10 and a rugged night
鐘のように鳴る金属音とともに、銀光が散る。
眩い月下、二振りの剣は互いの殺意を伝わせて交錯した。
狭い路地裏で入れかわり立ちかわり、互いの刃を振るい、避けては受けて。苛烈な舞踏で地を鳴らして、彼らは至近の距離で相争う。
グレイシアスは息を詰めると、腕に力を込めて剣身を走らせる。
鋭い弧を描いて相手の男の腿を狙った刃は、だが断頭台のように堅固に振り下ろされた剣身によって激しく弾かれる。破裂を思わす衝撃音。痺れそうな手応えに気を取られる暇もなく返す刃が迫った。彼がそれを弾き返すと、ゴーシュが浅く息を吐き出す呼気が聞こえる。
剣戟に訪れる空隙。引かれて構えられる刃。
次の瞬間、グレイシアスの顏めがけて剣先が突き出される。
風を巻く刺突。それをグレイシアスは寸前で首を反らして避けた。片頬を歪めて男の体へと剣を振るう。一瞬遅れて、おぞ気が背筋を伝っていく。
人外ではない、人との殺し合い。
それはグレイシアスにとってほとんど初めての経験である。
世から隔絶されたこの村には外敵が攻めてくることがない。何かしらの法を犯した者と相対する時も、そのやりとりは一方的に天使狩りが制裁を加えることがほとんどだ。つまりは訓練された兵と、対等に剣を交える機会など存在しない。
ゴーシュにとってもそれは同じなはずで、しかし男はこの戦いにおいて、すでに彼を上回っているようであった。
夜気を両断して振り抜かれたゴーシュの剣を、己の剣の戻しが間に合わない青年は身をよじって避ける。すでにこれで四度、偶然と言える所作で斬撃を凌いでいる。拮抗しているように見えたとて、その危うさは埋めがたい差であることを、彼はとうに理解していた。
元よりゴーシュは要領のよい人間だ。
訓練で刃を交えた時も、その多くは男の勝利に終わっていた。
剣というよりは、おおよその物事において秀でているのだ。
それはグレイシアスがずっと思っていたことだ。自分のようなはぐれ者との接し方においても、他者の悪意を受け流す術においても、世慣れていたはずの男。
一方で自身の剣の腕がそれほどではないことを、グレイシアスは自覚している。彼の持つものは単なる経験による身のこなしと、愚直な鍛錬の積み重ねでしかない。
――――いや、この力量の差はそれだけのものではないのか。
間断なく襲い掛かるゴーシュの剣を捌きながら、彼の思考に影が差す。
人殺しも厭わぬという殺意。
道を踏み外した逸脱が、人外としての度合いが、この差を生んでいるのか。
そんなはずはない、と己を叱咤してグレイシアスは奥歯を噛んだ。
重ねられる斬撃。男の足捌きはこちらの隙を踏み砕いて近づく。
相手の剣を弾きながらも、グレイシアスは二歩を、そして三歩を後ろへと後退していく。押し込まれつつあることを悟って、彼はひと際力を込めて剣を振るった。
相手を突き放すための一撃。
だがそれを男は、己の剣身によって巧妙に受け流す。間合いを取ろうとするグレイシアスの動きにぴたりとあわせて踏み込みながら、つづけざまの刃を振るう。
避けきれない斬撃が、グレイシアスの腕を切り裂いた。
伝わっていく赤黒い滴。一瞬の空隙が生まれる。腕を庇う青年と、血に濡れた自らの剣をわずかだけ見やった男は、だが容赦も見せずそのまま踏み込んでくる。
黒い風音を伴って振りかざされる剣。
押し殺された声が、吐く息に混じって聞こえた。
お前の連れも、薬師だったな。
安心しろ。すぐに後を追わせる。
グレイシアスは目を見開く。
叶わぬかもしれぬ相手。自分が死ぬだけではないという絶望。
毒のような呪いに全身が熱くなった。歯噛みしながら彼は剣を振るう。
この男はもはや下層の薬師を見境なく殺すつもりなのだ。そこにはカナリアも含まれている。
彼女の店で、丘の上の花園で、共に過ごした時間が脳裏をよぎる。
振り返って微笑むカナリアの姿が、閃光のように思い描かれて消える。
負けられない。
どうしてもこの場で死ぬわけにはいかない。
彼女は絶対に失われてはならない人間だ。
誰にも心を任せられないと、そう思っていた彼を変えた娘。
無邪気で、どこかで孤独を抱えていて。
だが何よりも他者の心に真摯で、相手を慈しめる人間。
はじめてだったのだ。このように綺麗な人間がいるのだと、手折られず守られるべきものがあるのだと感じられたことは。
彼女のような人がいるのなら、いつか、何処かで、きっと――――。
そう心の奥底で、信じられたから。
決意と思考は、剣風の唸りの狭間に断片と散っていく。
天使狩りである青年と、かつてはそうであった男。
彼らの剣戟は数十合にもわたって続けられていく。互いに退くことのない攻防は、時に速度を変え、もつれあって路地裏を少しずつ移動し、だが近しい距離のまま休みなく激しく繰り広げられた。
