第十五章 それぞれの十日
七塔が止まってから、十日が経った。
帝都の空気は、少しずつ変わっていた。均質だった腕輪の光が、ばらつきを取り戻していた。工場が再稼働し始めた。市場に人が戻り、荷台の音が朝から聞こえるようになった。
だが、完全に戻ったわけではない。
街の隅に、まだ静けさが残っている。人の目に、まだ何かが薄い。七塔が止まった夜を、帝都はまだ消化しきれていない。
それぞれが、それぞれの十日を持て余していた。
レムとゼンは、帝都外縁の廃屋に拠点を移していた。
七塔作戦の後、残火の大半は帝都から散った。ブラスが動けと言った。帝都の中心にいすぎると、次の政府の動きに巻き込まれる。レムたちには、まだやることがある。
廃屋は外縁の第九区画にあった。壁の一部が落ちていたが、屋根はある。雨が入らなければ十分だった。
レムは毎朝、手帳を開いた。
最後のページを見るためではない。最初から読み直すためだった。アイの字。レンの字。交互に並んでいる。初めのページは、ぎこちない問いと返答だ。最後の方は、そうではない。何かが変わっていく跡が、字の力加減に残っている。
読み終えると、閉じた。
ゼンは右手のことをあまり言わなかった。感覚が戻らない日と、少し戻る日があるようだった。外套のポケットに入れたまま動かさない時と、意識して動かそうとしている時がある。見ていれば分かる。でも、レムは何も言わなかった。ゼンが言うまで、待つことにしていた。
「カイのとこ、行ってくるか」
十日目の朝、ゼンが言った。
「禁書庫?」
「どうせ暇だ。帝都の中心に行くなとは言われてないし」
レムは手帳を閉じた。「行こう」
禁書庫への道は、以前より人が多かった。市場の復活で、昼間の人通りが戻っている。腕輪の光が、それぞれのテンポで瞬いている。レムはその光を見ながら、少しだけ息を吐いた。
バラバラだ。以前のように揃っていない。
それが、良かった。
禁書庫の扉は重かった。ゼンが押した。中に入ると、ランプの光と本の匂いがあった。
男が机の前に座っていた。眼鏡。外套。手元に計算機。こちらを見ない。
本棚の奥から、女が顔を出した。白い服。腕輪はない。
「あ、来た」
女が言った。男は計算機から目を離さず、「椅子を使え」とだけ言った。
ゼンがレムを見た。レムも、ゼンを見た。
悪くない、とレムは思った。
タウは歌の仕事を続けていた。
市場の外れの建物の二階。小さな部屋。窓際に椅子が二つ。本が数冊。壁に、父が好きだった花の絵が一枚。
歌の仕事は細い。だが、なくなったわけではない。七塔が止まった後、市場のいくつかの店が、開店前の時間に歌を頼むようになっていた。理由を聞いたことはない。ただ依頼が来るから、行って歌う。それだけだった。
毎朝、窓から帝都を見た。
電波塔の光は変わっていない。腕輪の光はバラバラだ。以前と違う。以前は揃いすぎていた。今の方が、本来の形に近いのだと思う。
父のことを、毎朝少し考えた。
制御核から解放されたと、カイが言った。でも、どこへ行ったかは分からない。どこかにいる。見えないが、ある。そう思えた。
消えない、という言葉が、タウには不思議と怖くなかった。
形を変えて、どこかにいる。見えないが、ある。七塔の夜に父の振動が答えた時のことを、今も覚えている。あの時、父はそこにいた。声ではなかった。でも、確かにいた。
タウは窓の外を見た。
帝都の光の中に、父がいるかもしれない。そう思うと、今朝の市場へ行く気持ちが、少しだけ軽くなった。
歌いたかった。
理由はなかった。ただ、歌いたかった。届くかどうか分からなくても。誰かに聞こえなくても。ただ、声を出したかった。
父が庭の挿し木の前で歌っていた、あの歌を。
タウは息を吸った。
カイは禁書庫に戻っていた。
七塔作戦から十日。毎朝同じ時刻に目を覚まし、眼鏡をかけ、机に向かった。計算機を開いた。
「……ミラ」
本棚の影の白い塊が動く。目を擦りながらカイを見る。零・五秒。
「おはよう。はじめまして」
「はじめましてではない」
記録書を開いた。読み上げた。ミラが頷いた。それから本棚へ向かった。三番目の棚。青い表紙の本。百十二頁。
今朝の確認回数、一回。
以前は三回読んでいた。いつから一回で十分になったのか、計算してみたことがある。計算できなかった。変化は数値で出なかった。
カイは計算機を開いた。今日の作業がある。
七塔が止まってから、帝都政府はオルカン異常の解析協力を禁書庫に求めていた。公式な発言権はない。資料照合と記録の突合だけだ。だが、禁書の記録は要る。カイでなければ読めない記録書が、複数ある。
毎日、政府区画への往復がある。会議がある。数値を見る。照合する。帰る。記録する。
その繰り返しの中に、まだ解けていない問いがある。
鞄の中の金属片が、まだ静かに重かった。
経済端末の地下で拾った、治安端末の制御部品。経済端末の歪みは修正した。だが、この部品がなぜそこにあったのか。答えがまだ出ていない。そしてヴェルタの安全機能は、三端末のうち二つ以上が同時に歪んだ時に発動する。
経済端末の歪みは修正した。治安端末は、まだ手をつけていない。
誰かが、次を待っている。
「カイ」
ミラが図鑑から顔を上げた。
「何だ」
「最近、外の人たちの光が、だいぶバラバラになってきた」
「ああ」
「前の方が揃ってたけど、今の方がいい気がする」
「何故だ」
ミラは少し考えた。「なんかね、今の方が、みんな生きてる感じがする」
カイは計算機から目を離さなかった。だが、指は一瞬だけ止まった。
生きている感じ。数値では出ない観測だ。
「……有用だ」
「そう?」
「ああ」
ミラは図鑑に戻った。カイは計算機を叩き続けた。
窓の外で、帝都の光がバラバラに瞬いていた。




