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楽園  作者: 八塚
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12/12

12 nowhere, somewhere


 カナリアと丘に行く非番の日は数日と待たずやってきた。

 二人で出かける時は、できるだけ丘上で時間を過ごすために午前中のうちに丘へと向かう。そこで昼までカナリアが薬草の手入れをし、終わったら昼食を共にし、ゆっくりと過ごしてから日が暮れ始める前に丘を降りるということがよくある流れとなっていた。

 カナリアを迎えに出る時間を待つ彼は、自室の木窓を上げる。

 よく晴れた朝の空は、これからも晴天が続くであろうことを伝えていた。

 根拠もなく、良い一日になりそうだ、と彼は思う。

 不思議と清々しい気分。こんな気持ちで空を見上げることなど随分と久しぶりな気がした。柄にもなく浮かれているのかもしれない、と彼は思う。


 グレイシアスは部屋の中を振り返る。

 飾り気のない部屋。質素な寝台といくらかの本と雑貨が詰められた小物棚、衣類掛けと天使狩りの剣。実用的なものばかりが目立っている、その隅に置かれた机の上には便箋が開かれており、それだけが彼の部屋の中で精彩をもって誇らしげに見えた。

 普段彼が書くものといえば手帳への詩の書き付けばかりだが、今日は手紙を渡そうと思っていた。初めて会った時の彼女の花かごの紙片を思い出したのだ。あの書き付けが彼とカナリアをまた出会わせてくれたように、彼も彼女に何か言葉を贈りたいと、そう思った。

 手紙にはできるだけ素直に、彼女への感謝の言葉を記してある。


 彼女は文字があまり読めないと言っていたが、そこは言葉にして伝えればいいと思っていた。手紙はただ渡すだけでいい。彼の思いが存在する証として。

 ありのままの彼女への気持ちを言葉にする時のことを考えると気恥ずかしさが先に立つ。けれどそれよりも今は、自分の気持ちを伝えておきたいという思いの方が勝っていた。彼女と共にいられることへの喜びと感謝。彼女のことが大事だと、大切にしたいという気持ち。それらはきっと伝えて、残しておくべきものだという確信があった。

 彼女はどんな顔をするだろうか。笑顔を見せてくれるだろうか。

 むず痒いような感覚に襲われて、便箋を見やる青年の目元は緩む。


 そのとき不意に、彼の頭にじわりとした痛みが走る。

 青年は窓枠に手をついて、もう片方の手でこめかみを抑えた。

 内側からの滲むような痛みに知らず顔を顰める。

 この一日、二日で時折感じるようになった頭痛だ。風邪でも引いたのだろうか。だがその割に体の方は何ともない。カナリアに言って薬を貰った方がいいのかもしれない。

 青年が痛みを堪えているうちに、頭痛はゆっくりと波が引くように収まっていく。しばらくじっとしていると、鈍い痛みは消えてなくなった。まるで初めから存在しなかったかのような空白だけが残される。それもまたこの頭痛ではいつものことで、彼は怪訝さに首を傾げた。

 窓の外に目を戻し、平穏な中層の街路に目をやる。

 

 体に触りが出ないのならそれでいい。

 ここしばらくは休みを返上して下層の天使を探していたあげく、最後には詰所で数日の尋問まで受けることになったのだ。

 その疲れが出ているのかもしれなかった。

 いつそれがやってくるか読めないのが面倒ではあるが、それよりも今はカナリアに会えないかもという不安に襲われたことの方が嫌だった。せっかく約束しているのに、体調を崩して出かけられないのでは困る。

 まだ市場が開くか開かないかの時間。

 しばらく外を眺めて朝の澄んだ空気を取り入れていた彼は、しかしやがて外から鐘の音が聞こえてきたことに顔色を変えた。


 重苦しく鳴る鐘の音。それはこの街の安寧が破られたことを意味している。

 グレイシアスの脳裏に、こんな日にという行き場のない苦々しさと、今すぐにでも出なければという焦燥感が過ぎる。今までとはどこか違う約束の日。そのまま鐘の音を無視してカナリアを迎えに行きたいという欲が、ないといえば嘘になる。

