11 over the rain
丘上に築かれた石造りの街に、小さな雨が降り注いでいる。
薄い雲間からはところどころ煌めく陽光が覗いていた。
雨雲を縫って差し込む鈍い金色の光はまばらな雨粒と共に地上へと投げかけられ、濡れて艶めいた色の街並みをうっすらと輝かせている。
まだ陽も高い午後。けれど淑やかに落ち続ける雨は人々の喧騒を包み込むようにかき消し、道行く者たちの出足を少なくさせる。
微睡むように、息を休めるように。
その日は緩やかな静けさが街を覆っていた。
椅子に腰かけたグレイシアスは、黙ってその様子を眺めていた。
雨粒を滴らせて落とす木窓と、色のない水底に沈んでいく街。
非番の午後、カナリアの店を訪れた彼は、忙しそうでないことを見て取ると室内の片隅に置かれた席に邪魔をさせてもらっている。向かいの席にはカナリアが座り、薬草の実から種を取り出す作業をしていた。机の上の盆には小さな赤い実の群れがあけられ、白い指がそこから一つ一つを摘まんでは、小さな刃を使って種を取り除いている。
お茶の良い香りが仄かに鼻をくすぐる。
言葉はない。ただ共にいるだけで穏やかでいられる時間が彼らの間には流れていた。二人でこうして過ごすのは久しぶりだった。雨音と静けさにあらゆる感情が溶けていきそうななか、グレイシアスは自身の内側へと思いを巡らせる。
下層の天使の騒動は落着を迎えていた。
殺人者となった男を殺して止めたグレイシアスは、詰所で全てを報告した。
下層の天使が人語を解して動いていたこと。助けを求めて薬師の前に現れていたこと。その天使に扮して男が殺人を犯していたこと。この街で密かに流通している麻薬が発端となったこと――――。にわかには信じがたく、また今となっては証拠もない話だ。同僚を殺したグレイシアスは数日の拘留を受けることになり、取調べを繰り返し受けることになった。
上官たちがどのような判断をしたのかは分からない。
だがグレイシアスはしばらくの後に解放されると、この一件については口外しないよう告げられ、そのまま仕事に戻るよう指示された。
同僚殺しの処罰はなく、またゴーシュの殺人について公表される気配もない。
あたかもその一件がなかったかのように、彼は日常へと戻された。
果たしてこれを終わりと呼んでよいのか。正しさの所在も秘された事件は、彼に心の置き場を与えることなくその顛末を茫洋とさせている。
ただ一つ、あれから天使による下層での殺しは発見されていない。
耳朶に柔らかく染み込んでくる雨の音。
人の猥雑さを拭い去った静かな街並みは、不思議と気分を落ち着かせる。
――――本当は、誰かを助けたかっただけなのかもしれない。
グレイシアスはぽつりと零す。
彼自身、分からなくなっていた戦う理由。
思い起こしてみればそれは、そんな小さな願いがはじまりであった気もする。
自覚などなかった、剣を振るううちに摩耗してしまった胸の内の核心。
下層の天使を巡る一件において、幾人かの心の断片と向き合うことになった青年は、自らのこれまでを思い起こして呟く。
カナリアが手を止め、伏せていた瞼を持ち上げる。
長い睫毛が揺れて、薄い空色の瞳が彼を見やった。
グレイシアスは彼女に多くを語ってはいない。仕事で下層に潜んでいた天使を殺したこと、そして仲間の一人が死んだことを話したのみである。
だが彼女は言葉少なな青年の様子に何かがあったことを察すると、ただ黙って彼と時間を共にしてくれていた。
カナリアは答えることはせず彼の次の言葉を待っている。
グレイシアスは窓辺に目を向けたまま、自分の両親のことを話した。
以前カナリアには幼い頃に流行り病で両親をなくしたと言ったが、本当は違う。母親が天使となり、父親を殺したのだと。無言で家を飛び出して、終わりのない冷えた夜の街を駆けた記憶。天使は天使狩りによって狩られたが、たまたま難を逃れた彼は一人きりになった。生活のために、確実な稼ぎを得られる天使狩りの道を選んだというのはそうだ。
