第十一章 禁書庫
重厚な扉が閉まった。
背後の音が、遠のいた。
冷たい空気。本の匂い。ランプの光が揺れている。
レムは暗がりに人影を見つけた。
男が本棚の影に座っていた。膝の上に手帳。ペンは、止まっている。
こちらを見ない。でも、気づいていた。
レムは何を言えばいいかわからなかった。
沈黙が続いた。
耐えきれなくなって、口が動いた。
「……ねえ、あのね。時計を見ると、いつも針が重なる時間を見てしまうの」
壁の時計を見たまま、絞り出すように言った。
「カルナにいた時もそう。馬車に揺られて居眠りしていても、顔を上げると、いつも決まってあのお墓がある場所を見てしまう。俯いて手帳を読んでいても、なぜかその瞬間に顔を上げてしまう……」
止まらなかった。
「……レンがいなくなったのも、わたしのせいかもしれない」
声が、細くなった。
「だから見えない何かが私を——」
「人間は傲慢だ」
不意に、男が言った。静かだった。遮るような声ではなかった。
「幸福は黙って受け取る。なのに恐怖にだけは意味を欲しがって、その意味を読み違える」
「……え?」
「お前が顔を上げたのは、何かに呼ばれたからじゃない。馬車の揺れ、光の角度、反響音。そういう断片を脳が拾って、先に答えを出しただけだ」
男はようやくレムを見た。一瞬だけ、ペンを握る指に力が入った。
「ただの恐怖だよ」
少し間があった。
「死者のせいにするな。恨むなら、自分の感の良さを恨め」
レムの声が割れた。
その時。
奥の棚から、本が落ちた。
どさり。
レムが振り返った。
棚の陰から、女が静かに出てきた。足元に本が転がっている。
「カイ。その子、今すごく寒そうだよ」
カイは何も言わなかった。
女はレムの隣に来て、床に座った。
「ダリ」
苗字だけ、言った。
ダリはレムの凍えた指先に触れた。それだけだった。その温かさが、レムの胸の奥まで、ゆっくりと伝わった。
しばらくして、レムは外套の内側から手帳を取り出した。
「……ジイが、これを見せろと言っていた」
カイに差し出す。
カイは受け取った。ページをめくる。レンの荒い字。整った字。交互に並んでいる。
手が、止まった。
眼鏡の奥の目が、一点で動かなくなった。
数秒だった。
カイはページを閉じ、手帳をレムに返した。何も言わなかった。
ただ、眼鏡を押し上げた。
しばらく、誰も何も言わなかった。ランプの火が揺れた。
その夜、全員で外に出た。
禁書庫の脇の石段に、ブラスが先にいた。壁に背を預け、酒瓶を片手に空を見ている。
ランタンがひとつ、足元で頼りなく光っていた。冷えた空気の中で、誰かの息だけが白い。
ゼンが酒瓶を受け取り、一口あおって顔をしかめた。
「……苦っ」
ダリが横目で見た。何も言わなかった。それだけで十分だった。
ゼンは誤魔化すように空を見上げる。
「昼間のあれ、まだ引っかかってんだけど」
誰にともなく言う。
「競技場の竜。あれを剣で真っ二つにしたって実況、どう考えても盛りすぎだろ。物理的に無理だ」
「大きさじゃないから」タウが言った。
ゼンが振り返る。
「剣は、意志を通す道だと思う。大きい刃より、ちゃんと通った方が強い……たぶん」
最後だけ、少し自信がなくなった。
ゼンは少し黙った。「……なんで疑問形になった」
「自分で言いながら合ってるか不安になった」
レムが小さく笑った。気づかないうちに、笑っていた。
ダリがカイを見た。カイも一度だけ視線を返した。
「意志を、形にする道具がある」
ブラスがそこで初めて口を開いた。
低い声だった。酒で湿っているのに、妙に澄んでいる。
「剣は腕の延長じゃない。人の意志を一点に集めるための、増幅器だ」
静けさが落ちた。
カイが古い本を石段の上に置いた。表紙の擦り切れた禁書だった。
「……それと、同じだ」
ランプの火が揺れた。禁書の表紙だけが、かすかに光を返していた。