 だがその考えをグレイシアスはすぐに打ち消した。

 足早に室内を横切り、鎧代わりでもある天使狩りの外套を手早く羽織ると、剣を掴み取って自宅を駆け出していく。

 天使が出たことを無視して迎えに行ったとして、カナリアが笑ってくれるとは思えない。何より彼自身が嫌だった。このまま鐘の音を聞き流せば、彼女と過ごしている間、今まさに天使が誰かを殺しているかもしれないと、そう考えることになるだろう。それは彼の望む時間とは程遠いものだった。

 非番の日ではあるが、鐘の音が聞こえたなら関係はない。

 それは常日頃からそうであり、そして今日この時もそうだった。

 彼が行くことで仲間や街の者で、手遅れにならずに済む命があるかもしれない。いつものように、青年は鐘の音を辿って石畳の街路を駆けていく。


 鐘の音は同じ中層の市場のある方角から聞こえていた。

 聞こえる響きからしてもそれほど遠くはない。

 体力を使いきらないように、それでも出来るだけの速さで彼は走っていく。

 遠すぎる場合はどれだけ急いでも他の天使狩りが戦いを終わらせている。だがこの音の聞こえ方ならばそうではないと経験が告げていた。彼が介入できる位置取り。早く走れればその分だけ間に合う可能性が生まれる距離だ。

 これから人出が多くなっていく時間。

 微睡みの残滓が打ち払われ、人の活気が漂い始める空気。

 まだ朝の頃合いにある街並みは、だが力を増していくはずの日常の気配よりも先に、どろりとした粘性の気味の悪さによって支配されつつあった。血臭に似た本能的な忌避感が周囲の光景へと塗り広げられていく。空気を伝染していく死への恐れと、体が冷たく濡れていくような緊張はこの街の人々のものか、それとも彼自身のものなのか。上がっていく息と鼓動の音が、答えのない問いを思考の隅に追いやっていく。


 民家が中心に寄り集まる区域を縫うように駆け抜ける。

 ほどなく周囲に小売の商店が混じり始め、道幅の広い通りも増えてくる。顔をこわばらせて路地裏を足早に逃げ去る人々とも次第にすれ違うようになった。

 やがて天使狩りのものであろう男の怒声が通りの先から聞こえて、彼は駆ける脚を早めた。最後の曲がり角を折れて、グレイシアスはその場にたどり着く。

 商店ばかりが立ち並ぶ大通りの中央。荒らされた雑貨が道脇に散らばっている。地に伏した骸が目に映る限りで三つ。死体から流れ出る血が石畳に染みを広げている。

 人通りはすでに絶えている。閑散とした沈黙。

 剣を構えた三人の天使狩りが天使を取り囲んでいた。自らの前に立つ二人の背へと駆け寄りながら、彼は剣を抜き放つ。

 祝福するように響き続けている鐘の音。

 天使の顔が見えた。


 欠け落ちる。

 光の色が。

 温度が。

 音が。

 思考が失われる。

 剥がれ落ちていく。

 あらゆる感覚が崩れ去っていく。

 現実から。

 彼の目にする世界から。

 静かに立ち尽くす華奢な細い体。

 それを飾る白い服。まだらな赤黒い色に染まった裾。

 淑やかに靡く白銀の髪。

 おどろおどろしい一対の羽根。

 血の跳ねた白い頬。綺麗な横顔がこちらを向く。

 無表情のその顔は、彼が誰よりも知る娘のものだった。


 ――――どうして。

 ――――どうしてだったのだろう。


 グレイシアスは、その立ち姿を見つめる。

 呆然と、目を見開いて。何も考えることさえできず、ただ見つめている。

 よく分からぬ短い掠れ声だけが、彼の喉を通って零れ落ちていった。

 駆け寄ろうとしていた足が腑抜けたように緩まり動きを止めた。剣を構えようとしていた腕がだらりと落ちる。

 全てが失われた永遠。もはや手遅れとなった現実の眺め。

 立ち尽くして息をするだけになった体を、空白の思考が支配した。


 剣を構える天使狩りの片方が肩越しに彼をちらと振り返って、短く呼びかけてくる。

 来たのか、手強いぞ。

 その声にも青年は反応しない。

 ただ全ての感情が抜け落ちた顔で天使を凝視している。会いたかったはずの人、もう会えなくなってしまったそれを、ただ見つめている。

 なぜこのようなことになっているのか。

 時が巻き戻ればこうならずに済むのか。

 そのようなことを考えることすらできない。

 今は全てが彼方だ。閉ざされた泉の奥底に沈んでしまったかのように、周囲がくぐもっている。静かに視線を向けてくる娘の瞳を、他の全てがなくなった世界で彼は見つめ返す。見つめ合っているというのに、そこにいるというのに、もはや何も返るものがない空虚。悪い夢を見ているかのように断絶している。もうあの声を聞くこともないだろう。綺麗な鈴が鳴るように、小鳥が優しく囀るように彼を呼ぶ声。

