第十九章 帰郷と手帳
レムが来たのは、翌日の昼だった。
ゼンも一緒だった。
「急だったな」
ゼンが禁書庫の扉を開けながら言った。
「急いでいる」
カイは計算機から目を離さずに言った。
「座れ。手帳を見せてくれ」
レムは外套の襟を肩に下ろして、椅子に座った。
レムは外套の内側から手帳を取り出した。机の上に置いた。
カイは手帳を受け取った。
最初のページから、一度だけ目を通した。
レンの字。アイの字。交互に並んでいる。最初はぎこちない問いと返答だ。後半になるにつれて、字の力加減が変わる。急かされている字。答えを探している字。それから、落ち着いた字。
カイは中ほどに近づいて、ページの繰り方を遅くした。
レムは机の角に手を置いた。指で、机の縁を一度だけなぞった。
ゼンは少し離れた椅子に座った。動かない右手を、左手で握っていた。
カイは中程のページで手を止めた。
「ここだ」
レムが身を乗り出した。
「何がある?」
「アイの観測記録だ。この部分」
カイは指で字をなぞった。アイの字は整っている。癖がない。人が書いたはずなのに、と誰かが言いそうな字だ。
「何が書いてある?」
「数値だ。普通の数値じゃない」
「何の数値?」
カイは少し間を置いた。
「商取引の系列。資本の動き」
「アイが、それを?」
「観測していた、というより、見えていた、という方が正確かもしれない。アイは最適化機構だった。資本の流れも、構造は近い」
レムはしばらく手帳を見た。
「アイは、こうなることを知ってたのか」
「知っていたとは言えない。だが、見ていた」
「見ていた」
「観測者だから」
レムは黙っていた。
カイは計算機に手帳の数値を入力し始めた。一行、一行、丁寧に。アイが記録した数値は、文章の合間にあった。日付と場所と、短い数値の列。レンへの返答の隙間に、まるで別の記録を挿し込むように。
「これ、アイは意図してたのか」レムが言った。
「分からない。だが、残した。残したことには意味がある可能性がある」
照合が始まった。
画面の中で、数値が並んだ。カイは画面を見ていた。
ミラが本棚の影から顔を上げた。図鑑を閉じた。
机の隅まで来て、椅子に座った。カイの記録書を覗いた。
「今日、犬、書いた?」
「書いた」
「ありがと」
ミラは戻った。本棚の影で、また図鑑を開いた。
犬は、床の同じ位置にいた。
カイは手帳のページをめくった。挟まれた数値の列に、指を止めた。
「これは、出資元の系列の数値と一致する」
レムが顔を上げた。
「アイが書いたやつ?」
「アイが書いた」
「いつ」
「三年前。レンへの返答の中に、紛れて」
ゼンが少し首を傾けた。動かない右手を、左手で握り直した。
「辿れるのか」
「途中までは」
カイは記録書を開いた。短い行が並んでいる。
「二段奥に、未公開の系列がある。もう一段、辿るのに時間がいる」
「待ってる時間あるか」
「ない」
ミラが机の隅で、小さな書付を読んでいた。読み終えて、また同じ書付を読み始めた。犬は床の同じ位置にいた。
レムは手帳に手を置いた。指で表紙をなぞった。擦り切れた角。
「カルナに戻る」
ゼンが頷いた。
「俺もだ」
カイはペンを置いた。
「分かった。途中経過を持って行く形になるが」
「いい」
レムは外套の内側に手帳をしまった。
「ジイが、待ってる気がする」
カイは何も言わなかった。記録書を閉じた。
ミラが顔を上げた。
「気をつけてね」
「うん」
「犬も、待ってるって」
「そうか」
レムは少し笑った。それから、立ち上がった。
ゼンが立ち上がった。動かない右手を、左手で支えた。それから、外套の襟を立てた。
カイは記録書を開いた。一行書いた。
「レム・ゼン、カルナへ。手帳、持参。出資元の途中経過、口頭で」
ペンを置いた。
レムが扉に手をかけた。
「カイ」
「何だ」
「アイは、レンへの返答に、紛れて書いてた」
「そうだ」
「レンには、見えてなかったのかな」
「見えていなかった、と思う。アイは、レンに見せるつもりで書いたわけじゃない」
「じゃあ、誰に」
カイは少し間を置いた。
「観測の記録は、誰のためでもない」
「うん」
レムは扉を開けた。
帝都の昼の光が、禁書庫に入ってきた。
帝都の外縁の道を、二人で歩いた。
腕輪の光がバラバラに瞬いていた。
廃屋の前を通った。レム・ゼンが半年ほど暮らした廃屋だった。今は人の気配がない。屋根の一角がさらに落ちていた。
ゼンが少しだけ目を細めた。
「思ったより、もう、ここじゃないな」
