第五章:輪舞
夜明けの光がカルナの煙突を赤く染めた瞬間、レンは目を開けた。
「……アイ。準備はいいか」
『すべて整っています。街中に植えた種は全部スタンバイしています』
「やれ。大掃除の始まりだ」
直後、カルナの街が、息を吸った。
一瞬だけ、全てが止まった。
それから。
放置されていた蒸気自動車が、一斉にエンジンを咆哮させた。無人だ。誰も乗っていない。それでも動く。正確に。迷いなく。鎧兵器の足元へ、最短経路で猛進する。
クレーンが動いた。建設途中の足場に据えられた三台が、同時に腕を振った。一台目が鎧兵器の背後を塞ぐ。二台目が逃げ道を潰す。三台目が鎧の肩口を掴み、そのまま地面に叩きつけた。金属が悲鳴を上げる。
給水塔が傾いた。計算された角度で。水が霧状に広がり、視界を白く染める。昆虫型ドローンの複眼センサーが乱れる。偵察型が方向を見失い、壁に激突する。
ガス管が割れた。爆発ではない。ガスだけが路地に充満する。鎧兵器の熱源センサーが誤作動を起こす。
路地の奥、古い鐘楼の鐘が鳴った。誰も引いていない。でも鳴っている。正確なリズムで。その振動が石畳を伝い、鎧兵器の関節部に共鳴して、動きを鈍らせる。
全部が、同時に起きていた。全部が、繋がっていた。
一つの意志が、街全体を動かしていた。
ゼンが走っていた。背後で、足音が増えていく。
誰も乗っていない蒸気自動車が走っている。クレーンが腕を振っている。鐘楼が鳴っている。
「……すっげえ」
思わず声が出た。
鎧兵器が蒸気自動車に弾き飛ばされ、石畳に叩きつけられる。立ち上がろうとしたところへ、クレーンのアームが肩口を掴んで地面に押さえ込む。
「一人でやってんのか、あいつ」
ゼンは口の端を上げた。
「……付き合いきれねえな」
路地を走った。次の角を曲がる。倒れている兵士の足元に転がっている昆虫型ドローンを一蹴りした。
「邪魔だ」
少し離れた場所で、レムは空を見上げていた。
飛行船が浮かび上がっていく。古くて、錆びていて、どう見ても今にも落ちそうな船が、まっすぐ戦艦へ向かっていく。
「……行ったんだ」
呟いた。
足音が戻ってくる。ゼンが舌打ちした。
「感傷に浸ってる場合か。逃げるぞ」
「うん」
レムは動かなかった。もう一秒だけ、空を見ていた。
飛行船に呼応するかのように、黒い群れが飛び立つ。壊れた「昆虫」たちが、かつての主へと牙を剥いて空を埋め尽くす。
戦艦の対空砲が火を噴いた。
その轟音の中で、レムは小さく言った。
「……帰ってきなよ」
ゼンの手が、乱暴にレムの腕を引いた。
「行くぞ」
二人で走った。
戦艦のブリッジで、レイクは目を細めた。
「飛行船だと? 愚かな、撃ち落とせ。あんな木屑、一斉射で塵になる」
「レイク様、報告を! 我々の昆虫型が……こちらに迫っています!」
「識別信号はどうなっている!」
「機能していません! 制御不能、全機が対空砲座を狙って突撃してきます!」
アイが書き換えた死の群れが、かつての主へと牙を剥く。対空砲が迎え撃つために旋回し、火網が空を裂くが、計算され尽くした不規則な動きにレイク軍の照準が追いつかない。
「飛行船は後回しだ! まずはあの虫どもを叩き落とせ!」
その混乱の隙を突き、相棒に最適化された飛行船が、被弾を最小限に抑えるルートを滑るように進み、戦艦の直近まで肉薄する。
飛行船の外装が一部爆ぜた。
撃墜されたように見せかけたフェイクの爆発。黒煙を隠れ蓑にして、客室に偽装されていた格納庫のハッチが跳ね上がる。
中から飛び出したのは、レンが駆るプロペラ機だった。
その瞬間。
『起爆します』
相棒の声とともに、飛行船が戦艦の主砲デッキに激突した。
爆音とともに空気が裂ける。