 二人だけの世界で、足場さえ溶け落ちていきそうな感覚のなかで、彼にとって唯一のものが失われてしまったことだけが確かだった。


 おい――――おい、何してる。

 その忘我はどれほどだったのか。怒号で彼は目を覚ます。

 上がっていたはずの息は、すでに落ち着いていた。

 グレイシアスは別の朝に目覚めたような気分で、のろのろと仲間に視線を返す。緊迫した面持ちを浮かべ、一向に返事をしない仲間への苛立ちを滲ませて振り返った相手は、そこではじめてグレイシアスの表情を見てぎょっとした顔になった。

 お前、と愕然と呟いたその男は、彼の視線を追って天使となった娘を改めて見やる。それから顔を険しく歪めて、苦々しく嘆息した。もう片方の天使狩りもつられて振り返り、グレイシアスと娘の顔を確認すると、まったく同じような顔つきになる。


 この天使狩りたちの顏に、グレイシアスは見覚えがあった。

 そういえばいつだったか、詰所で話したことがあった気もする。回らない頭の片隅で、何故かこの場ではどうでもいい理解だけが進む。

 彼らもこちらのことを覚えていたのだろう。

 事情を察したらしい天使狩りたちは、だが無論のこと己の役目を放棄することはしなかった。片方が押し殺した声でグレイシアスに告げる。

 羽根が出ちまったんだ、やるしかない。

 もう一人も剣を構え直した。小声で口早に呼びかける。

 気の毒だが発症したんだ、恨むなよ。


 言葉を交わす間に、カナリアの奥にいた天使狩りが踏み込む。

 天使となった娘を間において反対側に位置していた男は、相手の視線がグレイシアスたちの方に向いている隙をついて接近した。

 剣を掲げ、出来得る限りの速さで距離を詰める。

 だがその試みは、失敗に終わった。

 天使が背後の異変を察知して振り返る。異様な速さで娘の背後の羽根が動く。

 近づいた男の剣を片方の羽根がしなって弾き飛ばす。

 そしてその一息で、もう片方の羽根があっさりとその胸を貫いた。

 断末魔のうめき声。崩れ落ちる体。天使は再びこちらへと向き直る。

 くそ、と傍にいた天使狩りが罵倒を漏らす。

 男は死した仲間へと報いるようにその場を飛び出した。もう一人も後を追って駆け出していく。彼らの手に持つ刃が鈍い光を放って天使へと迫る。


 天使狩りたちは左右から息を合わせて天使へと打ちかかった。

 白木の枝のような羽根が大きく広がり、それらをすげなく打ち払っていく。

 大人の男が振り下ろす斬撃を、だが天使の羽根はそれ以上の力と速さで留めていた。人外の見切りの速さで振るわれる羽根が、男たちを切り裂こうとする。天使狩りたちは時に体勢を崩されながら、時に天使の体の寸前まで切っ先を届かせながら、その場に踏みとどまって剣を振りかざし、隙を生み出そうとする。

 二人がかりで進んでは退き、激しく交わる剣と白枝の羽根。

 耳障りな鉄の音と、同等の硬さを持つ羽根が削れる音が通りに響き渡る。

 グレイシアスは動けない。握った剣先はうなだれて地を向いている。ただ眼前の争いを力なく眺めることしか出来なかった。仲間たちの勝利も、天使が生き延びることも、どちらも願うことも出来ず、その場にいることしか。

 広がる一対の羽根の動きが、急激に捻れて振り回される。

 天使狩りたちの剣を弾いて横殴りに振り抜かれた羽根が、そのままの動きで反対側の天使狩りを狙った。旋回するように鋭く弧を描いた羽根。その勢いに対応できず、片側の天使狩りの体が下から大きく切り裂かれる。もう一方の天使狩りも肩口を貫かれた。

