第十七章 治安端末
カイは記録書に「犬、本日も在室」と書いた。一ヶ月ほど前、窓の隙間から迷い込んできた黒い犬。ミラが今朝も違う名前で呼んでから、図鑑を開いた。犬は耳を動かしただけだった。
政府区画の会議室は、前と同じ場所だった。
だが、空気が違った。前回の会議は対立があった。ヴァルクの声があった。今回は、静かだ。報告だけがある。
カイは末席に座っていた。
「治安端末の設計変更、第二段階を確認する」
セラが正面に立った。資料を示す。数値を示す。カイはそれを確認した。問題ない。正確だ。
「各区画の定点鳴素計が稼働している。刻命の流れをリアルタイムで把握できる状態になった。異常の早期検出に対応できる」
「ヴェルタの安全機能との連動は」
ドレスが聞いた。
「設計上、問題はない。第三段階で、バッファ設計を最終調整する予定だ」
カイは計算機を開いた。数値を確認する。
設計上、問題はない。
だが、計算機の画面の端に、自分が書いたメモが出てきた。三ヶ月前に書き、一度見てから閉じたものだ。
「治安端末の強化係数、レイク技術記録と近似。未解決」
照合は終わっていない。材料が足りなかった。近似が偶然か、意図的かを判断する禁書の記録が、まだ見つかっていない。
カイは計算機のキーを叩いた。今日、もう一度禁書を当たる必要がある。
会議が終わった。出席者たちが席を立つ。
廊下に出ると、セラがいた。
「カイ」
「何だ」
「今日の会議、何か気になったか」
「特には」
「そうか」セラは少し考えた。「一つだけ聞く。ヴァルクが治安端末を次の入口として使おうとする可能性は、どれくらいあると思うか」
カイは立ち止まった。
「材料を出せ」
「三日前から、治安端末の一部の定点鳴素計に、微細な出力変動がある。設計の範囲内だ。だが」
「パターンが不自然だ」カイは言った。
セラが少し目を細めた。「どこで知った」
「今、計算した。お前の言い方から」
セラはしばらくカイを見た。「禁書庫に戻れ。今夜、詳細を送る」
「了解した」
カイは歩き始めた。
鞄の中で、金属片が今朝より少し熱かった。
禁書庫に戻る道、カイは鞄を持ち直した。
三ヶ月ぶりの温度だ。これは反応だ。偶然ではない。
治安端末が動き始めている。
計算機を開いた。歩きながら、レイク技術記録との近似を、もう一度引き出した。三ヶ月前に見たものだ。だが今回は、別の観点で読む。これが意図的なものなら、設計者は何を目指している。
原振の檻への迂回経路。
カイはその言葉を、脳内で展開した。
ヴァルクが最初に試みた直接侵入は、失敗した。経路はカイが封鎖した。だが治安端末の制御構造を書き換えれば、別の経路が開く可能性がある。
計算できる。
計算しながら、背筋に何かが走った。
計算できるということは、ヴァルクも計算できるということだ。三ヶ月、ヴァルクは待っていた。待ちながら、この経路を設計していた。
カイは計算機を閉じた。
足を速めた。
禁書庫に戻らなければならない。レム宛に連絡を入れる。セラからの詳細を待つ。今夜中に、治安端末の制御構造を全て見直す。
できる。
だが、今夜の計算が間に合うかどうか、初めて分からなかった。
以前なら「間に合う」か「間に合わない」かを、出発前に計算していた。今回は、計算より先に足が動いていた。
禁書庫の扉を開けた。
「おかえり」
ミラが図鑑から顔を上げた。
犬は、床の同じ位置にいた。
カイは鞄を下ろした。金属片を取り出した。机の上に置いた。
微かに、温かかった。
「ミラ」
「うん」
「これが温かいか確認してくれ」
ミラは立ち上がり、机に来た。金属片に手を触れた。
零・五秒。
「温かい」ミラは言った。「なんか、動いてる感じがする」
「どんな感じだ」
ミラは少し考えた。「呼吸みたいな感じ。ゆっくり、でも確かにある感じ」
カイは計算機を開いた。
治安端末の制御構造。セラのデータ。金属片の三ヶ月ぶりの変化。
全部、繋がっている。
「今夜、作業が多い」
「うん」
「遅くなる」
「ここにいるから」
カイは計算機を叩き始めた。
窓の外で、帝都の光がバラバラに瞬いていた。その光の中に、何かが静かに動き始めていた。
ミラが百十二頁を開く音がした。
カイは手を止めず、今夜の記録の最初の行を書いた。
「金属片、三ヶ月ぶりに温度を持つ。治安端末に変動。ヴァルクの迂回経路、計算開始。今夜、間に合うか分からない。分からないまま、計算する」
ペンを置いた。
指が、計算機のキーに戻った。