ただの爆発ではなかった。相棒が内部の振動を一点に収束させ、戦艦の外装金属の結合を瞬間的に解いた。重厚な装甲が、外側へ弾け飛ぶ。轟音が空気を揺らし、黒煙と炎が戦艦の腹を裂いた。
穴が、開いた。
レンはその穴へ機首を向け、スロットルを限界まで押し込んだ。
至近距離から機関銃が火を噴く。相棒が算出した構造的弱点、接合部の一点に弾丸の雨が叩き込まれ、裂け目がさらに広がる。
翼が千切れた鉄骨を削り、火花がコックピットを包む。機体はもはや飛行を維持できず、内部ドックの床を滑走しながら、隔壁を突き破って止まった。
沈黙。
レンは血の混じった唾を吐き捨て、ひしゃげた機体から這い出した。
そこは、迷路のような戦艦の深部だった。
周囲に、自動警備の小型鎧兵が壁のように並んでいる。赤いセンサーが光っている。
「アイ。動け」
視界の奥が僅かに変わる。
「中枢まではお前に任せる。体も、この船の理屈も、好きにしろ」
一拍。
「だがそいつに出会ったら、俺にかわれ」
間があった。
「絶対にだ」
沈黙。
『……了解しました』
それだけだった。
次の瞬間、レンの瞳から感情が消えた。
代わりに、白銀の光が滲んだ。
相棒に支配されたレンの体が、動き出した。
人間とは思えない軌道で。迷いなく。
『周囲の動力の流れに干渉。……過負荷、開始』
壁に触れると、銀色の光が走る。天井の配管が弾け、高圧蒸気が鎧兵たちの視界を奪う。その隙間を、死角だけを縫って走り抜ける。
『右の隔壁、ロック解除。十メートル先の床、踏み抜く』
鋼鉄のプレートが崩れ、下の階層へ落下する。
『振動系を分断。機能停止を誘導』
エレベーターが暴走する。防衛用シャッターが敵兵の頭上に落ちる。通路が封鎖される。
戦艦が、内側から軋む。
幾重もの防壁を、相棒が計算でこじ開ける。レンの肉体が、その執念を具現化するように駆け抜ける。
そして。
最後の扉の前に立った瞬間、白銀の光が消えた。
レンの瞳が、元の色に戻った。
息が荒い。裂けた脇腹から血が滲んでいる。膝が笑っている。
レンは扉を見上げた。
「……約束通りだな、相棒」
答えはなかった。
ただ、脳の奥が静かに、温かかった。
扉が、ゆっくりと重々しく開いた。
その光の中に、巨大な影があった。
レイクはゆっくりと立ち上がった。巨大鎧の関節が軋む音が、静寂の中に響いた。
「……ほう。生きているか。あの木屑の中から」
レンは答えなかった。
「だが、ここまでだ。お前の中の『ノイズ』も含めて、今ここで終わりにしてやる」
レンの拳が、静かに握られた。
「その核、この俺が喰らってやる!」
巨大鎧の鉄拳が、空気を引き裂いて迫る。
レンは動かなかった。
一秒。
視界の中で、全てが静止する。
矢の射線。床のひび。瓦礫の傾き。護衛兵の呼吸。レイクの重心。次にしなる剣の角度。
一本の道が、浮かぶ。
それがアイの演算でも、自分の意識の高まりでも、もうどうでもよかった。届くなら、それでいい。
弦が、鳴った。
「……いち」
最初の矢が来る。半歩だけずらし、頬を掠めさせ前へ出る。
レムの顔が浮かぶ。鍋を抱えて笑う、あの顔。
「……に」
二本、同時。身を沈めて一本を外す、もう一本が右肩を裂く。熱が走る。腕が重くなる。構わない。
ジイの顔が浮かぶ。炉の熱と煙の中、あの背中。
「……さん」
長剣が頬をえぐる。血が飛び。視界が赤くにじむ。
それでも足は止まらない。理屈じゃない。損得でもない。目の前に人がいて、守れるものがあれば、体が動く。それだけだ。―それが俺だ。
懐まで、あと一歩。
「……し」
手が、引き金へ向かう。
「アイ」
「お前の矜持は、汚さない」
一拍。
「……ありがとう」
指が、引き金に触れる。
『やめてください!!』
——初めてだった。
推奨でも、警告でもなかった。
