第二十三章 タウの夜
夕方の市場は、店じまいの音だけが残っていた。
タウは市場の隅に置かれた木箱の上で、最後の一節を歌い終えた。聴いていたのは三人。一人は花屋の婆さん、もう一人は子供を抱えた母親、最後の一人は通りすがりの男だった。男はタウが歌い終わる前に行ってしまった。
それでよかった。歌は届く分だけ届く。届かなかった分は、空に残る。
最近、父のことを毎日のように考えていた。理由は分からない。考えなければならない、と思っているのではなかった。ただ、考えていた。
部屋に戻ると、夕方の光が窓から斜めに入っていた。父が好きだった花の絵が、壁で同じ色に染まっていた。
タウは椅子に座った。茶を淹れようとして、手が止まった。
口から、歌が漏れた。
意図したわけではなかった。父が庭の挿し木の前で口ずさんでいた、あの歌の最初の一節だった。
タウは歌うのをやめた。湯を沸かした。
翌朝、タウは禁書庫に通信機を借りに行った。
カイは机に向かっていた。ミラの足元で、黒い犬が眠っていた。
「セラに繋ぎたい」
「事務的な話か」
「事務的にしてもらいたい」
カイはそれ以上聞かなかった。通信機を渡した。
タウは短く要請を伝えた。原振の檻への正規の訪問の許可。理由は書かなかった。事務手続きとして、申請の形を整えた。
四日後、許可が下りた。
通信文は短かった。日時、入口、同行者の人数。タウは一人と書いた。許可された。
夕方の空が、文面の色をしていた。
夜、タウは施設の前に立っていた。
帝都の外縁。月のない夜だった。施設の灯りだけが、低く輝いていた。
技術者が一人、扉を開けた。
「タウさん」
「はい」
「手続きは私が立ち会います。中までは降りません」
「はい」
「先に、声を登録します。境界がそれを覚えます。今夜戻る時、それから次にあなたが来た時——境界はあなたを通します」
「分かりました」
タウは小さく息を吸った。歌の一節を、短く出した。技術者の手元の機器が、淡い線を描いた。
「登録、完了です」
通路を降りた。
長かった。空気が冷えていく。足音だけが、壁に吸われていった。
底に、白い空間が広がっていた。広い。天井がどこまであるのか分からない。光源は見えないのに、空間全体が淡く照らされている。
タウは一人で歩いた。技術者は地上で待っている、と言われた。降りるのは、タウだけだった。
白い空間の奥に、境界があった。
目には見えなかった。それでも、そこに何かがあると分かった。空気の質が、その線で切り替わっている。
タウは止まった。
何をすればいいのか、分からなかった。
少し待っていた。
すると、境界が薄くなっていった。タウから何かを引き出したのではなかった。境界の方が、思い出していた。
タウは、通った。
内部は、円い空間だった。
見上げても、天井がなかった。視界が上に向かって淡くなり、ぼやけていく。広い。だが圧迫感はなかった。
床は淡い石だった。歩くと、足元で淡く反応した。
中央に、低い円形の壇があった。何も置かれていない。
壁ぎわに、人型の輪郭が並んでいた。光る輪郭だった。橙と金の光が、それぞれの中をゆっくりと流れていた。
二〜三十ほどあった。それぞれが、固定の姿勢を取っていた。立っている者。座っている者。膝を抱えている者。動かなかった。
低い、和音のような振動が、空間全体を満たしていた。一定だった。
タウは歩いた。
輪郭たちは、振り向かなかった。彼らはそこに立っているのではなく、置かれているようだった。
近づくと、それぞれの振動が、別々に聴こえてきた。一人一人が、違う音を持っていた。一つの音は風に似ていた。一つは、雨の前の空気の匂いのような震え方をしていた。
タウは聴き分けた。意識したのではなかった。耳が、自然に分けていた。
ある輪郭の前で、足が止まった。
頭を垂れて、膝をついている輪郭だった。
その輪郭から流れている振動の中に、知っている旋律があった。父が庭の挿し木の前で口ずさんでいた、あの歌の、最初の一節。
それから、震えがあった。壊れる前の、父の手の震え。タウはその震えを覚えていた。夜。庭。冷たい風。
タウは、膝をついた。
触れなかった。触れる意味がないことが、分かっていた。
歌い始めた。
父の歌の続きを、父の前で。父が歌っていた一節を引き取って、続きを歌った。
声は震えなかった。
父の輪郭の振動が、タウの歌に応えるように、小さく揺れた。
それから、周囲の輪郭たちが、各々の音で、控えめに重なってきた。風の音。雨の前の震え。低く長い、空気のような響き。それぞれの小さな振動が、歌に重なった。
最後の一節を歌い終えた。
父の振動は、消えなかった。少しだけ、軽くなった。それだけだった。
タウは立ち上がった。
一礼はしなかった。ただ、目を伏せた。
歩いて戻った。輪郭たちは、また並んで動かなかった。
タウは一度だけ、振り返った。
境界が、タウの前で薄くなった。今度は、待つ時間がなかった。
通路を上がった。空気が暖かくなっていった。
地上に出た。
技術者は無言で立っていた。書類を一枚、机に置いている。
「ありがとうございます」
「はい」
技術者は頷いた。それだけだった。書類に何も書き加えなかった。
帰り道、夜が深くなっていた。
時計を見ると、降りた時から数時間が過ぎていた。タウの体感では、長くて一時間ほどだったはずだ。
部屋に戻った。窓を開けた。冷たい風が入ってきた。
歌わなかった。
ただ、息をした。
壁の花の絵が、街灯の薄い光の中で、輪郭だけ浮かんでいた。




