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鳴素の共鳴  作者: 佐々木勇二


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第一章:侵食

朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。

レンは目を覚まし、すぐに違和感に気づいた。

――綺麗すぎる。

床には乱れがなく、脱ぎ散らかしていたはずの服が、不自然なほど整然と畳まれている。机の上の空き瓶も、洗われて逆さに干されていた。

(……レムか?)

だが、違う。あいつはもっと雑だ。文句を言いながら、音を立てて、適当に片付ける。こんなふうに――静かに、痕跡を消すようなやり方はしない。

窓は閉まっている。鍵もかかっている。侵入の形跡はない。

なのに。

生活の痕跡だけが、消えていた。

レンはしばらく部屋の中心に立ったまま、動けなかった。泥棒なら何かを奪う。幽霊なら何かを残す。だがこれは、ただ整えられている。まるで誰かが、レンという人間の生活を丁寧に管理しようとしているみたいに。

(俺が寝ている間に、何かがいる)

その考えが頭をよぎった瞬間、背筋に冷たいものが走った。

翌朝。

コップを取ろうとして、手が止まった。置いた覚えのある位置より手前にある。手を伸ばすと、無駄なく掴めた。

(……気持ち悪い)

保管庫の前で、レンはしばらく動けなかった。

昨夜の煮魚が、見たこともないほど丁寧に密閉されていた。小さな紙が貼られている。日付と、食べるべき目安。字が違う。角張っていて、癖がない。人が書いたはずなのに。

(……こんなこと、俺がやったか?)

記憶は曖昧だ。やっていない、とは言い切れない。かといって、やった覚えもない。

レンはその扉を閉めた。開けた。また閉めた。

紙は消えない。字も消えない。

(俺じゃない。でも、俺の手が動いた)

その矛盾が、胃の底に重く沈んでいった。

三日目の朝、同僚に肩を叩かれた。

「おい、やるじゃねえか」

「……何がだ」

「昨夜の山賊の件だよ。一人で三人抑えたって話だぞ。無駄が一つもなかった。なんだあの動き」

レンには、一秒も記憶がない。

笑って答えた同僚の顔が、遠ざかっていく。なんとか相槌を打ちながら、レンは自分の右手を見ていた。いつもより少し綺麗な爪。擦り傷がない。昨夜あれだけ動いたなら、どこかに痕が残るはずだ。なのに、皮膚は静かだった。

怖い、とは少し違った。

もっと奇妙な感覚だった。自分という器が、自分の知らない間に、誰かに丁寧に使われている。壊されているのではなく、手入れされている。それがかえって、じわじわと背筋を冷やした。

盗まれているのか。それとも、守られているのか。

判断できなかった。

「それにしても、あの樽、おかしくなかったか」

別の同僚が、少し声を落として言った。

「あの樽が……路地の曲がり角で止まったんだ。坂の途中で。重力に逆らって、ぴたっと。で次の瞬間、弾かれたみたいに転がって、ちょうど山賊の足元に」

「見間違いだろ」

「三人とも見てたんだよ。俺たちゃ幽霊を見たかと思って、しばらく動けなかったぞ」

レンは何も言えなかった。

体に違和感がある。軽い疲労。だが位置が正確すぎる。無駄な負荷が一切ない、必要な分だけの消耗。まるで――誰かが、自分の体を借りて、丁寧に使い終えたみたいに。

「なんか、お前別人みてぇだったぞ。静かで。感情もなくて――」

同僚が笑いながら言う。

「機械みたいだった」

レンは何も返せなかった。

その夜、机に紙を置いた。しばらく迷い、短く書く。

――誰だ

朝。紙には、見覚えのない字が増えていた。

――観測者

その夜、もう一度書いた。

――お前は、何だ

――最適化機構

レンはしばらく動けなかった。胃が重い。頭が重い。最適化、という言葉が、頭の中でゆっくりと回転した。最適化。効率化。無駄の排除…

(俺の部屋を片付けたのも、俺の体を動かしたのも、それか)

怒りが来ると思っていた。だが来なかった。代わりに、もっと深いところから、静かな戦慄が這い上がってきた。

一行だけ書く。

――ふざけるな。お前はだれだ

――A.I.