 宙に舞う血の飛沫。増やされる躯。

 片側の天使狩りが無言のまま地面に頽れて倒れ、もう一人のうめき声が上がる。

 くるりと。羽根の動きにつられて緩やかに娘の体が回る。


 傷を負った天使狩りはふらつきながらも通りの隅まで下がると、がくりと膝をつく。苦痛に顔を顰め、荒い息をつきながら天使を睨んだ。

 だが天使は動かないでいる。手傷を負わせた天使狩りへと踏み出すのでもなく、他のどこかに逃げ去ろうとするでもなく。

 無表情に立ち尽くして、こちらに視線を送ってくる。

 ――――彼を待っているのだと、グレイシアスには分かった。


 前に出る。足に力はない。ただ前へと踏み出す。

 どうしてそうしなければいけないのかなど分からない。

 忘れてしまった。失われてしまったのだ。それでも前へ。

 行かなければならない。彼女が待っているから。

 まるで幽鬼のような歩み。よろよろとおぼつかない足取りで、グレイシアスは娘へと近づいていく。天使は動かない。ただじっとその場で彼を見つめている。

 互いの顔が良く見える位置まで来て、彼は足を止めた。

 話をするための距離ではなく、到底抱き締められる距離でもない。すでに天使の羽根が届く間合いの内側であることだけを、冷たい体が伝えてきていた。

 ふいに天使から数歩離れた足元に、何かが落ちていることに気付く。

 彼女がいつも使っていた手提げの籠。そこからは数冊の紙本が覗いていた。

 いつか彼女が言っていた。いつか彼女と話をした大通り。

 ――――通りすがりに気にしてみて。わたしも……


 彼は顔を歪めると彼女の名を呼ぶ。

 天使は答えない。娘の背後の羽根がざわりと波を打った。

 突き出される羽根の刃。それを彼は寸でのところで顔を反らして躱した。右頬に一筋の赤い血の線が引かれていく。

 まだ息のある天使狩りの怒声が聞こえた。何してる。

 グレイシアスは黙って娘の顔を見つめる。もはや物言わぬ娘の顔を。

 覆ることのない現実。為すべきことは明らかだった。

 ゆっくりと、腕を上げて彼は剣を構えた。


 いま胸にこみ上げるものが何なのか分からない。

 寂しさ、苦しさ、そしてやりきれない愛おしさが混然となった感情の渦。

 小さく息を吸って、震えそうになる唇を彼は開く。

 カナリア。大丈夫だ、と彼は呼びかけた。

 俺は――――覚えている。


 なぜそんなことを言ったのか、彼自身分からない。

 他に口にしたいことはいくらでもあるはずだった。

 殺したくないという嘆き。彼女の中に、彼との思い出が僅かでも残っていないのか呼びかけたいという気持ち。彼がどれほど彼女を失いたくないと思っているか。

 だが気が狂いそうに吹き荒れる感情の中で、口にしたそれだけが、いまこの場で辛うじて掬い上げることの出来た唯一だった。

 人は皆、他の一人一人と約束を交わしている。

 意識せずとも、されていても。たとえ言葉によらずとも。

 最も大切なことだけは、決して違えることのないように。

 その履行を、それを手向けの言葉にして、彼は剣を掲げた。

 息を飲み込み、歯を噛みしめて地面を蹴る。


 すでに相手の羽根が届く間合いだ。

 青年の踏み込みに反応して天使の片翼が動く。

 横殴りに襲い掛かってきた右からのそれを、グレイシアスは己の長剣を切り上げて弾いた。駆ける足は止めない。さらに肉薄する間に、もう片方の羽根が彼へと振り下ろされる。返す剣筋で彼は剣を振りかざし、その一撃を防いだ。力任せに相手の羽根を押し切り、そのまま一息に最後の距離を詰める。

