第十三章 七塔作戦
夜の街が、静かすぎた。
風はある。灯りもある。人もいる。なのに、音がない。
足音は揃っている。腕輪の光も揃っている。誰も立ち止まらない。誰も、声を出さない。
レムは外套の内側に手を入れた。手帳の角が、掌に当たる。冷たかった。
「……始める」
カイが低く言った。
誰も返事をしなかった。それで十分だった。
■ 中心
塔の内部は、静かすぎた。
音が、ない。
いや。正確には、音が吸われている。
足音が床に触れた瞬間、消える。呼吸も、半分で切れる。空気が、どこかへ流れているようだった。
セナが一歩前に出た。無言で周囲を確認して、頷く。それだけだった。
タウは答えなかった。答えられなかった。
胸の奥が、ざわついている。
(……嫌だ)
理由はわからない。でも、ここは嫌だとわかる。
壁に手を触れた。冷たい。でも、その奥で何かが脈打っている。
ドクン。音じゃない。振動だった。
(これ……)
思い出す。夜。庭。冷たい風。父の手。震えていた。
(同じだ)
タウの喉が、乾いた。
塔の中心。巨大な核が浮いている。光が、揺れている。整っていない。一定でもない。不規則な波。
まるで。
「……苦しんでるみたい」口に出ていた。
セナが眉をひそめる。何も言わない。
(壊れる前の音だ)
理解してしまった。父と同じだ。壊れる前。何かを伝えようとして。でも、伝えきれなくて。ただ、震えていた。
タウは前に出た。「歌えばいい」
自分でも、驚くほど自然に出た。
一歩、進む。足が重い。
(できるのか)わからない。(止まるのか)わからない。(意味あるのか)わからない。
足が止まる。
(無理だ)
外から押し付けられるような重さだった。
それでも、その重さは本物だった。
こんなの。止まるわけがない。自分の声で。こんな大きなものが。
一歩、下がる。(やめよう)
その時。
「……聞いて」
声が出た。最初の一音。弱い。不安定。消えそう。それでも、消えない。
塔の振動が、ぶれる。二音目。崩れる。整っていない。
「……やめて」言葉が混じる。
三音目。広がる。強くない。押し返さない。ただ。触れる。
核の光が揺れる。波が、変わる。
そこで。
声が、落ちた。
一音。消えた。
タウの喉が焼ける。次が出ない。
(……来ない)
沈黙が、戻りかける。
核の光が、また乱れ始める。
それでも。
息を吸う。震える。
「……戻って」
最後の言葉が、こぼれた。
沈黙。一瞬。すべての振動が止まった。
音が、消える。呼吸だけが残る。
その次の瞬間。波が、ほどけた。荒れていた振動が、ゆっくりと整っていく。光が、柔らかくなる。
タウは、立っていた。でも。
声が出ない。喉が焼ける。呼吸がうまくできない。口の中に、鉄の味。
血が、落ちた。
セナが駆け寄る。タウは笑った。うまく笑えていない。
「……止まったよね」
そのまま、崩れた。塔は、静かだった。
消えたんじゃない、とタウは思った。
どこかに、まだある。
その確信が、どこから来るのかはわからなかった。
ただ、ヴェルタの光がその瞬間だけ、白く静かに瞬いた。
了解した、と言うように。
遠くの塔が、同時にわずかに震えた。
■ 手帳
塔の通路は、細かった。
ダリが先を歩く。護衛が後ろを固める。
足音だけが、壁に吸われていった。
曲がり角の先で、気配が変わった。
整然とした足音。複数。赤い瞳。
護衛が前に出た。無言で。
「行け」
それだけだった。
ダリがレムの腕を引く。走る。背後で金属の音がする。叫び声はない。それが余計に、胸に刺さった。
通路の先に、開けた空間があった。
床の中央に、光の柱が立っている。赤い。見ているだけで、胸の奥がざわつく色だった。
