第六章 旅路
ジイが扉を背中で塞いだ日から、どれだけ経ったのかわからない。
レムはただ歩いていた。
手帳は外套の内側にある。触れるたびに、まだ温かい気がした。気のせいだとわかっていても、手を離せなかった。紙の温度が、指先から腕へ、胸へと伝わってくる。冷たいはずなのに。もう何度目かの気のせいだとわかっていても。
「……また読んでんのか」
隣を歩くゼンが、前を見たまま言った。
「うるさい」
「読みすぎて穴開くぞ」
レムは何も言わなかった。ゼンも続けなかった。
二人の足音だけが、石畳に響いた。
夜、宿の片隅でレムは手帳を開いた。
最初のページから読み返す。
レンの荒い字。
レムは少し笑った。
最初はぎこちなかった。それがだんだん変わっていく。
もう少し前のページに戻る。
レンの字ではない、整然とした字が並ぶページがある。
レムはしばらくそのページを見ていた。
言い訳もしない。ありがとうも言わない。ただ、受け取ったという返事だけ。不器用すぎて、でも確かに伝わっていた。
二人とも不器用だった。不器用なくせに、ちゃんと伝わっていた。それがわかるのが、こんなにも苦しかった。
手帳を閉じた。
胸の奥が、少し痛かった。
大国に近づくにつれ、街の規模が変わっていった。
煙突が増え、共鳴尖塔が増える。
人が多い。なのに、騒がしくない。
腕輪が光っていた。一秒ごとに。全員、同じリズムで。
男が荷を落とす。拾う。何も言わない。
路地の隅で、老婆が箒を動かしていた。もう十分きれいな石畳を、同じ場所で、同じ速さで。
止まらない。
子供が転ぶ。泣かない。立ち上がる。また歩き出す。
レムは足を止めた。
「……なんか、変だ」
「変だな」
ゼンはそれだけ言って、また歩き出した。
レムはしばらく、そのまま見ていた。胸の奥が、少しだけ遅れていた。
それから、歩いた。
その夜、野宿した廃小屋でゼンが焚き火を起こした。
レムは手帳を読んでいた。ゼンは黙って火の番をしていた。しばらくそのままだった。
「……ゼンって、なんでついてきたの」
「暇だったから」
「嘘だ」
ゼンは少し黙った。火が爆ぜた。
「居場所がなくなったから」
レムは手帳から顔を上げた。
「俺の根城、あそこだったから。ジイの工房の裏。あそこがなくなったら、俺には行く場所がない」
「だから私についてきたの」
「お前についてきたんじゃなくて、行く場所がなかっただけだ」
レムは少し笑った。
「同じじゃん」
「違う」
「どう違うの」
ゼンは答えなかった。火を突いた。火の粉が散った。
「……レン、好きだったよ」
ぼそりと言った。
「あいつと話すの、嫌いじゃなかった。くだらないことばっかりだったけど」
レムは何も言わなかった。
「だからまあ」とゼンは続けた。「お前の行く先くらい、見届けてやるよ」
それだけだった。
翌朝、二人はまた歩き出した。
ゼンは相変わらず前を見たまま歩いた。レムも相変わらず手帳を抱えて歩いた。
何も変わっていないように見えて、少しだけ変わっていた。
競技場の明かりが見えてきた頃、レムは外套の内側に手を当てた。
手帳の角が、掌に当たる。
(……レン。私、ちゃんと行けてるよ)
答えはなかった。
でも、歩けた。




