三人の無様な姿が厨房に出現した。
「い、痛えええええええっ!! 腰打った! 痛いィィ!」
サトーは床にひっくり返ったまま、自分の背中の痛みで涙を流しながらガタガタと震えていた。
鍋をひっくり返してしまった。絶対にシルヴィママに殺される、スクワット一万回の刑だ、と、別の恐怖で完全にパニックになっている。
そのすさまじい絶叫と、鍋が床に激突する轟音を聞きつけ、厨房の扉が外から蹴り破られた。
「将軍! 何事ですか!!」
「大将! 敵か!?」
レオンとバルタが、武器を抜いて弾かれたように飛び込んでくる。
彼らの目に飛び込んできたのは。
床に仰向けに倒れ、微動だにせず(※腰を打って動けないだけ)、静かに闘気を収めているスミス将軍。
そして、その周囲で、紫色の異臭を放つ謎の液体を全身に浴びて、顔を抑えながら白目を剥いて泡を吹き、完全に痙攣して気絶している、見知らぬ三人の暗殺者の姿だった。
「こ、こいつらは……!」
レオンが、鼻を突く悪臭に顔をしかめながら、倒れている暗殺者たちの衣服の紋章を確認した。
「間違いない……大陸の闇に潜む伝説の暗殺ギルド、【幻影蜘蛛】の精鋭だ! 奴らは透明化の魔導具を使い、天井から侵入してきたのか!」
「なんだと!? あの空から、姿を消して……!?」
バルタが驚愕に目を見開き、そして、床にひっくり返っている空の寸胴鍋と、サトーの姿を交互に見比べた。
「おい、レオン。ってことは……大将は、完全に気配を消して天井から迫ってくる暗殺者どもを、あえてこの狭い厨房にまで引き込み……」
「そうだ!」
レオンが、感極まったように声を大にして叫んだ。
「将軍は、敵が姿を消していることを見抜き、剣を振るう隙すら与えないために、あえて『周囲に広がる熱湯』を空中に放り投げ、不可視の敵を炙り出したのだ! 圧倒的な範囲攻撃による、不可視の敵の完全無力化!」
「す、すげえ……! しかも、この鼻が曲がりそうな強烈な液体の悪臭……。敵の嗅覚と視覚を同時に奪い、さらに魔導具まで破壊する、将軍特製の『対暗殺者用バイオ兵器』だったってわけか!」
バルタが、サトーのあまりにも規格外な心理戦と環境利用戦術に、恐怖すら入り混じった尊敬の眼差しを向けた。
「剣を抜くことすらなく、ただ鍋をひっくり返すだけで、伝説の暗殺者三人衆を瞬殺する……。これが、我らが特務大将、スミス将軍の真の実力……!」
「「「おおおおおおおおおおっ!! スミス将軍バンザイ!!」」」
物音を聞きつけて集まってきた百名のならず者たちが、紫色のゲロのような液体にまみれて倒れる暗殺者たちを見て、サトーの神がかった撃退劇に狂熱の歓声を上げた。
(違う! 違うってば! ポチの水たまりで滑って鍋を落としただけだよ! 奇襲なんて一ミリも気づいてなかったし、むしろ俺がママさんに怒られるのが一番怖いんだよォォ!)
サトーは兜の中で、恐怖と絶望でガタガタと歯を鳴らしながら、必死に心の中で否定し続けた。
しかし、彼のその小刻みな震えは、またしても「すべての策を完遂し、静かに余韻に浸っている達人の姿」として彼らの脳内で自動変換されていた。
「将軍……! 貴方様のその底知れぬ軍略、しかと拝見いたしました!」
レオンが、サトーの傍らに膝を突き、真剣な、あまりにも真剣すぎる表情で言った。
「我々の地上警備は完璧でしたが、空からの、しかも透明化を伴う潜入を許してしまったのは、完全に我々の失態です! 将軍に再び、このような日用品を使った危険な迎撃をさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます!」
(えっ? レオン、お前また何を思いついたんだ……?)
サトーの心臓が、ヒュッと冷たく縮み上がる。
レオンは立ち上がり、部下たちに向かって鋭く命令を下した。
「皆の者! 天井からの侵入ルートが発覚した以上、この要塞はまだ未完成だ! 直ちに王都から大量の鋼鉄板と、対魔力結界の魔導石を買い占めろ! この酒場の屋根と天井を、すべて分厚い鋼鉄で完全に塞ぎ、二度と空からの侵入を許さない『完全密閉型の鉄壁要塞』へと改築するのだ!!」
「おうよォォォッ!! 大将の頭上には、太陽の光すら通さねえぞ!!」
バルタとならず者たちが、熱狂的な咆哮とともに夜のスラムへと駆け出していく。
「やめてええええええええええええええっ!!!」
サトーは兜の奥底で、完全に精神の糸が断ち切られる音を聞いた。
ただでさえ息苦しくて、一歩も外に出られない軟禁状態だったのに。
自分のドジが引き起こした奇跡的な暗殺者撃退によって、部下たちの防衛意識はさらに暴走してしまった。
屋根も天井もすべて鋼鉄で塞がれた、太陽の光さえ一切入らない、真の完全密閉の監獄。
それが、サトーの今後の生活環境として決定してしまったのである。
(もうダメだ……俺は一生、この臭い鎧を着たまま、日の光を浴びることなく、暗黒の箱の中で暮らすんだ……。助けて……誰か助けて……)
最強の英雄としての名声が高まれば高まるほど、彼の生活は極限の不自由へと突き進んでいく。
―――つづく。