「私が壁を作る」ダリが言う。「レムは、ただそこに立って」
レムは頷いた。
光の柱の向こうに、人影が立っていた。
塔が、見せている。そうわかっていても、足が止まった。
何かが、胸の奥へ流れ込んでくる。
外から、来ていた。
息が、止まる。
レンだった。
焦げた外套。あの夜のままの姿で、そこにいた。
声は聞こえなかった。ただ、見ていた。
レムも、見ていた。
手帳が、震えた。
指先から、何かが滲み始めた。光とも熱ともつかない何かが、手帳から腕へ、胸へ、全身へ広がっていく。
レムは何もしていなかった。ただ、立っていた。
手帳を抱いて。失った頁の軽さを抱えて。守れなかった自分ごと、そこに立っていた。
光が、溢れた。
レムの体から、静かに。音もなく。
二つの塔が、同時に震えた。
通路の奥で、足音が乱れた。整然としていた動きが、崩れる。一人が膝をつく。また一人。赤かった瞳が、ゆっくりと色を失っていく。
崩れ落ちる音だけが、遠くから届いた。
人影は、もういなかった。
柱の赤が、少しずつ薄れていく。
ダリが静かに息を吐いた。
レムは手帳を見た。また一頁、白くなっていた。
「……うん」
それだけ言った。
■ 山の塔
山の塔の内部は、静かだった。
外壁の風が届かない。音が、ない。
カイは中央の柱の前に立っていた。
禁書のページが宙を泳いでいる。床に光の円が幾重にも重なっていた。
これが最後だ。
「始める」
誰にともなく言った。
外壁で、金属の音がした。ブラスが動き始めた。
カイは術式を展開した。完璧だった。誤差がない。損失がない。
―――
外壁は、風が強かった。
足元は幅三十センチほどの出っ張りだけだ。下を見れば、灯りの消えた街が遠い。見なかった。
ブラスは支柱の前に立っていた。
四本。順番に断つ。それだけだ。
踏み込む。一撃目。金属が軋む。ひびが走る音がした。
二撃目。「……っ」外套の内側が熱くなる。原振が削れていく。
二本、入った。
―――
その時。術式の中心が、白く濁った。
止まる。
噛み合わない。
カイの指が、止まった。
『統治しろ』
声ではなかった。思念が、直接届いた。
術式の光が変わる。別の解が浮かび上がった。より速い。より確実。より完全。
カイは、その解を見た。
「観測する」
『同じことだ』
思念が返ってくる。議論を求めていた。
『お前は世界の歪みを見つけるたびに、正したいと思っていた。違うか』
カイは答えなかった。否定できなかった。
禁書庫で一人、計算機を叩いていた夜。この世界の歪みを見つけるたびに、正したいと思っていた。効率的に。無駄なく。正確に。
『ならば正せ。完全に。お前の手で』
「……正すことと、支配することは」
『違うか?』
沈黙。
外壁で、また金属の音がした。
―――
視界の端で、景色が変わった。
街だった。別の街。低い家並み。夕餉の煙。子供の笑い声。戻らなかった場所。
もう二十年も前のことなのに、細部まで見える。石畳の継ぎ目。井戸の錆。隣の家の洗濯物。全部、くっきりと。
(また、か)ブラスは目を閉じた。
違う。
いつもと、違う。
鮮明すぎる。まるで誰かに見せられているようだった。
声がした。
胸の奥からではなかった。
外から、来ていた。
『お前の判断が遅かったからだ』 『お前が来なかったからだ』
剣先が、下がる。足がすくむ。
ブラスは奥歯を噛んだ。
わかっている。これは、塔だ。記憶を使って、揺さぶっている。
それでも。足が、動かない。
二十年分の重さは、本物だった。
風が吹いた。その中に、かすかな音が混じった。
歌だった。遠い。かすれている。それでも、消えなかった。
遠くで、仲間たちが動いている。それだけわかれば十分だった。
