第七章 狂乱
路地の角を曲がった瞬間、空が割れた。
レムは立ち止まった。
大競技場の外壁が、壁一面の画面になっていた。映像が走る。選手が走る。そしてその画面の上空百メートルに——炎の竜がいた。旋回している。鱗の一枚一枚が別の色で光り、羽ばたくたびに熱波が路地まで届く。
「……ドラゴンだ」
画面の中では選手が走っていた。足元の地面が割れ、溶岩が噴き出す。上空からドラゴンが降りてくる。選手は跳んだ。三メートル。四メートル。人間の跳躍ではない。拳がドラゴンの胴体に叩き込まれる。鱗が砕ける。ドラゴンが咆哮して、また空へ戻っていく。
「……あれ、本物じゃねえ」
ゼンが目を細めた。
「擬幻だ。誰かの原振をコアに注いで、共鳴尖塔から拡散している。触れれば消える。でも熱は本物に感じる」
「あの選手も?」
「体内の原振で跳躍力を底上げしている。訓練した奴は五倍出る」
外壁の画面の端に、観客席が映り込んでいた。七万人が同じ方向を向いている。腕輪が一斉に光る。全員、同じ色。同じ強さ。同じタイミング。
レムはその光を見た。綺麗だ、と思った。次の瞬間、おかしい、と思った。
七万人が、同じ瞬間に、同じ感情を持っている。
「……みんな、今、同じ気持ちなの?」
ゼンは少し黙ってから、競技場の上にそびえる共鳴尖塔を顎で示した。頂点が橙色に光っている。
「あの塔のコアに、誰かが原振を注いでいる。熱狂の振動を。尖塔から拡散して、腕輪を通じて全員の脳に届く。同じタイミングで」
「受け取っているだけだ」
画面の中でドラゴンが降りてくる。選手が跳ぶ。鱗が砕ける。七万人が同時に叫んだ。その声が、壁を越えて路地まで届いた。
レムは自分の腕輪を見た。光っていた。外にいるのに。
無意識に、外套の内側へ手が動いた。手帳の角が、掌に当たる。
観客席が、揺れていた。
最初は普通の熱狂だった。一人が立つ。隣の肩を押す。笑っている。隣が押し返す。笑っている。ただそれだけだった。
また一人。腕を掴む。振り払う。
増える。一人、また一人。揉み合いが増える。誰も止めない。周りが見ている。見ているだけで、止めない。
歓声が変わった。高くなる。長くなる。途切れない。
どこかで誰かが笑い続けている。
腕輪の光が、橙から赤へ、滲んでいく。
共鳴尖塔の頂点が、同じ色に変わっていた。
その瞬間、画面が歪んだ。
映像が途切れる。
何かが、割り込む。
次の瞬間、観客が同時に頭を押さえた。
声が変わる。歓声じゃない。何かが混じる。痛みとも怒りともつかない、形のない叫びだった。
立ち上がる。目が揃っている。同じ方向を見ている。
ゲートが割れた。
人が溢れ出してくる。走る。ぶつかる。掴む。引き倒す。整然と、一定のリズムで。瞳に光がない。
広場にいた人々が逃げ惑う。悲鳴が上がる。
逃げた先で、足が止まる。頭を押さえる。崩れる。
また一人。また一人。
街へ、広がっていく。
「走れ」
ゼンがレムの腕を掴んだ。
路地を駆ける。人の波が後ろから押し寄せてくる。足音が揃っている。声がない。それが余計に怖かった。
曲がり角を抜けた先で、少女が壁に背を押し当てていた。
腕を抱えて、動けない。暴徒の群れが三方から迫っていた。
ゼンが舌打ちした。
「おい、そこ」
少女が振り向く。
「走れるか」
答えを待たなかった。ゼンが群れの前に割り込む。一瞬の隙ができる。
「今だ」
少女が走り出した。レムが並ぶ。
三人で路地を抜けた。
足音が、揃った。
すぐに崩れた。
息を切らして角を曲がった瞬間、レムは少女の腕輪を見た。
光っていなかった。
群れの腕輪が赤く揃って光る中、この子の腕輪だけが、静かに消えていた。
「……大丈夫?」
少女は答えなかった。ただ、頷いた。
呼吸が、少しだけ遅れていた。
その時。背後から足音が増えた。
「まだいる」ゼンが言った。「走れ」
三人は走った。
その夜、丘の上に一人の男がいた。
競技場の方角を見ていた。暴走した塔の光が、街を赤く染めていた。
男は動かなかった。ただ、見ていた。
「……面白い」
呟いた。感情のない声だった。