誰かを同じ目に合わせないためにと、そう自覚していたわけではない。
けれど本当はその時から――――思っていたのかもしれない。
こんなことがあってはいけないと。少しでも天使の手から守れる命があるのなら、そのためになら戦えると。
仲睦まじい両親だった。奪われて失われてしまった光景。けれど確かに彼らは幸福に生きていたのだ。たとえ逃れようのない悲劇だったとしても、せめて彼が戦えたなら、何かが違ったのではないか。
今はもう、在りし日の記憶を継ぐのは彼だけだ。
たとえ世界が残酷であろうとも、それは終端を意味しない。
人は生きていける。その存在を許されるのだと、心の底で祈っている。罪悪や絶望とは遠く切り離された安寧の園で、いつか何処かで。
その記憶を諦められない。
その願いがきっと彼を生かして、ここまで戦わせてきた。
グレイシアスは、そこで小さく息を落とす。
それはもう、そこまで大事なことでもないのだ、と。
いまさらそのようなことを思い出したところで、何かが変わるわけではない。
これまでに為してきたことも、これから天使を狩ることも。彼の行いが覆るわけではない。拾い上げたものはそのままに、罪は罪としてありつづける。
どうあれ彼は現実を歩いていかねばならないのだ。
重く苦しく、不変であるこの世界を。
この先の苦難を越えていくのに、思い一つはささやかに過ぎる。
その徒労が、彼には少しだけ……辛かった。
悲鳴と疑念の澱みの中で剣を振るって。
血に汚れるうちに抱えていたものも忘れてしまって。
それでも天使を狩り続けてきた。
はじまりの記憶を塗りつぶし、反して自分が積み上げてきたものは何だったのか。手の届くことのない夢想。彼が救い出したかったはずの骸の山。
彼の剣は守りたかったものよりも、常に多くのものを失わせていく。
そしてこれから先も、その苦しみは永遠であるだろう。
気づけば遠いところに来てしまったような郷愁。悔いはない。だが回顧する全てに言い得ない喪失が埋め込まれている気がして、青年は瞳に影を落とす。
彼の戦う理由はとうに、この手のうちから逃げ去っていたのだ。
できるのは、鋼と血を刻む天使狩りであることだけだった。
大切な友だったものを。かつて誰かと愛し合っていた者を引き裂いていく。
はじめから、そしていつか斃れる日まで。
己の求めるものさえ忘れて刃を振るい続けるのなら、それは。
殺したくない。だが殺した。
いつだってそうだった。
助けられるのなら、助けたかったのだ。
あの天使も。天使狩りであった男も。
思いの全ては、言葉にするには黒々とした情念を孕み過ぎる。とつとつと、唇から漏れ出たものだけを声にして話すグレイシアスへと、カナリアは髪を揺らして首を振った。
わたしは分かっている、と。
グレイシアス。あなたはずっと、みんなを守ってくれていた。
分かってるよ。あなたはそういう人だって。
グレイシアスはそっとカナリアに視線を向ける。
彼女は訴えかける眼差しで彼を見ていた。
会ってすぐに気づいたよ。あなたはとてもまっすぐな人。傷つけるために、殺すために戦ってるんじゃない。他の人のために戦ってる人なんだって。
静かで、しかし透徹した力を秘めた断言。
グレイシアスは微かだけ口元を緩めて苦笑した。声もなく目を閉じる。
そうなのだろうか。自分ではもう分からない。
不思議な話だ。彼自身が忘れ去っていたことなのに、カナリアには彼がそう見えたのだという。彼は間違ってなどいなかったのだと。
疲れ果てた老人のような顔で俯く青年へと、カナリアは悲しげに眉を曇らせる。小さな唇が結ばれ、そっと手が伸ばされた。
娘の手のひらが青年の頬に触れる。
傷になること、考えないで、と彼女は自身が寂しそうな顔で囁く。
あなたのせいじゃない、と。
誰かと争うことになっても。誰かを助けられなくても。あなたは悪いことなどしていない、と娘は静かに、けれど感情の杯が溢れそうな声音で告げる。
あなたのしてきたこと、無駄なんかじゃない。