ブラスは目を開けた。
「……今度は、違う」
誰かに向けた言葉じゃない。塔に向けた言葉でもない。ただ、口から出た。
三撃目。咆哮とともに踏み込んだ。
内部で、カイが動いている気配があった。それだけわかれば十分だった。
―――
違う、と言えなかった。なぜなら、その解は美しかった。否定できないほど、完璧だった。
人間は不正確だ。誤る。揺れる。非合理な選択をする。ならば。より上位の構造で管理した方が、合理的ではないのか。
カイの指が、術式へ伸びかける。
止まった。
頭の奥で、像が浮かんだ。声ではなく、像だった。
ゼンが扉の前で一瞬だけ引いて、それでも進んだ瞬間。レムが手帳のページが消えても手を離さなかった瞬間。タウが震えた声で歌い始めた瞬間。
あの誤差だ。計算に収まらない、ずれた動き。非効率で、非合理で、説明のつかない選択。
『それが何だ』思念が続ける。『誤差は誤差だ。排除すれば、誰も傷つかない』
「傷つかない」カイは繰り返した。「だが」
禁書のページを一枚、破いた。乾いた音がした。
「誰も、選ばない」
『選択が苦しみを生む。ならば』
「苦しみごと、見ていたい」
沈黙。
思念が、揺れた。
「観測したいんだ」カイは続けた。自分でも、初めて言葉にした気がした。「誤差を見ていたい。計算通りにならない動きを。あいつらが何を選ぶかを」
『……愚かだ』
「そうかもしれない」
最後のページを放つ。術式が変わる。
その瞬間。外壁で、咆哮が聞こえた。
―――
最後の一撃。
音が、遅れて来た。支柱が内側から砕ける。塔が、わずかに傾いだ。
遠くで、仲間たちが動いている気配があった。
間に合った、とブラスは思った。
同時に、膝が折れた。剣を支えに辛うじて立つ。視界が揺れる。右の感覚がない。もう次は振れないと、自分でわかった。
夜の向こうで、歌がまだ続いていた。遠くで誰かが、止まらずにいる。それだけがわかった。
ブラスは、剣に体重を預けたまま、ただ立っていた。
―――
塔が、傾いだ。
今だ。
カイは術式を中央の柱へ叩き込んだ。
完璧な制御ではない。暴走だけを切り離して、あとは世界の側へ返す、不完全な解。
その代わりに、禁書の一部が燃えた。黒く潰れていく文字を見ながら、カイは惜しいと思った。喉が焼けるほど、惜しかった。
それでも、手を止めなかった。
術式が落ちる。系が、ほどける。
しかし。
止まらなかった。
白が、濁ったままだった。
噛み合わない。
カイの眉が、わずかに動いた。
「……足りない」
誰かが、まだ動いていない。
■ 機械室(前)
山の塔の通路は、暑かった。
油の匂い。焼けた金属。赤い非常灯だけが明滅している。
ゼンは走っていた。
わざと大きな音を立てながら。わざと叫びながら。わざと、見つかりながら。
「こっちだ、こっちにいるぞ!」
守衛が反応する。一人、二人。増える。
(……来いよ、全部)
廊下を折れる。また折れる。追ってくる足音が増えるたびに、胸の奥で何かが落ち着いていく。
奇妙な感覚だった。
怖くないわけじゃない。ただ、やることが決まっている時の、あの感覚だった。
守衛の刃が肩を掠めた。熱い痛みが走る。構わず走る。
また一撃。脇腹。血が滲む。足が重くなる。
(まだだ)
曲がり角を三つ抜けた。引きつけた守衛の数を、ゼンは数えていなかった。数える必要がなかった。全部、こっちに来ていればいい。
それだけだった。
機械室の前まで来た。
足を止める。
ここだけ、守衛が来ない。
強すぎる磁場が、洗脳された体を弾くのだろう。赤い瞳の群れが、見えない壁に阻まれるように、通路の手前で止まっていた。
ゼンは息を整えた。