ただの、願いだった。
レンはほんの一瞬だけ笑った。
視界が、白くなる。
指が動かない。
―いや。
動かされている。
白の中に、断片が浮かぶ。
パンの匂い。 遠い声。 夜道の、小さな影。
―初めてじゃない。
(……同じか)
白銀が、満ちる。
『ありがとうございました、マスター』
レンの意識が、静かに沈んだ。
光は、音もなく広がった。
レイクは動かなかった。 その光の前で、初めて——言葉を失った。
白銀が、鎧の隙間に滲む。 関節が、静止する。 瞳が、ゆっくりと白に染まる。
最後まで、感情はなかった。 あったとすれば、ほんのわずかな―困惑だけ。
護衛兵たちも、一人ずつ、静かに溶けていった。 悲鳴も、 抵抗もない。 ただ、光の中に還っていった。
レイクが死んだのか、それとも別の何かに変じたのか——それを確かめる術は、誰にもなかった。ただ、戦艦は墜ちた。それだけが、確かだった。
最初に気づいたのは、音だった。
ゼンは走りながら空を見上げた。
あれだけ轟いていた対空砲が、止まっている。 戦艦が、静かだった。
「……なんだ」
呟いた瞬間、白銀の光が戦艦の頂点から溢れ出した。
静かだった。 恐ろしいほど、静かだった。 爆発でも、崩壊でもない。 まるで、巨大な何かが、息を吐いたみたいに。
光が、船体を包んでいく。
それから——
最初は小さな音だった。 金属が軋む声。 次に、低い唸り。 それが重なり、重なり、やがて腹の底まで響く轟音になった。
船体の一部が剥がれ落ちる。 甲板が裂ける。 推進機が火を噴き、黒煙が空を裂いた。
墜ちていく。
ゆっくりと、しかし確実に。 かつて空を支配していた鉄の塊が、重力に従って、地へと還っていく。
ゼンは立ち止まり、ただそれを見ていた。
「……終わったのか」
誰に言うでもなく、呟いた。
レムは、空を見上げたまま動けなかった。
白銀の光がまだ空に残っている。 薄く、霧のように広がって——
消えた。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かがすとんと落ちる。
行ったんだ。
涙が出ない。 声も出ない。 ただ、光のあった場所を、見ていた。
街の人々が、少しずつ顔を上げる。 腕輪の光が、ひとつ、またひとつ元に戻っていく。
誰かが泣いていた。 誰かが、隣の人の手を握っていた。
レムには、それが遠かった。
風が吹く。 朝の、冷たい風だった。
気づいたら、ゼンが隣に来ていた。
何も言わない。 ただ、並んで、同じ空を見ている。
しばらくして、ゼンが静かに言った。
「……行ったな」
レムは答えなかった。
ただ、小さく、頷いた。
「……美しい」
震える声だった。怒りでも、憎しみでもない。神の奇跡を目の当たりにした者の、静かな陶酔。
「これだ。これこそが、私の求めていた理想……」
「個を捨て、礎となる」
その瞬間、霧散していた鳴素が、男の体へと収束し始めた。
男の瞳から感情が消え、規律の波がその身に宿る。
彼は背を向け、闇の中へと歩き出した。
地平線の彼方、七本の塔が静かに脈打っている。
空に咲いた白銀の輪が、ゆっくりと夜の闇に溶けていく。
レムは彼が消えた空を、ただ仰いでいた。
「……レン……?」
返事はない。
風だけが吹いていた。煙の匂いだけが残っている。
その時、背後から激しい足音が迫った。
「――こっちじゃ、レム!!」
扉が開き、煤だらけの腕がレムを引き寄せた。
「ジイ! 無事だったの!」
「話は後じゃ。……これを持って行け」
焦げ跡のついた手帳が押し付けられる。
「ワシは残る。……禁書庫へ走れ。そこに、カイという男がおる。手帳を見せれば、わかる」
「行け、レム!!」
ジイが扉を塞ぐ。
レムは地下道へ駆け出した。




