第11話:般若と白金勲章
王都の煌びやかな大通りで行われた、身の毛もよだつような凱旋パレード。
そして、サトーの最大のトラウマである般若王女、セレスティアとの息の詰まる謁見。
その恐るべき精神的拷問からようやく解放されたサトーは、百名のならず者部隊(現在は特務大将直轄・独立遊撃部隊)を引き連れたまま、王都の最下層である薄暗いスラム街へと戻ってきていた。
「将軍。王家が手配した一等地の豪華な屋敷を躊躇なく辞退し、あえてこのようなスラムの片隅を我々の『特務大将直轄・秘密司令本部』に指定されるとは……。貴方様のその深謀遠慮、このレオン、ただただ感服するばかりです」
スラムの入り口の路地裏で、レオンが感動に打ち震えながら、ピシッと美しい敬礼を決めた。
彼の背後では、巨大な戦斧を肩に担いだ狂戦士バルタをはじめとする百名のならず者たちが、周囲の物陰から様子を窺うスラムのゴロツキどもを、圧倒的な殺気と鋭い眼光で威圧しながら整列している。
「王城に近い目立つ屋敷など、魔王軍の密偵からすれば格好の標的。しかし、この混沌とした無法のスラムに紛れ込めば、敵の目を完全に欺くことができる。さらに、王都で最も虐げられている貧しき民草の命を、我々が直接お守りすることができる……! なんという慈愛に満ちた完璧な布陣!」
「ヒャハハ! さすがは大将だぜ。ドブの臭いがするスラムの安酒場を軍の最高司令部にするなんて、最高にクレイジーでイカれてやがる! 敵の裏の裏をかく、最高の隠れ家だ!」
(違う。ただ俺がここしか安心できる場所を知らないだけだ。頼むからこれ以上、俺の切実な行動を勝手に美化してハードルを上げないでくれ……)
サトーは兜の中で、極度の緊張と疲労で今にも止まりそうになっている心臓を必死に動かしながら、重い足取りで一軒の古びた建物の前へと進み出た。
塗装の剥げた看板に『楽しげに踊る二本足の豚』が描かれた、サトーの唯一の心のオアシス。
酒場『踊る豚亭』である。
ギィィィ……と、長年の油が染み付いた分厚い木扉を押し開けて中に入る。
三十キロの甲冑が、カシャン、ガシャンと重々しい音を立てた。
「あら、いらっしゃい……って、何よその汚い鉄クズは。ウチは廃品回収業者は呼んでないわよぉ?」
カウンターの奥から、ピンク色のフリルエプロンを着た身長二メートル超えの筋肉オカマエルフ、シルヴィママが、怪訝な顔で顔を覗かせた。
その後ろからは、特大の酒樽を片手で軽々と持ち上げている怪力少女のミアが、「お客さん? わぁ、すごい重そうなお洋服だね!」と無邪気に目を輝かせている。
相変わらず、店内には昼間からエールの匂いだけで泥酔して恋愛相談を繰り広げるドワーフのドン・ガンや、音速で皿を洗う厨二病の暗殺者ポチ、そして安い酒を煽って管を巻く左遷魔術師のルーシーの姿があった。
その一切変わらない、カオスでありながらも確かな温かさを持った日常の光景を見た瞬間。
サトーの網膜の裏から、ブワッと熱い涙が止めどなく溢れ出した。
(帰ってきた……。俺の、俺の本当の居場所に帰ってきたんだ……!)