 半ば捨て身ですらある突貫。身を守ることなど、はなから考えていない。

 それは無心であったのか、覚悟であったのか。ただ青年の足運びはそれ故に、他の天使狩りが踏み込むことを為しえなかった至近まで彼と天使を近づけていた。

 剣の届く位置にカナリアを捉える。

 一度は弾いた片翼が再び迫ってくるのを感じる。

 これでは間に合わない。

 こうすべきではないと、彼にも言われていたのに。

 だが届く。せめて相打ちに。

 殺せ、と天使狩りの声が大きく響いた。

 無表情の彼女とすぐ傍で目が合う。


 殺したくない。殺さなければ。

 死なせたくない。死んでしまいたい。

 楽しかった。悲しかった。

 彼女と一緒にいられたことが、嬉しかった。

 とても幸福だった。

 きっと、愛しいと思っていた。

 冷えた冬の日、手の内の杯の温もりにそっと安堵するような時間。

 なのに今が、これほどに苦しくて辛い。

 その苦しみが、それよりもずっと彼女を恋う心が、溢れて頭の芯を染める。

 一瞬のうちに無数の感情が去来して押し寄せた。

 腕に力を込める。色とりどりの花束を差し出すように。

 そして彼の剣は、娘の胸へと深々と埋まる。


 柔らかな感触だった。鼓動さえ伝わる近しさ。

 彼を貫こうとしていた羽根は、彼に届く間際の背後で動きを止めていた。

 どうして間に合ったのか分からない。

 頬を熱い涙が伝っていくのを感じる。

 立ちすくむ天使に肩口から寄りかかるように、青年は刃を貫かせていた。

 伝えたい思いがあった。共にしたい時間があった。

 今ならまだ間に合うだろうか――――そんなはずもない。

 あの時間は、きっともう逃げ去って戻らない。

 全てが潰えた。彼の手でそうした。そうするのだ。

 娘の体にはまだ息がある。まだ熱がある。まだ、死んではいない。

 彼は震える息を吐く。血の伝わる剣をカナリアの体から引き抜いた。

 崩れ落ちていく体。噴き出る血が生暖かく彼の体を染める。地面へと倒れ伏して折れ曲がった体は、それ以上動くこともなく息絶えた。

 それで終わりだった。

 見開かれた空色の瞳が、もはや何を拒むことなく虚ろに地を映している。

 ゆっくりと広がっていく血溜まり。彼女の色へと染まっていく石畳へと、彼は全ての力を失って膝をついた。剣の柄が手の内を滑り落ちていく。

 石畳に転がる刃の音は、誓いが打ち捨てられる音に似ていた。

 彼は声もなく静まり返った心で、死したカナリアの顔を見つめる。


 思い出されるのは、何故か幸福な記憶ばかりだ。

 彼の声を呼ぶ鈴のような声。優しげに、労わるように。

 振り返って微笑む顔。あどけない、だがどこか大人びた。

 救われてばかりだった。もっと多くを返したいと思っていた。

 守りたいと思っていたのだ。今でもそう思っている。なのに。

 彼は目を伏せて、終わりのない回顧へと思いを沈める。


 どれほどそうしていたのか、彼には分からない。

 気がつけば周囲に喧騒が戻って来ていた。

 肩を叩く仲間の天使狩りの声。彼らを遠巻きにする人の群れ。

 不意に悲鳴が上がる。嘆きと狂乱に満ちた女の声。

 グレイシアスは疲れ果てた目でそちらを見やった。

 カナリアの友であった薬師の女。そう、友であった、だ。今はもはやそうではない誰か。彼女は人だかりから数歩をよろめいて踏み出すとがくりと膝を折る。失われた娘の名を呼び、悲痛さを訴えて涙を流す。