「うん」
道は外側へ続いていた。
帝都の壁が、後ろで低くなっていった。
道は、村と村の間を縫って続いていた。
昼を過ぎた。レム・ゼンは、小さな茶屋で短い休憩を取った。
店の女が、湯飲みを二つ置いた。
ゼンは右手で取ろうとして、止めた。左手に持ち替えた。
レムは、何も言わなかった。
湯気の中で、少しの間、二人は黙っていた。
「カルナ、変わったかな」
ゼンが言った。
「変わってる、と思う」
「ジイは、変わってないと思いたい」
「うん」
道に戻った。
小さな橋を渡る時、ゼンが一度立ち止まった。右手を、外套の懐から出して、見ていた。指を動かそうとしていた。動かない指が、二本あった。
「重いか」
レムが言った。
「重くはない。軽いだけだ」
「軽い」
「手の重さが、片方だけなくなっていく感じだ」
ゼンは右手を懐に戻した。左手で握り直した。
「行こう」
「うん」
道がまた続いた。
レムは、外套の内側で手帳を確かめた。アイの字が、布越しにある。それだけだった。
丘を越えると、新生カルナの煙突が見えた。
何本も立っていた。蒸気の白い柱が、夕方の空の中で、薄く広がっていた。
ゼンが目を細めた。
「変わったな」
「うん」
「俺たちが、出る前と」
「うん」
工場街の音が、低く届いてきた。鞴の音。鉄を打つ音。何かを切る、長い切削音。
レムは、外套の襟を立てた。
「ジイの工房は、街の縁の方じゃない?」
「そうだ」
「変わってない?」
「変わってないと、思いたい」
ゼンが少し笑った。
笑った後で、右手を、左手で握った。
道の脇に、稲が育っていた。新生カルナの境界の畑だった。レイクが落ちたあと、土が変わったと聞いた。植え直しに時間がかかった、とジイが昔言っていた。
今、稲が育っていた。
レムは、それを見ながら歩いた。
工場街の入口で、二人は道を一度確認した。
通りの音が、層になって聞こえていた。
レム・ゼンは、工場街の中を歩いた。
工場街の通りは、夕方の蒸気がまだ低く残っていた。
レムは外套の襟を立てた。煙突の影が長くなっていた。
「ジイの工房は、こっちでよかったな」
ゼンが言った。確認のような言い方だった。
通りの脇に、若い男が一人立っていた。鉄の積荷の前だった。装甲板の切れ端が積まれている。男は手袋をしていた。だが、手は動いていなかった。
「ジイの?」
男が振り向いた。
「鉄工の?」
「うん」
「じゃあ、すぐそこだ。鞴の音が聞こえる」
「ありがとう」
レムが言った。男は頷いた。それだけだった。
ゼンが少し立ち止まった。
「仕事中、すまんかった」
「いや、仕事はしてない」
「そうか」
「上の指示が来たら、動く。今は、待ってる」
ゼンは男を見た。
「指示」
「これを切るのか、別のを切るのか、決まってない。決まったら、教えてくれって、頼んである」
男は鉄の積荷を見た。それから、もう一度、鉄を見た。
「俺が決めることじゃない」
ゼンは何も言わなかった。
レムも何も言わなかった。
二人は通りを進んだ。
レムは振り返らなかった。ゼンも、振り返らなかった。
煙突の影が、もう少し長くなっていた。
通りの突き当たりに、ジイの工房があった。
表の鞴の前に、火が入っていた。
レム・ゼンは、足を止めた。
ゼンが、外套の懐に手を入れた。
「行くか」
「行く」
工房の表は、変わっていなかった。
鞴の音が、低く続いていた。火が入っていた。職人が二人、鞴の前で何か短く話していた。
ジイは、その横にいた。
レムを見た。少しだけ、目が動いた。それから、ゼンを見た。ゼンの右手のあたりを、一度だけ見た。
「来たか」
「うん」
ゼンが言った。
「邪魔するぞ」
「邪魔は、いつでもじゃ」
ジイは職人に何か短く言った。職人が頷いた。火の音が、少し下がった。
レムは外套の内側に手を入れた。手帳の角に触れた。
「ジイ」
「うん」
「明日、聞いてもらいたい話がある」
ジイは少し間を置いた。
「明日」
「うん」
「分かった。明日にしよう」
「うん」
「今夜は、休め。家はそのままじゃ」
「うん」
ジイは振り返って、工房の中に戻った。背中が、思ったより薄くなっていた。
レムは外套の内側に手を入れた。手帳の角を、指で確かめた。
いつもの通り、冷たかった。
ゼンが、横に立っていた。動かない右手を、左手で握っていた。
「行くか」
「うん」
カルナの夜が、ゆっくり下りてきていた。
工房の鞴の音が、まだ続いていた。
二人は、家の方へ歩いた。