「あ、あの……ママさん、俺です。サトーです……」
サトーが兜の細い十字スリット越しに、くぐもった震える声で名乗る。
すると、シルヴィママは丸太のように太い腕を組み、信じられないものを見るように切れ長の目を細めた。
「はぁ? サトー? ……あんた、何日も無断欠勤した挙句、そんなカビとサビとドブの臭いが混ざったみたいな汚い鉄クズを着込んで、今まで一体何をしてたのよ。あんたがいないせいで厨房の裏仕事が回らなくて、大変だったんだからね!」
「貴様ッ! スミス将軍に対して何たる無礼な口の利き方か!」
サトーの背後から、レオンが剣の柄に手をかけて猛烈な勢いで店内に踏み込んできた。
殺気に満ちた百名のならず者たちも、武器を構えて酒場を包囲しようとする。
「このお方は、魔将ザルバを討ち、魔王軍の巨大基地を単騎で壊滅させたアーゼンベルフ王国の救世主! 先刻、王城にて特務大将に任命されたスミス将軍であるぞ! ただのスラムの酒場の店主が、気安く声をかけて良いお方では――」
「レオン! 待て! やめろォォォ!」
サトーは慌てて右手を上げ、レオンの言葉を必死の叫びで遮った。
ここでシルヴィママを怒らせれば、自分の居場所が完全に消滅してしまう。特務大将だろうが何だろうが、この酒場でのヒエラルキーの頂点はシルヴィママなのだ。
サトーは三十キロの甲冑を激しく軋ませながら、シルヴィママの前に歩み寄ると、そのまま床に両膝を突き、深々と頭を下げた。
前職のブラック企業で培った、完璧なフォームの土下座である。
「無断欠勤、本当に申し訳ありませんでした……! でも、俺はどうしてもここで働きたいんです! 床掃除でも、皿洗いでも、ゴミ出しでもなんでもします! だから、どうかまた俺をここの雑用係として雇ってください!」
その信じられない姿を見たレオンとバルタ、そして外にいる百名のならず者たちは、一斉に息を呑み、雷に打たれたように完全に硬直した。
王国の最高戦力たる特務大将が。
魔将を打ち倒した無敗の軍神が。
一介のスラムの酒場の店主に対して、自ら膝を折って教えを乞うているのだ。
それは彼らの目には、権力や名誉への一切の執着を持たない、聖人のような『究極の謙虚さ』として映っていた。
「将軍……! 貴方様はどこまで気高く、孤高なのだ……!」
レオンが背後で音を立てて号泣し始める。
バルタも「俺たちはなんてちっぽけな存在なんだ……」と戦斧を取り落とし、涙を拭っていた。
シルヴィママは、土下座する悪臭を放つ鉄の塊と、外で泣き崩れている物騒な兵士たちを交互に見比べた後、呆れたように長いため息を吐いた。
「……特務大将だか何だか知らないけどね。ウチの店で働くなら、特別扱いは一切しないわよ。将軍だろうが国王だろうが、床を汚したらモップがけ千回の刑だし、まかないは残さず全部食べてもらうわ」
「はい! ありがとうございます!」
サトーは兜の中で、歓喜の涙を流した。
「ほら、さっそく仕事よ。裏の倉庫からじゃがいもを三袋持ってきて、全部綺麗に皮を剥いてちょうだい。……あ、あんたその臭い兜、脱げないんでしょ? まかないはストローで飲める『特製・超濃縮液状プロテインスープ』にしてあげるから、覚悟しなさいな」
「うわああああん! ママさぁぁぁん!」
泥水と苦い薬草を混ぜたようなあの激マズのプロテインスープを「ご褒美」だと感じてしまうほど、サトーの味覚と精神は完全にスラムの酒場仕様に調教されていた。
サトーはカシャンカシャンと喜びの足音を立てながら、いそいそと厨房の奥へと入っていく。
それを見たバルタが、レオンの肩を叩いてニヤリと笑った。
「見ろよ、レオン。大将のあの嬉しそうな背中。最強の力を持ちながら、あえて最下層の泥にまみれて己を鍛え続ける……。俺たちも、少しはあの謙虚さを見習わねえとな」
「ああ。我々遊撃部隊は、この酒場の周辺を完全に封鎖し、将軍の『極秘の修行』を邪魔するネズミを一匹残らず排除するぞ! 大将の平穏は我らが死守する!」
こうして、特務大将スミスによる『酒場の雑用係(という名の完全なるサボり)』と、狂信者たちによる『スラムの完全要塞化』が同時に開始されたのであった。
◆ ◆ ◆
その日の深夜。
客が引いて静まり返った踊る豚亭の厨房の片隅で、サトーは丸椅子に腰掛け、山積みにされたじゃがいもの皮を、小さな果物ナイフで必死に剥いていた。
(重い……。肩が外れそうだ。腕の甲冑の関節がサビで固まってて、ナイフを動かすだけで信じられないくらい体力を消耗する……)
本来であれば、甲冑を脱いで軽装でやるべき作業だ。
しかし、首元の留め具が完全に癒着してしまっているため、サトーは三十キロの鉄の塊を着込んだまま、ミリ単位で指先を動かしてじゃがいもの皮を剥くという、極めて難易度の高い(そして無駄な)重労働を強いられていた。
コツッ、カシャン。
コツッ、カシャン。
静かな厨房に、甲冑が軋む微かな金属音と、じゃがいもの皮がボウルに落ちる音だけが響いている。
しかし、そのサトーの孤独な作業風景を。
天井の太い梁の上から、闇に溶け込むような冷酷な眼差しで見下ろしている影があった。
魔王軍直属の暗殺部隊、影の刃。
その中でも最強の暗殺者と謳われる魔族『ゲル』である。
ゲルは、周囲の空間に完全に溶け込む光学迷彩のスキルと、一切の足音を消す隠密スキルを極めた達人だった。
彼はその能力を駆使して、外で厳重な警戒態勢を敷いているレオンたちの警備網をいとも容易くすり抜け、この酒場の厨房の天井裏にまで侵入を果たしていたのである。
(ククク……愚かな人間どもめ。まさかこんなスラムの薄汚い酒場に、魔王軍を震撼させた特務大将が隠れ住んでいるとはな。だが、それも今日で終わりだ。貴様の首は、このゲルが頂戴する)
ゲルは天井の闇の中から、猛毒を塗った漆黒の短剣を逆手に構え、標的であるサトーの動きをじっくりと観察した。
(それにしても、不可解な男だ。なぜあんな重々しく、視界も極端に悪そうな錆びた全身甲冑を着込んだまま、夜更けに小さなナイフで野菜の皮など剥いているのだ?)