グレイシアスが振り下ろした剣を、男は半身になって躱す。返礼として首を薙ぎに来た斬撃を、彼は寸でのところで刃を掲げて防いだ。じくりと痛む腕。痺れそうになる手指。青年は痛みを振り払って下段から剣を切り上げる。だが男はそれもあっさりと身を反らして避けると、刃を振るってくる。
男が縦横に振るう剣を、グレイシアスは堅実な剣筋と咄嗟の動きでどうにか凌いでいき――――だが常に相手が優位であった戦いには、やがて限界が訪れた。
グレイシアスの振るった刃を、男は己が剣で受け止める。
拮抗する力。だがゴーシュは次の瞬間、一歩を踏み込むとそこで刃を外した。
口内の囁きでさえ聞き取れる距離。互いにまともに剣も振るえぬ至近だ。次の斬撃に備えて間合いと剣を整え直そうとする青年に、だが男は肘うちを喰らわせる。
打たれたのは顎か、それとも首筋だったのか。
不意打ちにグレイシアスの視界は白く染まる。頭を突き抜ける痛みに前後も分からなくなった。大きくよろめいて呻く青年へと、追撃の刃が振るわれる。
グレイシアスは咄嗟にその場から飛び退いて逃れたが、とてもそれ以上の抵抗は出来ない。動きの鈍った彼にゴーシュは大股で近づいた。
胸を蹴り飛ばされて、青年は地面を転がる。
苦しげに咳き込む音が路地に響く。
荒い息をつきながらうずくまって両手をついたグレイシアスは、揺れる視界の中で辛うじて頭を持ち上げた。
月光は眩いほどに地を照らしていた。無情に輝く月を背に、男が近づいてくる。無表情の彼は数歩先で腕を上げるとこちらに剣先を向けた。
終いだ、と淡々とした声が零される。
突きつけられる現実。覆せぬ実力差。
宣告された終わりを、だが受け入れることなどできるはずもなかった。
グレイシアスはあちこちが傷みを訴える体に力を込める。剣はまだ握っている。動けぬほどの深手を負ったわけでもない。まだ立てるはずだ。
意志とは裏腹に彼の体は言うことを聞かない。
鉛のように腕が重い。胸が痛い。乾いた喉が空気を求めて喘いだ。
――――急がねば斬られる。
溺れるような意識のなか、夜の振り子だけが揺れている。
今ここで動かなければ、何も残せない。カナリアも助けられない。
喉からひときわ激しい咳が零れる。乱れた呼吸とせりあがる息苦しさの狭間で、彼は剣を地面に突き立てると、どうにか片膝を立てた。己の未熟さと愚鈍さを恨みながら必死の目で男を見上げる。
最後まで抵抗しようとする青年に、男は双眸を細める。
不快なものを見るでもない、彼を蔑むでもない、ただの不理解の色。
命を賭する理由などこの場にまるで見出せないのにという、いっそ憐れみの瞳で、ゴーシュは彼を見下ろした。もういいだろう、と子を諭すように口にする。
グレイシアス。全部忘れて楽になれ。
こんなことには何の意味もない、と。
答える余裕はない。彼は再び立ち上がるために、とにかく懸命に息を整えようとする。力の差によって声を封じられながらも、彼は胸の内だけで呟く。
たしかに、そうなのかもしれない。
意味などないのかもしれない。
この街を守ってきたこと。天使を狩ってこの街を長らえさせること。
自分が正しいと信じてきたこと。許せない何かに抗うこと。自分がカナリアと出会ったこと。彼女を守りたいと思っていること。
そのために戦おうとしていることも、すべて。
このように生きて傷を負うことに、つまるところ価値などないのだろう。
彼が今までに殺してきた多くの天使たち。彼らと同じように、彼自身も屍となれば、無数に積み上げられた死体の中に加わる。それだけの話だ。
だからといって、戦うことをやめるわけにはいかない。
彼は大きく息を吐き出すと、固いつばを飲み込んで男を睨む。今ここで戦おうとしているのは、きっとそのような価値や、意味のためではない。
他者を納得させられるような理由などではない、もっと別の。
理屈より前にある感情でしかない。
突き詰めれば――――彼は、ただ諦められないというだけだ。
カナリアと過ごした日々が、脳裏に浮かんで消える。
たとえ何も為しえなかったとしても。
どれだけの悪辣が満ちていたとしても。
それだけが全てではない。それで全てが終わりにはならない。
人は、人が生きる世界は、決して残酷さだけで象られているわけではないはずだ。こんな世界でも、きっと――――。
言葉より先に胸にこみあげた情念の塊。
それは一瞬のうちに沸き起こった怒りのようで、だが何よりも腑に落ちた。彼はよろめきながらも膝に力を入れて立ち上がると、剣を上げる。
少しだけこみ上げた可笑しさを、グレイシアスは喉奥で飲み下した。
このような時に、このような場所で自覚するなどとは笑えない。
つまるところ彼が戦う理由など、ただの我儘なのだ。
ただ彼自身が、そうしたいというだけの話。
まだこの世界を、自分たちを信じていたいというだけの身勝手さだ。