 彼はそれを呆然と眺めている。かける声もなく、言の葉の余地もなく。

 咽び泣いている女。その悲嘆が怒りへと変じるのは一瞬だった。

 女の顔が憎悪に歪む。思い出したように、人から獣に変じるように。

 震えて上げられる人差し指が、彼の顔を指す。


 ◇


 人里離れた丘の上には誰の気配もない。

 息を飲むほどの花園と美しい虚空だけが広がっている。

 無数に揺れる白い花の狭間で、青年は娘を待っている。

 もう決して訪れることのない相手。彼が最も会いたいと願う相手を。

 琥珀の瞳の視線は、ただ茫漠と前へと投げかけられている。

 手には封をされた便箋が掴まれていた。彼女へと渡すことのできなかった手紙だ。片膝を抱えた腕の先で、それは花々と同じ緩やかさで風に揺れている。


 一人で丘に登るのは初めてだった。

 約束が果たされずとも訪れたいと思ったのだ。

 もういなくなった彼女の面影を求めて。

 広く吹き渡る風の音。葉々が擦れて囁くざわめき。カナリアのいないここは、ひどく静かだった。彼女の不在をなおさら強く感じる。


 寂寥はじくりとした痛みを伴って彼を苛む。

 それでいいと、青年は無表情に花園を眺め続けている。

 彼女のいた光景をなぞること。その喪失を確かめること。それらはどちらも同じことであり、そうすることだけが、いまの彼にとって唯一であったから。

 自傷に似た時間。無言で身動きもしない青年の気配は静まり返っている。

 けれどその心のうちには、いまだ切り分けられない感情が渦巻いていた。固く結ばれた口元。抑えきれない感情の波に、微かにまなじりが細まる。


 衝動の強さは怒りにさえ似ていた。

 彼女が失われたこと。そこに向ける悲嘆。彼にとってのそれは決して、沈み込んで時を停滞させるような陰鬱な感情ではなかった。

 もっと狂おしく渦を巻く思慕。叫ぶような情念の嵐だ。

 それは激しい炎のようでもあり、全てを凍てつかす冷気のようでもある。


 どうにもならなかったことだ。

 彼にはどうすることもできなかった。

 この街の者は誰でも、いつでも天使へと変じてしまう可能性を秘めている。

 ある程度年を経た天使狩りなら皆、察していることだ。

 連綿と続いてきた不条理。彼女の死は、だから特別なものではない。

 だがそれで片付けられるほど、単純ではなかった。軽くはなかったのだ。

 彼女の命も。彼女が生きていたという事実も。彼女へと向ける思いも。

 失われていいはずがなかった。

 もっと苦しむことなく、生きて、笑って――――。

 人が赦されているというのなら、誰よりもそれにふさわしいはずだった娘。

 だが彼は、そうしてやることはできなかった。

 募るばかりの感情が肺を満たして、体の内側で飛沫を上げる。

 誰かを守りたいと思いながら血で贖うことしかできずにいる、その愚かしさに縛られながら生きてきた。それが彼女を殺した。これからもずっとそうだ。

 どうしようもなく報われない覚悟は、果てなく続いている。

 そんな彼へと、だがカナリアは微笑んでいた。大丈夫だと。

 身を裂くような背反。捨てられぬ約束と、捨ててしまった願い。

 彼女が尊んだ不自由のなかで、終わってしまった時間に焦がれている。

 今でも、会いたいと思っている。


 揺れる花々のなかで娘の白い幻影が振り返る。

 首を傾げて、いとけなく微笑む。

 彼の名を呼ぶ声は、耳元に強く残響している。

 思い出される彼女の言葉は優しいものばかりだ。

 理解がやってきたのは不意のことだった。

 ずっと不思議に思っていたのだ。カナリアが時に掴みづらく、彼を困惑させるような言い回しをすることを。それは単に、どこか浮世離れした彼女の性格ゆえかとも思っていた。けれどきっと、そうではなかったのかもしれない。

 おそらく彼女はいつも、傷にならない言葉を選んでいたのだ。

 だが真実を語ろうとするとき、そこにはどうしても棘が含まれる。

 現実は残酷なものだから。悲しみを避けては生きられないから。

 本当に大切なことを語ろうとするとき、そこには痛みが伴ってしまう。

 だから彼女は限られた言葉で語ったのだろう。

 彼が思い返した時、呪いにならないように。

 いつか彼が一人になっても大丈夫なように。

 それが彼女の優しさであり、向き合った者の記憶への真摯さだった。


 ひと際、強い風が丘へと吹きつける。

 白い花びらを巻き上げて、ただ座り込む青年のもとへとやってくる。

 花園を押し流すようなそれは、彼の指先から一瞬で手紙を浚っていった。大切な気持ちが綴られた白い便箋は、青空へと舞い上げられて消えていく。

 もう二度と出会うこともないだろう。せめて思いは届くだろうか。

 過ぎ去ったそれを見やることもなく、青年は顔を伏せ、唇を噛む。

 またじくりと、見えない心が血を流す。


 グレイシアスはそっと目を閉じる。

 瞼の裏で、カナリアが微笑んでいる。

 ――――泣かないで、グレイシアス。

 輪舞を踏むようにくるりと回る体。

 優しく彼を見つめる空色の瞳。

 ――――もしそうなっても、迎えに行くから。

 大丈夫だ。忘れない。ずっと。

 羽をもがれた鳥のような苦悶。

 血の滲む感情に目を閉ざして、グレイシアスは唇を噛む。

 解き放たれた罪人の庭で、閉ざされた記憶の園で。

 彼らは永遠を共にする。約束は決して違えられない。


 白く咲き誇る雪花の丘。

 伝えたいだけの言葉を抱えて、青年は娘を待つ。

 陽が落ちるまで、待ち続けた。


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