ゲルの暗殺者としての鋭すぎる分析力が、サトーの不器用な動きに『別の意味』を見出し始めた。
(……いや、待て。あの動き、ただの皮剥きではない! 重さ数十キロの鉄の鎧で自らの動きに極限の負荷をかけながらも、あの小さなナイフの刃先は、じゃがいもの実を1ミリも傷つけることなく、薄皮だけを紙のように均等に剥ぎ取っている!)
それは、サトーが持ち前の貧乏性ゆえに「実の部分まで厚く切ったらママさんに食材の無駄遣いだと怒られる」とビビり散らし、震える手で必死に薄く剥こうとしているだけの結果だった。
しかし、暗殺者ゲルの目には、それが『神業のごとき刃物コントロールの修行』にしか見えなかった。
(なんという恐るべき男だ。日常生活のすべてを、己の刃を研ぎ澄ますための極限の修行に当てているというのか。少しでも油断すれば、逆に私の首が落ちることになる……! だが、貴様のその狂気じみた修行も、私の『音速の凶刃』の前には無力!)
ゲルは呼吸を完全に止め、自身の気配と殺気をゼロの状態へと抑え込んだ。
そして、天井の梁から、床に座るサトーの首の隙間(兜と胴当ての間のわずかな関節部分)めがけて、一切の音を立てずに真っ逆さまに落下した。
まさに、必殺の奇襲。
どれほどの達人であろうと、完全な死角である真上からのこの一撃を避けることは不可能なはずだった。
――しかし。
ゲルが落下を開始した、そのコンマ数秒前のことである。
(あーあ、疲れた……。ちょっとだけ背筋を伸ばそう。腰が痛くてたまらない……)
長時間の不自然な姿勢でのじゃがいも剥きにより、体力値3のサトーの貧弱な腰の筋肉は、すでに完全に限界を迎えていた。
サトーは「うぐぐ……」と声にならない呻きを上げながら、凝り固まった背中を伸ばそうと、丸椅子に座ったまま、上半身を大きく後ろへ反らした。
その瞬間。
ヒュッ!!
サトーの兜が数センチ前にあったはずの空間を、暗殺者ゲルの漆黒の短剣が、音もなく空振って通り過ぎていった。
(な、なにっ!? 私の完璧な奇襲が、完全に読まれて回避されただと!?)
空中で驚愕に目を見開くゲル。
彼の一撃は、サトーが偶然背伸びをしたことによって、ミリ単位で虚空を斬り裂く結果となってしまったのだ。
だが、奇跡はそれだけで終わらなかった。
「うおわっ!?」
大きく背中を反らせたサトーだったが、上半身に集中している三十キロの甲冑の重量と、床に落ちていた『自分が剥いたじゃがいもの濡れた皮』が組み合わさったことで、丸椅子の上で完全にバランスを崩してしまった。
ツルッ! とサトーの右足が滑る。
そして、サトーの身体は、丸椅子から後ろに向かって、完全に逆さまになるように派手に転倒してしまったのだ。
「ひぎゃあああっ!」
サトーの情けない悲鳴とともに、彼が被っていた重さ十数キロにも及ぶ『鉄の塊(兜)』が、遠心力と重力加速度を味方につけて、凄まじい勢いで後ろへ向かって弧を描いて振り下ろされた。
一方、空中で奇襲を空振ってしまい、そのままサトーの背中側へと落下してきていた暗殺者ゲル。
彼の顔面のド真ん中に向かって。
サトーの錆びついた鉄の兜が、まるでプロレスラーの渾身のバックドロップ・ヘッドバットのような完璧な軌道で、直撃した。
ゴッッッガァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!