冷え切った牢獄のような、救いがないような世界でも。
かけがえのないものが、綺麗なものがあるはずだ。
正しく幸福に生きることを、許されるはずだ。
今ではなくとも。この屍が積もる街の中でも。
いつか、何処かで、きっと――――。
勝てる見込みがあるから戦うのではない。
誰かを説き伏せるだけの正しさがあるわけでもない。
身勝手で、けれど自分が信じた思いだけは捨てられない。
今はそれでいいと思った。
――――負けないで、と。
そう彼女は言ったのだから。
迷いを踏み越えて、息を切らせながらも天使狩りは剣を構える。
枯れ果てても捨てられぬ花。
願いであり記憶。
それこそが人の思惟であるが故に。
再び立ち上がった青年を、ゴーシュは無言で見やっていた。
襲い掛かることはせず彼の再起を許した男は無表情で、そこからは何も読み取れない。ただ何かを推し量るかのような沈着さだけが漂っている。
荒げていた息が少しずつ落ち着いてくると、耳元に夜の静けさが戻ってくる。
全部忘れろと言ったな、とグレイシアスは呼びかけた。
声は乾いて罅割れていて、自分のものではないようだった。久しぶりに言葉を発した気がして、そこに奇妙な違和感を覚えながらも彼は続けた。
だったらあんたはその人を、忘れられるのか。
すでに亡く、取り戻せない者に対する問い。
ゴーシュは眉に険を乗せて首を振る。
意味のないことだ。あいつは死んだ。もういない。
グレイシアスは正面から男の瞳を見つめて反駁した。それでも俺たちは、
あんたは、生きなければいけなかったはずだ。
踏み込みは、言葉を言い終えるのと同時だった。
地を蹴った青年と男の剣戟が再開される。
グレイシアスが打ち込んだ剣を、ゴーシュは斬り払うと逆に剣を振るってくる。重い怨念を乗せた声が耳元をよぎる。
何のために生きるというんだ。それこそ意味がない。
かもしれない。だが全てが無為でも、せめて誰かがそれを。
覚えていなければ、とグレイシアスは言った。
彼の剣は男に届かない。繰り出した斬撃はあっさりと避けられ、弾かれる。一方でゴーシュの剣筋は脅威を保っていた。男の思うまま感情を乗せて振りかざされる刃。堅実の域を出ない青年の剣筋を突き崩しながら、剣の才に恵まれた男は小さく鼻で笑う。
下らん。覚えるだと。それでどうなる。
残る。誰かの中に、俺たちがここにいたことが。
たゆまず振りかかってくる刃。それをグレイシアスは弾きながらも後ろに押し下げられる。動きを制約されながらも身を守る彼へと、ゴーシュは躍りかかるようにひときわ大きく剣を振るった。相手の懐に飛び込みながらの強烈な一撃。激しい金属音が鳴り響く。
それが無意味だというんだ、と男は怒気を込めて叫んだ。
はじめから全てが無意味なら、残ったところで何になる。
全てを殺して終わりにしてやる、と吠えながら男は剣を押し込んでくる。
憎悪そのものかのような斬撃の嵐。
グレイシアスは出来る限りの冷静さと、今までに身に着けた剣への忠実さでそれを凌いでいく。手傷を負った腕が激しく痛んで、彼は顔を歪めた。
自分の言い分が理に合わないことは分かっている。
他を踏みつけにしては、過ちを重ねていく人の愚かしさ。
だからその記憶を残したいというのは、彼の我儘だ。
それを望まぬ者もいるのかもしれない。今のゴーシュのように。
救えなかった人間を儚んで、救いきれぬ人の性に絶望して――――そうして全てを無かったことにしてしまえたら。
そうだな、終わりにするのが正しいのかもしれない、と。
苦悶の息を吐きながら青年は漏らした。この街も、俺たちがしていることも。何も残さないのが良いのかもしれない。
それは一つの真実だと、彼は思う。
許されぬ殺戮も。度し難い衆愚も。
正しさで計って清算してしまうのが、潔い在り方ではあるだろう。
――――だとしても。
青年の掲げる刃は最低限の動きで、致命となる斬撃だけは身に受けぬよう弾いていく。半ば自らの血臭に溺れながら、それでも最後まで失われない光を湛えた瞳が男を射抜いた。
だとしても、あんたは残してやるべきだったんじゃないのか。
訴えかける声は、互いに切り結んでは離れる剣戟の狭間に響く。
剣を振るいながら疑問を表情によぎらせた男に、青年は吐く息で告げた。
その人の気持ちを。
その人が、あんたと生きようとしていたことを。
精神に走る亀裂。狂熱が打ち消される。
男は瞬間、微かに忘我して目を見開く。
取り戻せぬ追憶。朽ちるだけの思い出。交わした約束は何だったか。
振りかざされていた剣先が、虚空に惑って行き先を探した。
グレイシアスの剣がそれを大きく外に弾く。
曲がらず基本に忠実でありつづけた刃は、二度と訪れぬであろう相手の隙にも揺るぎない剣筋を描くと――――そのまま男の体を斬り伏せた。




