第二十章 工房の青
朝の光が、工房の梁に縞を作っていた。
ジイは黙って、奥の扉を開けた。
「こっちじゃ」
レムは外套を肩にかけ直して、ジイの背中を追った。ゼンは右手を懐に入れたまま、後ろを歩いた。
工房の表は変わっていなかった。鞴の場所も、金敷の位置も、棚に並ぶ工具も。だが、奥の扉は記憶になかった。レムが知らない扉だった。
扉の向こうは、ひと部屋分の小さな空間だった。
棚と作業台と、椅子が二つ。
天井から、青いランプが下がっていた。
灯りは点いていた。朝の光が窓から差し込んでいるのに、青いランプが点いていた。光を競わずに、奥に静かに灯っていた。
「……これ」
レムが言った。
「ずっと?」
「ずっとじゃ」
ジイは椅子を引いた。腰を下ろした。膝に手を置いた。
「座れ」
二人は座った。
ジイはしばらく黙っていた。それから言った。
「ワシの若い頃の話じゃ」
レムは何も言わなかった。
「ここの工房を継ぐ前、ワシは別の工房におった。北の方じゃ。今はもう、ない」
「閉じたの」
「閉じた、というか、潰れた」
ジイは少し間を置いた。
「そこに、一人の男がおった」
ゼンが少し顔を上げた。
「天才じゃった。ワシも若かったから、よう分かっておったわけじゃない。でも、あいつは違った。手の動き方が、目の動き方が。ワシらは、模倣をしておった。あいつは、考えておった」
「機械のことを?」
「機械のことを、命のことを」
レムはジイを見ていた。
「あいつは、青いランプを使うておった。夜、設計図に向かう時、青いランプの下で。その光が好きじゃと言うておった。理由は知らん」
ジイは天井のランプを見上げた。
「あいつが、名前をつけとった。工房の青、と」
レムが、ランプを見た。
「これは、その時のじゃ。あいつが消えた時に、ワシが譲り受けた」
「消えた?」
「消えた」
ジイの声は、淡々としていた。
「あいつには妻と娘がおった。失い方は、ワシも知らん。記録には残っとらん。ある日突然、二人ともおらんようになった。それだけじゃ」
レムの胸の中で、何かがゆっくり沈み込んだ。手帳の角が、外套の内側で当たった。
「妻と娘を失ってから、あいつは別人になった。怒鳴ることはなかった。泣くこともなかった。ただ、笑わんようになった。もともとあまり笑う男じゃなかった。だが、笑い方が分からんようになった、という顔をしておった」
ジイは少し息を吐いた。
「ある日、来んかった。次の日も来んかった。三日目には、工房に荷物がなかった。誰も追わんかった。追える話じゃなかったから」
「それで」
「それで、何十年か経った」
ジイは膝の上で手を組んだ。
「レイクが来た日のことを、覚えておろう」
「覚えてる」
「ワシも覚えとる。瓦礫の下で、覚えとった」
ジイの口元が、一度だけ動いた。笑ったというよりは、空気を吐いた動きに近かった。
「翌朝、ワシは丘におった。レイクの船が落ちた朝じゃ。お前らも、空に光の輪が出たのを見たじゃろう」
レムは頷いた。
「あの輪を見上げとった男が、丘におった。一人で。光がな、男の体に集まっていった。男はそのまま、七つの塔の方角へ歩き去った。足音はなかった」
「規律の波が宿る、ってやつか」ゼンが呟いた。
「お前らはそう言うか」
「カイが言ってた」
ジイは少し頷いた。
「ワシはな」
ジイは続けた。
「そん時、あの男を、知っとると思った」
「……ジイの、若い頃の」
「若い頃の、あの男じゃった」
部屋が、静かになった。
レムは外套の内側に手を入れた。手帳の角が、いつもより冷たく感じた。
青いランプの光だけが、変わらず奥に灯っていた。
「年は取っとった。でも顔は分かった。ワシの目はまだ効く」
「確かなの」
「確かじゃ」
レムは下を向いた。手帳を取り出した。膝の上に置いた。指で表紙をなぞった。擦り切れた角。
「ジイ」
「うん」
「なんで、今まで言わんかった」
「言うて、何になると思った」
ジイの声が、初めて少し震えた。
「お前らは旅に出た。手帳を抱えて、レンの仇のような男のことを、聞きたい時期じゃなかった。聞いて、お前らがどこへ行く。ワシは、ここに残る方を選んだ。お前らに、その荷を持たせたくなかった」
「でも今、言ってる」
「今、言うほかなくなった」
ジイは立ち上がった。膝を一度叩いた。窓の方へ歩いた。窓から、新しいカルナの煙突が見えた。
「あいつが、戻っとる」
レムが顔を上げた。
「この街に」
「この街に」
ジイは振り返らんかった。
「投資家として、何度か視察に来とる。名前は別じゃ。証拠もない。でもワシの目には、あいつじゃ。間違いない」
「会ったの」
「会わん。会えば、ワシは何かしてしまうかもしれん」
ジイは窓に手をついた。
「だから、お前らに言うた」
レムは手帳をきつく握った。
「あいつは何を狙っとるの」
「分からん。だが、レイクの遺した技術が、この街で使われとる。ワシらが知らんところで、誰かに買われとる。ワシは出資元を辿ろうとしとる。辿りきれん部分がある」
ゼンが右手を懐から出した。動かない指を、左手で握った。
「カイに繋ぐ」
ゼンが言った。
「カイの計算機なら、辿れる」
「そうか」
ジイは振り返った。
「すまんな」
「なんで謝るんだよ」
「お前らに、街を歩かせる」
ゼンは少し笑った。
「ジイ、もういい。歩く」
ジイは何も言わなかった。
レムは青いランプを見上げた。
何十年もこの色を見てきた、と言われれば、ジイの目を信じられそうだった。
「ジイ」
「うん」
「このランプ、消さんで」
「消さん」
ジイは椅子に戻った。腰を下ろした。
「あいつが、もし戻ってここへ来るなら、これを点けておかねばならん」
レムは頷いた。
ゼンが立ち上がった。動かない右手を懐に戻した。
「行くか、レム」
「うん」
二人は工房を出た。表の鞴の前で、若い職人がもう仕事を始めていた。火花が散っていた。レムは一度だけ、奥の扉を振り返った。扉は閉じていた。
青いランプの光は、扉の隙間からは漏れていなかった。
でも、点いている。
そう思えた。