人間の頭蓋骨が砕けるような、いや、硬い岩盤を巨大な鉄槌で粉砕したような、凄まじい激突音が深夜の厨房に鳴り響いた。
「グベェッ!?」
魔王軍最強の暗殺者であるゲルは、自らの奇襲の落下速度と、サトーの兜の落下速度が完全に正面衝突したことで、そのエネルギーのすべてを顎と顔面に受けてしまった。
一切の防御魔法を展開する暇もなく、ゲルの意識は一瞬にして完全にブラックアウトし、白目を剥いて厨房の床にドサリと崩れ落ちた。
「い、痛ええええええええっ!! なんだ!? 今度は何にぶつかったんだよ! もう嫌だ、身体中が痛いィィ!」
サトーは床にひっくり返ったまま、兜の中でパニックになりながらガタガタと手足をバタつかせた。
その凄まじい激突音を聞きつけ、厨房の扉がバンッ!と蹴り破られた。
「将軍! いかがなされましたか!」
「大将! 敵襲か!?」
血相を変えたレオンとバルタが、武器を構えて飛び込んでくる。
彼らの目に飛び込んできたのは。
床に仰向けにひっくり返り、いかにも『死闘を終えてリラックスしている』かのような姿勢で横たわるスミス将軍。
そして、そのすぐ傍らで、顔面を完全に陥没させて泡を吹き、完全にピクピクと痙攣して気絶している、漆黒の装束を着た魔族の姿だった。
「こ、こいつは……!」
レオンが、倒れている魔族の顔を見て驚愕に目を見開いた。
「魔王軍直属の暗殺部隊、影の刃……その筆頭である『ゲル』ではないか! 我々の警備網をすり抜けて、なぜこんなスラムの奥深くに……!」
「おいおい、嘘だろ……」
バルタが信じられないものを見るように、ブルブルと震えながらサトーを見た。
「大将は……俺たちが全く気配に気づけなかった魔王軍最強の暗殺者を、剣を抜くことすらなく、じゃがいもの皮を剥きながら『兜の後頭部での一撃』だけで返り討ちにしたってのか……!?」
「なんという恐るべき反射神経……! いや、違う!」
レオンがまたしても飛躍した超解釈を爆発させる。
「将軍は、あえて無防備にじゃがいもの皮を剥くことで、この最強の暗殺者を誘い込んだのだ! そして、敵が最大の殺意を込めて落下してくるその瞬間を狙い、相手の落下エネルギーをそのまま利用して、自らの兜で迎撃する……『究極の後の先』! 一歩間違えれば自らの首が飛ぶ、狂気のカウンター戦術だ!」
「「「おおおおおおおおっ!!」」」
物音を聞きつけて集まってきたならず者たちが、サトーの規格外すぎる戦法に、またしても熱狂的な歓声を上げた。
(違う! 違うってば! 椅子から滑って転んだだけだよ! 奇襲なんて一ミリも気づいてなかったし、むしろ俺が一番ビックリしてるんだよォォ!)
サトーが心の中で滝のような涙を流して否定している間にも、レオンは気絶している暗殺者ゲルの懐を探り、一枚の黒い羊皮紙を取り出した。
「将軍! この暗殺者が持っていた『指令書』を発見いたしました!」
レオンがその羊皮紙を広げ、内容を読み上げる。
その瞬間、レオンの顔色がスッと険しいものへと変わった。
「これは……将軍、事態は我々が想像していた以上に深刻です」
「……?」
床に転がったままのサトーが、カシャンと首を傾げる。
「魔王軍の最高司令部が、スミス将軍の首に対して、正式に懸賞金をかけました。その額、なんと……『暗黒金貨百億枚』! 魔王軍の歴史上、最大の賞金額です!」
(…………は?)
サトーの心臓が、ヒュッと冷たく縮み上がった。
脳の血管が急激に収縮し、視界の端がチカチカと点滅し始める。
百億。
その絶望的な数字の響きが、サトーの矮小な精神を容赦なく破壊していく。
「魔王軍だけではありません! この懸賞金は、大陸中の裏社会、賞金稼ぎ、さらには他国の暗殺ギルドにもすでに通達されていると書かれています! つまり、今この瞬間から、世界中のありとあらゆる殺し屋たちが、将軍の命を狙ってこの王都に押し寄せてくるということです!」
バルタが、戦斧をギリッと力強く握りしめた。
「上等じゃねえか。世界中が俺たちの敵に回るってことだな。大将の首を狙うハエどもは、俺たち遊撃部隊が全員残らずミンチにしてやるぜ!」
「その通りだ! スミス将軍、ご安心ください! 我々百名が肉の壁となり、将軍の睡眠時間とじゃがいも剥きの時間は、何があっても死守いたします!」
狂信者たちが、絶望的な状況であるにもかかわらず、全く怯むことなく熱狂の雄叫びを上げている。
しかし、その中心で床に転がっているサトーの意識は、すでに現実世界から完全にシャットダウンされていた。
(百億……世界中の殺し屋……もうダメだ……俺の命、明日までもたない……定時退社どころか、定時退世しちゃう……)
世界で最も命を狙われる男となってしまった最弱の社畜・佐藤一郎。
彼の極限のストレスはついに限界点を超え、兜の中で目を大きく見開いたまま、プツリと意識の糸を切って、静かに、そして完全に気絶するのであった。
―――つづく。