わたし、あなたがみんなを大切にしてくれてたこと、知ってる。
それは慰めであり、本心であり、そして真実の欠片でもあるはずだった。
青年は小さく頷いてみせる。目を閉ざしたままの彼を前に、カナリアは続けて口を開きかける。細い喉が息を吸い、空色の瞳が痛みを堪えるように滲む。
グレイシアス。あなたは――――。
だがその先の言葉は発されることなく途切れた。娘の視線は彼の顔を見つめ、そこから虚空を彷徨うと力なく伏せられる。
滑り落ちて離れていく手のひら。
躊躇いの沈黙を遠くからの雨音が埋める。
声にされない思いは何であったのか。
言葉にすることが相手を裏切る感情ならば、それは不要なものなのか。
彼女からの思いであれば何であれ受け取りたいと思う。だが噤むことを選ばれたそれは、伝わらぬ空白としてそこにある。見つからぬ鳥であり、知られない花として。瞼の裏の暗闇を見えない雨が浸していく。
ややあってから、娘は静かに彼の名を呼んだ。
そうして、彼女のなかにある真実の形を確かめるように口にする。
あなたは、もっと楽になって良いと思う、と。
その言葉に、彼は震えるように肩を揺らす。
全てを忘れてか、と小さく問い返すと、しかしカナリアは首を横に振った。
そうではないと思う、と。忘れるのではない。忘れたくないことも、忘れられないことも、たくさんあるだろうから、と娘は考え考えに語る。
でもね、とカナリアは一つ息をついて言った。
でも、許してあげてほしいの。
彼はゆっくりと目を開く。言われたことがよく分からなかった。
許す――――自分が、いったい何を許すというのか。何を許せるというのか。
これまでの出来事をか。自らの行いをか。それともこの街そのものをか。いずれにしても彼には重すぎ、また意味のない行為だ。彼一人が許しても、それはその気になっただけのこと。現実の罪深さがなくなるわけではないのだから。
何を許すのか、と彼はカナリアを見やって問う。
孤独を揺らめかせる瞳を、娘は見つめ返して答えた。
あなたのことを。
あなたのために、自分を許してあげて。
それは明確なようで漠然とした答えだ。
グレイシアスは困惑して眉を寄せる。
彼自身を許す、とはどういうことなのか。
それは今までの行いを妥協して受け入れる、ということなのか。
あるいは自らの非力さを認めて諦める、ということか。
どちらも無理な話だ。気の持ちようで過去を清算できるわけではないし、彼自身、そんなことはできそうにないのだ。ああするしかなかったのだと、仕方がないのだと、そう全てを片付けてしまうことは。
けれど何か大事なことを言われている気がして、彼は目を伏せる。
許す――――何を。彼が、彼自身を。
潜るような思考は手が届きそうなところで何もつかめず止まってしまう。
自分のことであるのに、いつもそれが知れないままだ。
分からない。俺には、難しい。
結局彼は、そう言って小さくかぶりを振った。
差し出された思い。手に取って確かめたい感情。
そこにあると分かっているのに、それらには触れられない。これまで路傍の花の多くを、そうして見送って通り過ぎてきたように。
カナリアがそっと溜息をつく。それから微笑んだ。
仕方がなさそうに――――それでも少しだけ、はにかむように。
彼にはその意味も分からない。
ただ覚悟を決めたような、不思議な強さのある瞳が鮮やかに映る。
彼女は立ち上がると、窓辺へと歩み寄った。雨音と光の差し込む前に立ち、そこで彼を振り返る。娘の顔を美しい陽光が明かす。穏やかな声が紡がれた。
グレイシアス。覚えておいて。
いくらあなたが自分を責めても、どれだけ迷うことがあっても。
あなたの良いところ、綺麗なところ、わたしはたくさん知ってるの。
言葉で彼らの生きる景色が変わるわけではない。
だが幾多の苦痛が咲き溢れた現実にあって、その光景は清冽だった。
窓際の柔らかな光の幕のなかで、娘は微笑んでみせる。
わたし、あなたのそういうところを守りたいと思う。
