第十六章 温度を持つもの
三ヶ月後。
帝都の朝は、騒がしかった。
工場は全て再稼働していた。市場は以前より人が増えた。電波塔の光は安定している。腕輪の光はバラバラで、それが今は普通だ。
カイは禁書庫の窓から、帝都を見た。
整然としていない。非効率だ。でも、生きている。
「おはよう。はじめまして」
「はじめましてではない」
ミラが目を擦りながら起き上がる。
布団の足元で、黒い小型犬も身を起こした。一ヶ月ほど前、禁書庫の窓の隙間から迷い込んできた犬だった。そのまま居着いている。出ていく素振りを見せなかった。カイは追い出さなかった。ミラは追い出すという発想を持っていなかった。
ミラが犬を見た。
「おはよう。シロ」
犬は黒かった。耳をひとつ動かして、ミラの膝に鼻先を寄せた。
ミラは毎朝、違う名前を呼ぶ。シロ。クロ。テン。フユ。先週の名前は覚えていない。犬は気にしていなかった。呼ばれれば耳を動かし、撫でられれば目を細めた。それだけだった。
カイは記録書に「犬、本日も在室」と書いた。一ヶ月、毎日同じ行を書いている。書かなくても分かる情報だが、ミラが忘れた朝に必要になる、という判断だった。記録は、ミラが忘れた事実を補完する。
ミラは三番目の棚へ向かった。犬は床に座って、その背を見ていた。百十二頁。
今朝の確認回数、一回。それで十分だ。
カイは記録書を開いた。読み上げる。ミラが頷く。
昨日、セラと連絡を取った。治安端末の設計変更が、第二段階に入っている。ドレスが承認した。進捗は予測通りだ。
昨夜、レムから定期連絡が来た。帝都外縁は静かだ。ゼンの右手の感覚が少し戻ってきた。
ヴァルクからは、何もない。三ヶ月、静かだ。
一時停止と声明を出してから、企業連合の主要メンバーは帝都を離れたままだ。動きがない。だが、いなくなったわけではない。次の手を考えている。カイにはそれが分かる。ヴァルクは撤退しない。合理的な別経路を見つけるまで、待つだけだ。
「ねえ、カイ」
ミラが図鑑から顔を上げた。
「何だ」
「今朝、変な夢見た」
「どんな夢だ」
「鍵みたいなものが光ってる夢。ここにある感じで、でも触れないの」
カイは記録書に書き加えた。「鍵」という言葉に、一拍だけ引っかかった。処理しようとして、保留にした。材料がない。
「夢の記録は、信頼性が低い」
「そうだね」ミラは図鑑に戻った。「でも、なんかすごく鮮明だったから」
カイは計算機を開いた。
今日の作業がある。治安端末の残課題の確認。セラへの技術資料の準備。禁書の記録の更新。
鞄を取った。
布越しに、金属片に触れた。
冷たい。三ヶ月、ずっと冷たい。役目を果たした部品だ。でも、捨てていない。なぜ捨てないのか、答えが出ないまま持ち続けている。
「行ってくる」
「うん。気をつけて」
扉を開けた。帝都の朝の空気が入ってきた。
その時。
鞄の中で、何かが動いた気がした。
カイは立ち止まった。
鞄を見る。動いていない。
布越しに触れた。
金属片が、三ヶ月ぶりに、かすかに温かかった。