(ここなら、一人になれる)
■ 機械室(後)
通路は静かだった。守衛の足音が、遠い。
ゼンは壁に手をついた。息が荒い。肩が熱い。脇腹が重い。
分厚い防火扉。向こうで高圧管が唸っている。継ぎ目から白い蒸気が細く漏れていた。
扉に手をかける。
その瞬間。
手の中で、振動が止まった。
流れが、途切れる。
「……止まった?」
誰もいない通路で、ゼンは呟いた。
塔の唸りが、変わっていた。暴れていた何かが、急に行き先を失ったような音だった。違う。足りない。何かが、噛み合っていない。
(……足りてねえ)
理屈じゃない。直感だった。
タウが歌っている。レムが波動を流している。ブラスが支柱を断っている。カイが術式を展開している。
全部動いている。なのに、繋がっていない。
(俺か)
ゼンは扉を見た。
手を引けば、助かる。
わかっている。一目でわかる。
一瞬だけ、迷う。
その時。背後で、声がした気がした。
「関係ないだろ」
振り返る。誰もいない。
でも、声は知っていた。少し投げやりで、少し呆れたみたいな声。
ゼンは少し笑った。
「……そうだな」
そう言いかけて、止めた。
「偽善が心地いいだけだ」
誰に向けたわけでもない。持論だった。昔からそう思っていた。善意なんてものはない。心地いいから動く。それだけだ。人間の本質なんて、どいつもそうじゃないか。
レムの顔が浮かんだ。泣きそうなくせに泣かない顔。
(レンも、こんな顔を見ていたのか)
「……それでいい」
扉に手を置いた。熱い。
継ぎ目にレンチをねじ込んだ。金属が悲鳴を上げる。もう一度。体重をかける。ずれた。
ほんの少しだけ。でも、十分だった。
隙間から中が見える。剥き出しの赤いチューブ。中心核へ向かって収束する赤い流れ。
(……これか)
手を引けば、助かる。それはわかっていた。
ゼンは深く息を吸った。右手を突っ込む。
瞬間、電流のような衝撃が全身を走った。
骨まで響く。筋肉が引きつる。視界が白くちかちかする。息が止まる。
それでも掴んだ。
滑る。もう一度、血まみれの手で握り直す。
「……っ、ふざけんな!」
全身で引く。びくともしない。もう一度。足を踏ん張る。膝が笑う。歯がガチガチと鳴る。
それでも、引く。
「うおおおおっ!!」
鈍い破裂音。チューブが千切れた。
赤い流れが途切れる。
その瞬間。
何かが、合った。
説明できない。音でも光でもない。ただ、何かが噛み合った感触だけがあった。
遅れて、白い光が走った。
ゼンはその場に膝をついた。全身が痺れていた。右手の感覚がない。左手も震えて動かない。
「……最悪だ」
笑うしかない。
痛みより先に、変な可笑しさが込み上げてくる。生きてる。とりあえず、まだ。
塔の唸りは、確かに変わっていた。止まっていた。
ゼンは少しだけ顔を上げた。
「……なら、いいか」
小さく言って、息を吐いた。
■ 同期
音が消えた。
呼吸だけが残る。
歌が、一音落ちた。波が、途切れる。術式が、止まる。
静寂。
世界が、一瞬だけ止まった。
その中で。
ゼンだけが、動いていた。
鈍い破裂音。
その瞬間。
何かが、合った。
遅れて、白い光が走った。
歌が戻る。波が繋がる。支柱が砕ける。術式が落ちる。
全部が、重なった。
塔が、止まる。
少し遅れて。音が戻る。泣き声。笑い声。怒鳴り声。生きている音。
タウは歌を止めた。レムは座り込んだ。一頁失った重みが、今になって胸へ落ちてくる。
ゼンは動かない右手を見る。苦笑した。ブラスは剣を地につき、ただ立っている。カイは焼けた禁書を閉じ、長く息を吐いた。
誰も、何も言わなかった。
風が吹いた。七つの塔は、今度こそ静かに立っていた。