だから安心して。
悲しいこととか、つらいことは考えなくてもいいの。
わたしと一緒にいれば、あなたは大丈夫。
優しい断言。そこに込められものは決意であり、確信だ。
カナリアに澄んだ微笑を向けられて、その迷いのなさにうたれて、グレイシアスは静かに息を飲む。微かに見開いた視界に、知らず熱が滲んだ。
彼女のくれた言葉、その全てを理解できたわけではない。
カナリアの言う、彼のそういうところとは何なのか。なぜ大丈夫なのか。核心を遠ざけて包み込んだかのような言葉は、風に舞う花雨のように手の内をすり抜けていく。
だから伝わるものは、純粋な彼女の意思だけだ。
彼が譲れないと信じたのと同じ、思い一つ。
彼が戦うと決めたのに等しいだけの祈り。
それを彼に、ただ振り向けてくれたのだということは分かった。
根拠などない。
そこにどれだけの意味があるかも知らない。
欺瞞と苦痛に溢れた街。醜いものばかりが真実である世界にあって、しかし彼女の微笑みは紛れもなく本物で――――それだけでいいと思えた。
はじめから何かを間違えていた気がして、青年は胸をじわりとした熱で焦がす。
気付いていなかっただけなのかもしれない。
苦しみの多寡は、問題ではない。
誰もが痛みを抱えている。孤独に喘いでいるのは、皆がそうだ。
それと同じだけの記憶と、願いを捨てられずにいることも。
たとえ無辺の荒野で震えていても、絶望の石につまずいても。
誰かが繋ぎとめていてくれるなら。
この寂しさが自分だけのものでなかったことを、憶えていられたなら。
自分もいつか行き着くべき場所へと、歩き続けることが出来るのかもしれない。
傷だらけでも、息を切らせても、生きてさえいればいつかきっと。
立ち上がれる。越えていける。
彼女となら、そう信じられる気がする。
微笑むカナリアは、彼を勇気づけるように小首を傾げてみせる。
胸の奥に灯る熱。込み上げるその温度に、彼は細く震える息を吐き出す。
空恐ろしいほどの安堵が満ちる。
何故だろう。彼女にはいつも守られてばかりだ。
ありがとう、とそう言って、彼は綻ぶように微笑んだ。
穏やかに会話を交わしながら、彼らは日が傾くまでを共に過ごしていく。
取り立てて意味があるでもない、ささやかなやりとり。娘からもたらされる小さな話題に、グレイシアスはできるだけ丁寧に自分の思いを返していく。聞く者を安らげようとする低い青年の声と、貴方といられて嬉しいと伝える綺麗な娘の声。時にくすくすとした笑い声と、小さな苦笑の気配が生まれ、くつろげる色調の室内を彩る。ふとした沈黙の狭間に視線が絡まると、カナリアは微笑む。
次の休みの日に、あの丘に行こうと彼は言った。
手帳の詩を見せたいと言うと、カナリアははじめ驚き、そして溢れんばかりの笑顔で大きく頷く。はしゃぎながらも良いのかと訊く彼女に、彼は頷いた。
今まで彼の書いたものを見せられなかったのは、信じていなかったからだ。
カナリアをではない。彼自身のことをだ。
叶うはずもないと思っていた。いつかどこかでと思いを宛てた夢想の泡。それがどれだけ無価値で儚いものか、本当は分かっていたから。
けれどそれでもいいのだと思わされた。
彼が諦めないでいることを、赦してくれる人と出会えたから。
知ってほしいと思ったのだ、とグレイシアスは穏やかに笑む。
彼の見ていること、思っていることをもっと彼女に知ってほしいと思う。
そして彼女の考えていることも知りたい、と。
そう伝えると、カナリアは珍しく目を泳がせて俯く。白皙の頬に赤みが差した。
それから顔を上げて、ただ微笑んで嬉しげに頷く娘を見て、グレイシアスは――――次に会うときは彼女のための言葉を用意しようと、そう思った。
風のない日。穏やかな気配に息を潜める家々。
丘上の街を、ひとときの静寂と安息が覆っている。
煌めく陽光の差す中で、淑やかな雨は降り続いている。
それは罪悪を抱えた街を、柔らかく洗い流していった。




