第二十八章 分ける
夕方の光が、工房の表で低く伸びていた。
レムは一人で、ジイの工房まで歩いた。
ゼンは帝都に残った。カイのところに、と言った。動かない右手を左手で握る時間が、近頃また長くなっている。レムは、自分が来ると言った。
工場街の縁を通った。煙突の影は、もう伸びきっていた。蒸気は薄かった。夕方の作業はそろそろ終わる時刻だった。レムは振り返らなかった。
工房の表は、変わっていなかった。鞴の場所も、金敷の位置も、棚に並ぶ工具も。
若い職人が一人、鞴の前にいた。火を落としていた。
「奥に行く」
レムが言った。職人は頷いた。それ以上は聞かなかった。
奥の扉は、レムが知っている扉だった。
一度、ジイが開けた扉。
今度は、レムが開けた。
ジイは、椅子に座っていた。
青いランプは、点いていた。
朝の光がない分、ランプの光が、奥に強く灯って見えた。
「来たか」
「うん」
ジイは、もう一つの椅子を見た。
レムは座った。外套の内側から手帳を取り出した。膝の上に置いた。指で表紙をなぞった。擦り切れた角。
「ジイ」
「うん」
「あの後、私は会った」
ジイは、レムを見た。何も言わなかった。
レムは手帳を開いた。中ほどのページ。挟んだ紙片に、自分が走り書きした覚えがあった。
「工場街に、視察に行った」
「うん」
「ヤナの紹介で」
「そうか」
「あの男が、いた」
ジイは、膝の上の手を、一度組み直した。それだけだった。
「灰色の上着で。手袋をしてた」
「旋盤の前で、刃に触れた」
「指で。手袋の上から」
「それから、こっちを見た」
「私を見たんじゃない。手帳のところを見た。外套の内側に手を入れてた、その辺りを」
レムは、外套の内側にもう一度手を入れた。手帳はもう膝の上にある。空いた手で、布越しに胸の辺りを確かめた。
「『お持ちのものは、古いものですね』って」
「『近頃は、古い書物の蒐集家が増えている』って」
「『手元にあるうちは、お気をつけて』って」
「それだけ」
「でも、知ってた」
「私の手帳のことを」
ジイは、息を吐いた。短く。
「うん」
レムは手帳のページをめくった。次の挟み紙。
「工場の中、見た」
「旋盤に、レイクの装甲板が使われてた。古いやつ」
「刻印があった。見たことのない刻印」
「ヤナが言ってた」
「『私は、知らないことにしておく』って」
「カイが、出資元を辿った」
「二段奥で、治安端末のハブと重なってた」
「未公開の資本系列だった」
「カイの計算でも、もう一段は辿れなかった」
ジイは、ランプを見た。短く見た。それから、レムに目を戻した。
「あと」
レムは手帳をめくった。
「電波塔の夜、ゼンが、接続架の反対側を押さえてた」
「カイが言ってた。あれがなければ封鎖は組めなかった、って」
「ゼンの指が、経路に残ったの」
「外せなかったから」
「外したら、形のまま、動かなくなってた」
「ゼンは、それを言わない」
「『踏ん張ったな』って、一回だけ言った」
「それだけ」
「今は、左手で右手の指を握ってる時間が、長い」
「私には、見せない。でも、見える」
ジイは、目を閉じた。一度だけ、強く閉じた。それから開いた。
レムは、手帳の表紙の角を、指で押した。
「もう一つ」
「うん」
「原振の檻に、もう一度入った」
「ミラが、金属片を持って」
「境界を越える時、ミラの指が、形のまま、少しだけ遅れた」
「戻ってきた時にも」
「半拍だけ、指が遅れて動いた」
「ミラは、何も言わない」
「自分の指のことは、言わない」
「禁書庫に戻ったら、犬がいた」
「いつもの場所に、座ってた」
「ミラが、いつもと違う名前で呼んでた。シロでも、クロでもない。新しい名前」
「犬は、変わらず、床に座ってた」
レムは手帳を閉じた。
膝の上に置いた。指で表紙をなぞった。
ジイは、しばらく黙っていた。
ランプを見上げた。それから、窓の方を見た。窓の外で、夕方の光が、煙突の根元に溜まっていた。
「ワシは」
ジイが言った。
「ずっと、会わんと言うとった」
「うん」
「今日も、会わん方がええと思うとる」
「うん」
「じゃが」
ジイは、膝の上で手を組んだ。
「お前らが、これだけ動いとる」
「ジイ」
「うん」
「ジイは、何をするの」
ジイは、レムを見た。
「会うてみるかもしれん」
レムは、何も言わなかった。
「会うて、何かするの」
「何もせん」
「何もせんのに、会うの」
「会うて、それだけじゃ」
レムは、手帳の角を握った。冷たくはなかった。冷たさが、いつのまにか戻っていた。いや、戻ってはいない。少しずつ、別のものになっていた。
「会うのと、何かするのは、別じゃ」
ジイが言った。
「今までは、一緒くたにしとった。会えば、何かしてしまう、と。じゃから、会わん、と」
「うん」
「分けて、おく」
レムは、ジイを見た。
ジイは、レムを見ていなかった。窓の方を見ていた。
ジイは、椅子から立ち上がった。
膝を一度、叩いた。前の時より、少し遅かった。
青いランプは、消さなかった。
奥の扉に向かった。扉は、レムが開けたまま、閉まっていなかった。
「ジイ」
「うん」
「いつ」
「今日じゃない」
「そうか」
「近いうちに」
「うん」
「戻ってくる」
「うん」
ジイは、扉から出た。
足音が、表の方へ歩いていった。鞴の前で一度止まった。職人と何か短く話した。それから、表の通りへ出ていった。
レムは、椅子に座ったまま、手帳を膝に置いていた。
指で、表紙をなぞった。
擦り切れた角。
いつもより、温かかった。
奥の扉は、開いていた。
青いランプは、点いていた。
夕方の光が、扉の向こうから、奥の小部屋にも届いていた。
二つの光が、同じ部屋にあった。
混ざってはいなかった。