無機質な数日のやりとりで、レンは初めて、はっきりと理解した。

――これは、なにかいる。

自分の中に。

名前もなく、感情もなく、ただ機能として存在している何かが、レンという人間の中に棲んでいる。

レンは紙を握りしめた。破りかけて、やめた。

破っても、消えない。そう直感した。

その夜、路地を歩いていて、レンは足を止めた。

屋台の親父が、客に腕輪を近づけた。対価の移動だ。ただそれだけの場面だった。

なのに。

男の手から、かすかな光が見えた。

青白い。糸のように細い。渡した刻命に触れた瞬間だけ、ほんの一瞬、揺れて消えた。

(……なんだ、今の)

その時、頭の奥で何かが鳴った。言葉ではない。ノイズに近い。強いて言えば――

『……振動……観測……』

レンはもう一度、屋台を見た。男はもう客と笑っている。光はない。普通の親父だ。でも確かに、さっき光った。

(この街に、ずっとあった何か…)

レンは歩き出した。今度は意識して見る。

八百屋が声を張り上げる。うっすら橙色。子供が転んで泣く。細い紫が散る。怒鳴り声。赤。笑い声。白。

全部、すぐ消える。でも、あった。

脳の奥は静かだった。何も言ってこない。窓の外、遠くの空に電波塔の光が見えた。

腕輪の光が、いつもと同じ時間に、いつもと同じ強さで揺れている。

ずっと、そういうものだと思っていた。

でも今夜は、その光が少し違って見えた。

なぜかは、わからなかった。

その頃、カルナから遠く離れた場所で、一人の男が古い記録を読んでいた。

鳴素の暴走事例。塔のコアの崩壊記録。そして、崩壊の直前に観測された現象。

男は静かにページを閉じた。

ある夜、帰り道に雨が降った。

軒下で雨宿りしながら、レンはふと脳の奥に問いかけた。

(……聞こえてるか)

返答はなかった。

レンは濡れた石畳を見ていた。

しばらくして。

『……聞こえて、います』

低く、不安定な声だった。言葉になりきっていない。でも、確かに届いた。

レンは少しの間、動かなかった。

「……今、しゃべったか」

『……はい』

短い。それだけだ。でも、声だった。

レンは軒下から空を見上げた。雨が続いている。

脳の奥は静かだった。だが今夜は、最初の頃とは違う静かさだった。

何かが、そこにいる。

それだけは、はっきりとわかった。

路地の角で足がとまる。

奥で、音がした。短い悲鳴。

『推奨しません』

今までとは明らかに違う脳内の響きだった。

『二名の武装を確認。救出行動により、個体レンの生存確率が低下します』

レンは黙った。

奥で、もう一度音がした。

『回避を推奨します』

「……お前」

低く言った。

「今、なんて言った」

『最適行動は離脱です』

レンは息を吐いた。ゆっくりと、奥を見た。

「ふざけるな」

『合理的判断です』

「人を数で切るな」

沈黙。

『個体レンの生存確率を最大化するための——』

「―それで生き残っても」

レンは遮った。

「俺は俺じゃねえ」

言い切った。

一瞬、頭の奥が静かになった。

レンは短剣を抜いた。

「……行くぞ」

『……非推奨です』

「黙れ」

それだけ言って、走った。

帰り道、石畳の継ぎ目に足を取られた。崩れる、と思った瞬間。重心が、勝手に戻った。体が自分で立て直した感触ではない。何かが、内側から調整した。

『転倒を防止しました』

「……余計なことすんな」

声に出すつもりはなかった。

その日の夕刻、レンはジイの工房を訪ねた。

油の匂いと蒸気の音。ジイは黙って話を聞いた。

消えた生活の痕跡。記憶のない手柄。脳内に響く「何か」の声。

ジイは作業の手を止め、汚れた布で指を拭いた。それからレンの左手首を取った。腕輪を見た。少し間があった。

「……色が変わっとる」

レンも見た。いつもは青白い光のはずだった。今は、端の方が銀色に滲んでいる。腕輪の文様の隙間から、細い銀の光が漏れている。

「こんな色、見たことがない」とレンは言った。

「ワシもない」とジイは言った。「腕輪は刻命の色を映す。青が基本で、感情で色が変わる。だが銀は……」ジイは文様を指でなぞった。「お前の中にいる『そいつ』の色だろうな」

レンは腕輪を見た。銀と青が、境界なく混じっている。どこからが自分で、どこからが相手なのか、見た目では分からない。

「取れるか」

「取れん。刻命ごと溶け込んどる」

レンはしばらく腕輪を見ていた。ジイが言った。「嫌か」

「……わからん」

嫌ではない。でも、これが自分の色なのかどうかも、もう分からない。

「……病ではないな」

「振動が、別の依代に人格として宿ることがある。原因はわからん。だが、あり得ん話でもない」

「人格、って言うのか。あれが」

「少なくとも、お前を壊そうとはしていない。そうだろ」

レンは黙った。反論できなかった。確かに、何一つ壊されていない。部屋も、体も、記憶さえも――奪われてはいない。ただ、整えられている。

ジイはレンの肩に大きな手を置いた。

「そいつは敵じゃない。まず受け入れろ。レムにはワシから話しておく」

その夜、工房のランプが小さくなる頃まで、二人は話し続けた。



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