第十四章 残響
世界が、少し軽くなった気がした。
何かが抜けた感触。騒がしかった何かが、静かに溶けていった。
街の人々が顔を上げた。
誰かが泣いていた。誰かが笑っていた。隣の人間と目が合って、何も言わずに頷いた。
整然とした静けさが消えて、雑然とした、生きている音が戻ってきた。
レムは手帳を開いた。
最後のページ。
もう一人の字で、一行だけ書いてある。
『彼は行きました。自分の足で。』
レムはそのページを、しばらく見ていた。
最初のページから読み返せば、二人がどう変わったかわかる。ぎこちない問いかけから、照れ隠しの返答から、波音の夜から、街並みから。
それが全部、繋がっている。
閉じる時、少しだけ間を置いた。
タウが歌い始めた。
理由はない。ただ歌いたかった。
父が挿し木をしながら口ずさんでいた、あの歌を。
レムはその歌声の中に、知っているようで知らない振動を感じた。
怖くない。
温かい。
目を閉じた。
空に、光の残滓が漂っていた。
七つの塔は静かに立っていた。
唸りが消えていた。
風だけが、街を吹き抜けた。
振動は消えない。形を変えるだけだ。
翌朝
七つの塔は、静かに立っていた。
唸りが消えていた。
それだけだった。世界が変わったわけではない。朝が来て、光があって、人が動いている。ただ、あの低い鳴動がなくなっている。それだけのことなのに、空気の重さが違う。
レムは手帳を抱いたまま、路地の石畳に座っていた。夜明けの冷気が、膝から上ってくる。眠れなかった。眠ろうとしなかった。
手帳の表紙を親指でなぞった。擦り切れた角。インクの滲み。二人分の字。
開かなかった。今は、開けない。でも、捨てられない。
ゼンが横に来て、壁に背を預けた。右手を外套のポケットに入れたまま、空を見た。
「……止まったな」
「うん」
「お前、泣いてたか」
「泣いてない」
「そうか」
それだけだった。二人はしばらく、夜明けの帝都を見ていた。腕輪の光が、バラバラに瞬いている。整然としていない。以前のように、揃っていない。バラバラで、ばらばらで、それぞれに速く、遅く、点滅している。
タウの声が、まだ耳の奥にあった。あの最後の一節が。
(届いた)
届いた、とレムは思った。何に届いたのか、言葉にはできない。でも届いた。アイが最後に選んだことが。レンが手帳に残した字が。タウが声を絞り出したことが。全部、どこかに届いた。
形を変えただけで、消えていない。
「レム」
「何」
「禁書庫の司書、あいつ何者だ」
「分からない。でも、計算した。俺たちが知らないことまで、全部」
「そうじゃなくて」ゼンは右手を外套から出して、少し見た。指先を動かす。感覚が薄い。「なんか、変なやつだなと思って」
「変?」
「怖くなさそうで、怖いような。でも、悪くないような」
レムは少し笑った。笑えた。
「会いに行けば、分かるんじゃない」
ゼンは右手を戻した。「そうかもな」
朝の光が、帝都の屋根を伝い始めた。市場の方から、荷台の音が聞こえる。誰かが歌っている。昨日まではなかった音だ。
レムは手帳を、胸に抱き直した。立ち上がった。膝が冷えていた。それでも立てた。
「行こう」
ゼンが壁から離れた。二人は並んで歩き始めた。
七つの塔が、背後に静かに立っていた。




